東京都交通局6000形電車 (鉄道)
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東京都交通局6000形電車(とうきょうとこうつうきょく6000がたでんしゃ)は、東京都交通局にかつて在籍していた都営地下鉄三田線用の通勤形電車である。
同局の路面電車(都電)「6000形」と区別するため、「都営地下鉄6000形」と呼ばれることもある。
本項では、インドネシア鉄道会社(PT. Kereta Api)で運用中の元・6000形についても記述する。
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[編集] 概要
日本の鉄道車両で初めて補助電源装置に静止形インバータ(SIV)を採用した。車体構造は外板にステンレス鋼を用い、骨組みは普通鋼を用いるセミステンレス車両である。内装も関東の鉄道では初めて木目調の化粧板が採用された。20m4扉車体、制御装置は超多段制御、主電動機出力100kWといった点に営団(現・東京メトロ)5000系との類似性が伺える。
1968年(昭和43年)12月27日の都営地下鉄6号線(三田線)開業と同時に運用を開始した。
当時は東武鉄道東上線と東京急行電鉄との相互乗り入れを予定していたため、各車の全長を20mとし、暫定開業のため4両編成で配備された。
1972年(昭和47年)の6月30日の巣鴨~日比谷間の開業時より6両編成となった。なお、設計時は8両編成を想定していた(3・4号車が欠車)。
東武鉄道と相互乗り入れを行う予定であったため、運転台は東武の通勤形電車(8000系)と同様に地上線での万一の衝突事故を考慮した高運転台構造とし、警笛も東武と同様に両先頭車で音が若干違うものを採用した。
長年にわたって三田線の専用車両として運用されてきたが、1993年(平成5年)6月22日より後継車両の6300形を導入し、置き換えが開始された。置き換えは翌1995年(平成7年)で一旦中断したが、1999年(平成11年)12月3日のATC/SR化と翌2000年(平成12年)9月26日からの帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)南北線・東急目黒線との相互乗り入れの開始に合わせて同年8月10日よりATO/TASCによる自動運転とホームゲート[1]を使用開始するとともにワンマン運転を行うことになり、6300形への統一が決定したので、1999年~2000年に置き換えを再開し、1999年11月28日までに本形式を完全に置き換えた。当初の計画では過去に三田線との乗り入れ計画があった東急池上線や東急多摩川線が実施しているホームセンサー方式でのワンマン運転を構想していたこともあり、6300形投入と同時に本形式を改造して継続使用することも検討されていたが、1990年(平成2年)6月にホームゲート方式に決定し、そのホームゲートの位置との問題やATOの精度の問題、また改造費が同形式の購入費用に匹敵することが判明した結果、同形式に置き換えることを選択した。
[編集] 現状
三田線での営業運転は終了したが、現在でも一部編成が譲渡車として以下の鉄道会社で使用されている。
その他、特異な例としてはインドネシアへ政府開発援助として無償譲渡されてジャカルタ近郊で運行されている。輸送費などはインドネシア側が負担した。詳細は後述する。
また、東京消防庁立川消防施設に訓練用として車体短縮改造・座席改造を受けた車両と、群馬県館林市の高田産業に倉庫としてこの切断分(東京都八王子市の京王重機整備経由)が残存している。また、千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘」にも2両が静態保存されている。
[編集] 製造年度による相違点
[編集] 1次車
志村(現・高島平)~巣鴨間の開業用として4両14編成(56両)を投入した。日立製作所と川崎車輛(現・川崎重工業)で製造した。運用終了後も一部車両が現在も熊本電気鉄道へ移籍している。車体の帯色は当初「赤」であったが、1972年からのラインカラー選定時に順次「青」に変更された。冷房改造は考慮されていなかったが、6121編成のみ冷房が取り付けられた。6141編成は冷房を搭載しないまま1999年まで予備車として残存した後、千葉県佐倉市の「佐倉草ぶえの丘」で2両が静態保存されている。
[編集] 2次車
1972年に巣鴨~日比谷間の開業用として6両9編成(54両)と1次車編成の6両化用に28両の計82両が新製されている。この車両からは屋根のモニターが高くなった。冷房改造が当初から可能な設計であり、また新造当時から青帯であった。なお、製造メーカーはアルナ工機(現・アルナ車両)、日立製作所、日本車輌製造である。運用終了後も一部車両が秩父鉄道と熊本電気鉄道へ移籍している。
[編集] 3次車
1973年の日比谷~三田間の開業用に6両3編成(18両)がアルナ工機で新製された。ただし外見は2次車と変化はない。なお、現在秩父鉄道5000形として運用されている本形式は2次車の一部とこの3次車である。
[編集] 4次車
1976年の高島平~西高島平間の開業用として6両2編成(12両)がアルナ工機で新製された。1~3次車との相違点は、戸袋窓が廃止され、中央部には冷房装置が設置できるように準備工事が施された。同年に登場した浅草線用の5200形との共通点が多い。また、新宿線用10-000形にも戸袋窓がない車両として新製することとなる。冷房改造もこのグループがトップで行われた。なお、側面の端に行先表示枠が設置されていたが、使用されることがなく廃車となった。
[編集] その後の変化
1988年秋頃に側面のみであった青帯を正面前照灯にも回り込むように変更した。また1989年春からは一部編成を除いて冷房化と車体修繕(B修繕)も開始した。改修内容は以下の通り。
- 化粧板を白ベースに薄茶の模様付きに張り替え、側扉は車内側もステンレス地のままとなった。なお、初期車のうち増結車の一部は行われなかった。
- ワイパーを空気式から電動式に交換。
- 冷房装置は6271・6281編成は集中式、6121・6151~6261編成は分散式2台が設置された。冷風吹き出し口はいずれもラインデリア方式である。
車体修繕に関しては志村車両工場(当時)にて京王重機整備が出張工事の扱いで担当している。現在でも秩父鉄道5000形と熊本電気鉄道6000A形の車内で京王重機の銘板を見ることができる。また1993年度より東京都のシンボルマークである「いちょう」が先頭車の前面と側面に貼り付けられた。
[編集] インドネシアでの元・6000形
インドネシア鉄道会社(PT. Kereta Api)に譲渡された車両は、ジャカルタ首都圏の通勤電車で使用されている。冷房装置を装備していることなどから、現地では特別料金を徴収する急行列車(Ekspres)での運用が中心であり、三田線時代には存在しなかった8両編成もある。
また、2002年から2004年にかけて中間車6両が各年2両ずつ現地で先頭車に改造された。この先頭車は流線型の非貫通構造であり、原型の6000形のものとは全く形態が異なる。また改造年次により前面形態がそれぞれ異なる。
後年、多くの編成は帯を橙色に変更され、先頭車にはカウキャッチャー(排障器に相当するもの)が装備された。セルポン線対応車は緑帯とされ、原型の青帯車は消滅した。
なお、デポック車庫でのメンテナンス支援込みでの元・東急8000系・8500系の投入が進行しており、ほかにも東日本旅客鉄道(JR東日本)から103系、東京地下鉄(東京メトロ)から5000系、東葉高速鉄道から1000系がそれぞれインドネシアへ送られていることで、本形式の運用機会は相対的に減少している。
ボゴール線系統の急行からは多くが撤退し、普通列車に相当するエコノミー(Ekonomi)系の運用への転用が進んでいる。
[編集] 関連商品
[編集] 関連項目
[編集] 参考サイト
- JABOTABEK RAILNEWS インドネシア現地レポート
[編集] 脚注
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