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北極海航路 - Wikipedia

北極海航路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヨーロッパとアジアを結ぶ北極海航路。青線はスエズ運河・マラッカ海峡経由の一般的な航路、赤線はユーラシア大陸の北を回る北極海航路(北東航路)
ヨーロッパとアジアを結ぶ北極海航路。青線はスエズ運河マラッカ海峡経由の一般的な航路、赤線はユーラシア大陸の北を回る北極海航路(北東航路)

北極海航路北方航路、ほっきょくかいこうろ、Northern Sea Route、NSR、ロシア語:Се́верный морско́й путь、ローマ字での転記例:Severnii Morskoi Put)は、ユーラシア大陸北方(ロシアシベリア沖)の北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路。

北極海を通りヨーロッパアジアを結ぶ最短航路のうちの一つで、ヨーロッパから北西に向かい北アメリカ大陸の北を周って大西洋と太平洋を結ぶ「北西航路」と対をなす。20世紀初頭以前のヨーロッパでは、ヨーロッパから北東方向へ向かいアジアに至るために北東航路(Northeast Passage)と呼ばれていた。ロシアにおける呼称は「北方航路」であり、「Severnii Morskoi Put」の各単語の頭を採って「セブモルプーチ」(Sevmorput、Севморпуть)と略される。

この航路の大部分は北極海で、氷に妨げられないのは年間2ヶ月のみであり、残りの期間は海氷流氷などに覆われ航行不能となる。しかし近年、全地球的な気候変動により北極圏が温暖化し、北極海の海氷の範囲が縮小し氷結する期間も減っているため、航行可能な期間が長くなりつつある。

目次

[編集] 歴史

[編集] ロシア北方の海路

ウィレム・バレンツの航海。氷に閉じ込められ動けなくなった帆船
ウィレム・バレンツの航海。氷に閉じ込められ動けなくなった帆船
バレンツの作成した北極海地図
バレンツの作成した北極海地図

ロシア人の北極海航路開拓への当初の動機は、経済的な理由であった。ロシアでは、大西洋と太平洋をユーラシア大陸の北方で結ぶ航路があるかもしれないという仮説が、1525年に外交官ゲラシモフによって提唱された。しかしこれより前に、白海沿岸に移住したロシア人の開拓民や商人(ポモール)が、早くとも11世紀ごろから北極海沿岸の航路の一部を探検している。16世紀から17世紀にはアルハンゲリスクからエニセイ川河口に至る航路が確立された。北極海航路の先駆的存在であるこの航路は、東の終点に当たる交易地マンガゼヤの名を採ってマンガゼヤ航路(Mangazeya seaway)とよばれており、ポモール商人たちが短い夏の間にこの航路を往復してシベリアで採取される毛皮セイウチのキバなどを運び、アルハンゲリスクでノルウェーやイングランドやデンマークの商人たちに売った。

一方、16世紀から17世紀には、ヨーロッパ北部諸国(イギリスオランダデンマークノルウェー)が相次いでロシア北方の海を探検した。当時、喜望峰周りやメキシコ経由など、インド中国とヨーロッパを結ぶ海路はスペインポルトガルが押さえていたため、後発の諸国は最短距離となるはずの北極海経由の仮説上の航路を見つけようとしていた。ロシア・シベリア北方の「北東航路」探検は、北アメリカ北方の「北西航路」探検に劣らず熱心に行われ、羅針盤や天測儀など航行用器具の発達がこれを後押しした。探検は全て失敗に終わったが、この過程で北極海に浮かぶ島々が次々と発見された。

特筆すべき北東航路探検は、オランダ人航海士ウィレム・バレンツによる1596年の航海である。彼らはノルウェーの北方沖でスヴァールバル諸島ビュルネイ島を発見し、ノヴァヤゼムリャの北端を周ってカラ海に入った。しかしノヴァヤゼムリャ北東岸の越冬地で船が氷に閉じ込められ脱出できず、一行は翌年夏に船を捨てボートで南に向かった。多くはロシア本土に辿り着き生還したものの、バレンツはノヴァヤゼムリャで落命した。

またイギリスでは、1551年セバスチャン・カボット、ヒュー・ウィロビー卿、リチャード・チャンセラーがスカンジナビア沖を通りロシアへ至る貿易路や中国へ至る北東航路開拓を目指し「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands)を組織した。これは1555年、最初の勅許会社「モスコヴィ会社」(ムスコヴィ会社、モスクワ会社)へと発展した。ヒュー・ウィロビー卿らは1553年に自らロシアへ向かう探検隊を組織して船出したが船団は嵐ではぐれ、ウィロビーの船は1554年にラップランド北部の湾で氷に閉じ込められ、そのまま全滅した。副官チャンセラーの船は白海からロシア本土に到着し、チャンセラーはモスクワの大公に謁見することができた。チャンセラーは1555年再度ロシアへ航海し中国への航路を探るものの、1556年にイギリスへ戻る際に乗艦が難破し落命した。モスコヴィ会社はモスクワ大公国との貿易を独占する傍ら、17世紀初頭にはヘンリー・ハドソンらを北極点やシベリア沖に向かわせた。

ロシアはイギリスやオランダが北極海に進出してシベリアへ浸透し勢力を確立することを恐れ、1619年に死罪をもってマンガゼヤ航路の航行を禁じた。航路の閉鎖後ポモールの交易活動は停滞し、マンガゼヤの町も1662年の大火の後に放棄された。

[編集] 東シベリア沖の探検

17世紀、ポモールに代わってコサックが東シベリアへ進出し、レナ川ヤナ川インディギルカ川コルィマ川など大河を下って北極海の河口に至りそこから帆船(氷の多い北極海の航行に適した断面や形状をした「koch」と呼ばれるもの)で別の大河の河口へ航海するという探検を繰り返した。1648年にはセミョン・デジニョフとフェドット・アレクシーヴがコルィマ川河口から東へチュクチ海を進み、チュクチ半島を周って太平洋側のアナディリ川河口へと往復した。これはアジアとアメリカの間が陸続きでないことを証明する発見であったが、この功績は長年忘れられたままとなる。

ロシア帝国の地図(部分、1745年)。北極海沿岸の海岸線が判明しつつある時期の地図
ロシア帝国の地図(部分、1745年)。北極海沿岸の海岸線が判明しつつある時期の地図

デジニョフの航海から80年後の1725年から1730年にかけて、デンマーク生まれのロシア海軍軍人ヴィトゥス・ベーリングが聖ガヴリール号(Sviatoy Gavriil)でデジニョフとは逆向きに東から西へ航海を行った。彼はシベリアを横断しオホーツク海を渡ってカムチャツカ半島に着き、ここで聖ガヴリール号を建造した後、1728年夏に北へ出航してチュクチ海に至り、アジアとアメリカの間に海峡があることを確認した。この海峡は彼の名を採ってベーリング海峡と呼ばれるようになった。またデジニョフが確認していた海峡中央部の島もベーリングが再発見し、ダイオミード諸島と名づけた。

1725年から30年の航海は、ピョートル大帝が命令した「カムチャツカ探検」(大北方探検)と呼ばれる大きな探検計画の一部であった。第2回カムチャツカ探検は1733年から1743年にかけて行われた。ベーリングと副官アレクセイ・チリコフは聖ピョートル号と聖パーヴェル号の二隻でアメリカ大陸を目指した。二隻は嵐ではぐれ別行動をとり、聖ピョートル号のベーリングたちは最初にアラスカ海岸を視認したヨーロッパ人となり、聖パーヴェル号のチリコフたちは最初にアラスカに上陸したヨーロッパ人となった。チリコフはロシアに帰還したが、ベーリングは途中で病没した。

ベーリングとチリコフとは別に、第2回カムチャツカ探検には他のロシア海軍軍人も参加した。セミョン・チェリュスキンらは陸路でタイミル半島の海岸を調査し、1742年5月、タイミル半島の最北端の岬に到達した。この岬がユーラシア大陸の最北端で、北東航路の最北端でもあった。彼は北東岬と名付けたが、現在はチェリュスキン岬と呼ばれている。

1764年にはロシアの大科学者ミハイル・ロモノーソフが北東航路探検を計画し、ワシリー・チチャゴフが3隻の艦隊でアルハンゲリスクを出航したが航路発見はならなかった。1785年から1795年にかけて、エカチェリーナ2世の命令で英国海軍軍人ジョセフ・ビリングス(Joseph Billings)とロシア海軍軍人ガヴリール・サリチェフ(Gavril Sarychev)がオホーツク海側から北東航路を探検し東シベリア・アラスカ・アリューシャン列島の詳細な海図を作成した。1820年代にはフェルディナント・フォン・ウランゲル、ピョートル・フョードロヴィチ・アンジュー(Piotr Fyodorovich Anjou)、フョードル・ペトローヴィチ・リトケ(Fyodor Petrovich Litke)らが東シベリア沿岸を調査し、1830年代にも調査活動が行われた。

[編集] ヴェガ号の航海成功と航路の商業利用

アドルフ・エリク・ノルデンショルド
アドルフ・エリク・ノルデンショルド

これらの結果、19世紀半ばには北極海側の海岸線の形が判明し、北東航路は未知の陸地に阻まれておらずヨーロッパ側からアジア側まで通して航海できることが確認された。しかしタイミル半島付近は緯度も高く夏でも流氷が多い上、何年も融けず大きくなった多年氷が行く手を阻む。しかもエニセイ川やレナ川など世界有数の大河から淡水が流入する東シベリア沖は流氷形成も盛んである。よって航行は困難だった。

実際に北東航路を通しての航海に成功したのはスウェーデン系フィンランド人アドルフ・エリク・ノルデンショルドであった。彼は1878年、蒸気船ヴェガ号ストックホルムからイェーテボリを経由し出港し、途中ベーリング海で流氷に閉ざされ越冬したが、翌夏に脱出し1879年9月に横浜へ入港した。1880年4月24日にストックホルムに帰港したヴェガ号は大勢の市民と花火による大歓迎を受けた。逆に東から西へ向かう航海は、1915年にロシアのボリス・ヴィルキツキ(Boris Vilkitsky)が成功させている。

ノルデンショルドの航海成功の前年、カラ海を通じてシベリアの農産物をヨーロッパ・ロシアへ運ぶという商業航路開拓(カラ探検)が始まった。1877年から1919年までに122隻が挑んだが多数が難破し成功したのは75隻のみで、運べた貨物もわずか55トンであった。1911年からはウラジオストクからコリマ川河口に向かう蒸気船が年に1回運航するようになった。

19世紀末から20世紀はじめにかけて北東航路に挑んだ探険家たちは、ノルデンショルドも含め、科学研究や地図製作が動機だった。アメリカ海軍のジョージ・W・デロング北極点に向かう途中、1881年に北東航路の東シベリア北方沖で船を氷に押しつぶされ遭難した。フリチョフ・ナンセンも北極点探検の過程で北東航路に来てゼムリャフランツァヨシファを経由している。ステパン・マカロフ1899年1901年にロシア海軍の北極探検を指揮し、このために世界最初の砕氷船「イェルマーク」を造らせた。ロアール・アムンセン南極点到達後、1918年から1925年にかけて北東航路(北方航路)を西から東へ横断し、北極点に挑んだほか極地の調査研究を行っている。

[編集] ロシア革命後

無線通信蒸気船砕氷船の発明により北極海航路は通航可能な海となった。1917年ロシア革命により誕生したソビエト連邦は当初世界から孤立し、北極海航路の利用が避けられなくなった。北極海航路はヨーロッパ・ロシアとソ連極東を結ぶ最短航路であるだけでなく、ソ連の内水を通る唯一の長距離航路であり、対立する国の領域内を通る他の航路の代替となりうる航路だったからである。

1932年、オットー・ユリエヴィッチ・シュミット(Otto Yulievich Schmidt)率いるソ連の探検隊は、史上初めてアルハンゲリスクからベーリング海峡まで、越冬せずに一夏で北極海航路を横断した。1933年1934年の試験航海を経て、1935年には北極海航路は正式に開通し商業利用に供された。翌年、ソ連海軍バルチック艦隊の一部が北極海航路を移動し、日本軍との衝突が予想されていた太平洋沿岸地域へ回航された。

原子力砕氷船ヤマル号
原子力砕氷船ヤマル号

北極海航路を管理するソ連の政府機関・北極海航路管理局(略称グラヴセヴモルプーチ、Glavsevmorput)は1932年にオットー・ユリエヴィッチ・シュミットを長官として設立され、北極海航路の航行や北極海の港湾建設などを監督した。

ソ連崩壊後のロシア経済の混乱と北極海航路利用の必然性の消失により、1990年代を通して北極海航路の商業利用は衰退し続けた。多少なりとも定期航路と呼べる航路は、ムルマンスクエニセイ川河口のドゥディンカを結ぶロシア西部の航路と、ウラジオストクとチュクチ半島のペヴェク(ペベク、Pevek)を結ぶ極東の航路のみである。ドゥディンカとペヴェクの間の港にはほとんど寄港する船がない状態である。しかし、近年の地球温暖化による北極海の氷の減少で、距離も短く、不安定な中東にあるスエズ運河や海賊の多いマラッカ海峡などを通らない北極海航路に注目が集まっている[1]

[編集] 港湾と航路

北極海航路沿岸の港湾のうちいくつかは年中凍らない不凍港である。西から、コラ半島ムルマンスクカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキー日本海側のウラジオストクナホトカが挙げられる。極東のマガダンワニノなどは冬には流氷が押し寄せる。北極海側の港は7月から10月は使用可能で耐氷船が運航する。またドゥディンカへは年中原子力砕氷船が運航する。

極地では磁気嵐が盛んに起こるため、航海に不可欠な無線通信衛星測位システムなどが使えなくなる状況も考えられる[2]。また、激しい寒さ、荒れる気候や霧の多さも航海の問題である。東シベリア付近の航路では水深が20mほどの浅さになる部分もあり[3]、船舶の大型化が制約されるおそれもある。

同航路沿岸は放射能汚染への懸念がある。特にノヴァヤゼムリャには核実験場があり、1961年には水素爆弾ツァーリ・ボンバ(RDS-220)を使用して人類史上最大の核実験が行われた。

[編集] 脚注

  1. ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/6925853.stm
  2. ^ http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00862/contents/024.htm
  3. ^ http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00862/contents/039.htm

[編集] 外部リンク


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