中川小十郎
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中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、慶応2年1月4日(1866年2月18日) - 1944年10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。子息に、彫刻家の流政之がいる。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 学生時代
中川小十郎は、戊辰戦争以来西園寺公望に仕えていた丹波の郷士の中川家に生まれた。実母・さきの弟で東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の校長を務めた中川謙二郎の勧めで13歳の時に上京。以後、謙二郎の家に寄宿し、のちに顕官となる岡田良平、一木喜徳郎らと生活をともにした。東京府第一中学、第一高等中学校を経て、帝国大学法科大学政治学科(のちの東京帝大、現在の東京大学法学部)へ進学。大学予備門時代には夏目漱石、南方熊楠、正岡子規らと同窓生だった。なかでも漱石とは親しかったとされ、漱石の作品『落第』には、中川との様子が描かれている。
東京に出た中川小十郎は、西園寺公望の知遇を得て、東京神田の西園寺邸に出入りするようになった。中川の養父・中川武平太、実父・中川禄左衛門が戊辰戦争で西園寺に従軍して以来、西園寺と中川家が主従関係にあったこと、叔父・中川謙二郎が明治初年から大正期にかけて西園寺公望と親しくしていたことが西園寺公と小十郎の親密な関係の礎となった。
[編集] 文部省入省
帝大時代の小十郎は、卒業後は農商務省に進みたいと考えていた。ところが就職面接での次官の態度に憤慨し、入省を認められたもののこれを断ってしまった。そこで恩師の木下廣次に相談したところ、文部省ではどうかと勧められ、1893(明治26)年7月27日、一転して文部省に入ることとなった。入省からわずか二年後の1895(明治28)年8月27日、小十郎は異例の早さで西園寺公望文部大臣秘書官に任命される。この異例の大抜擢は、西園寺から特別に目をかけられていたからに他ならない。文相秘書官時代の中川は、西園寺の右腕として京都帝国大学(現在の京都大学)創設に関わり、京都大学初代事務局長に取り立てられている。また、西園寺が日本女子大学の設立発起人を務めた際には、戸川安宅、麻生正蔵らとともに同大学の創立事務幹事長に就任し、文部省官僚として高等教育機関の設立に尽力した。
[編集] 中川小十郎の教育思想
中川小十郎の教育理念は特に女子教育を重要視するもので、これはお茶の水女子大学・校長だった叔父・中川謙二郎の影響を大きく受けたものと思われる。「言文一致運動」に早い段階から参加していたことや、成瀬仁蔵による日本女子大学設立への参与など、当時の動静から女子教育強化に対する中川の情熱を窺うことができる。
[編集] 「文体改革論」の提起
1888(明治21)年、当時まだ学生だった小十郎は、「大日本教育会雑誌(第73・74号 3・4月号)」および「教師之友(第10・11号 3・4月号)」に、親友でのちに東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長となる正木直彦(政彦)と連盟で「男女ノ文体ヲ一ニスル方法」という論文を発表している。これは、森有礼文部大臣当時、大日本教育会が懸賞論文を募集したものに応募したもので、見事「一等」に選ばれている。この中で中川は、文体一致を教科書編纂にも採用すれば「正ニコレ男女文体ノ差ノ消滅スル」という持論を展開し、当時としては先駆的な意見として注目された。後年中川は、「今日でこそ口語体は広く行はれて来たけれども当時に至つては中々一般の賛成を得るには至らなかつた」と述べている(「白雲山荘雑記」『立命館学誌』九 1917年・大正6年3月)。」
[編集] 「以良都女」発行に参加
中川は、文芸雑誌「以良都女」の発行に深く関わった同人の一人でもあった。小十郎の他、岡田良平、一木喜徳郎、新保盤次、正木直彦(政彦)、山田美妙らが「以良都女」の発行に尽力している。1935(昭和10)年、立命館出版部より刊行された「美妙選集(上巻)」巻頭で中川は次のように述べ、「女子教育」と「国家の開化」には密接な関係があることを説いている。
- 「女子教育の過程およびその性質如何は大に一国の文化に関係すること更に疑ひを容れざる所にして、想ふに一人も異論を唱ふるものなかるべし。蓋し女の教育と一国の開化とは互に相影響するものにして、文化の進みたる社会にあらざれば完全なる女子の教育を望むべからず、女子の教育宜しきを得るにあらざれば真正なる開化を望むばからず。」(「いらつめ発行の趣旨」『以良都女』第一号(1887年7月、立命館出版部))
[編集] 成瀬仁蔵との関係
文部官僚時代の中川は、日本女子大学を設立した成瀬仁蔵とも交流があった。成瀬との関係について中川は、「吾輩が文部省で秘書官をしていた時分、現在の目白にある女子大学を創立しやうとして色々奔走していた成瀬仁蔵といふ人と麻生正蔵といふ人とが吾輩の家に寄寓していた」と述べており、成瀬らが中川を訪れ学校設立について具体的に協議を行っていたことを窺わせる(「中川総長講話(二)」『中川家文書』)。中川は文部省官僚として日本女子大学校創立事務幹事嘱託を勤め、同校設立を積極的に後援した西園寺公望を助けた。
[編集] 「女子教育の拡充」演説
1929年(昭和4年)に「女子教育の拡充」と題する演説を行っている。手書きによる演説草稿は三十一枚にのぼり、「公娼全廃の英断」の必要性を説いている。また「婦選制度」の導入については時期尚早とした上で,「女子教育が不在であり一般女子に公民としての自覚が乏しい」とし、まずは女子教育の充実が先決と主張。さらに「昭和新政の最も大なる眼目」は、女子に対する高等教育の拡充にあると断じ、「男女同権」こそが「文化社会の最高理想」という徹底的な両性平等論を展開した(『中川家文書』)。
[編集] 京都法政学校と立命館
[編集] 京都法政学校の設立
1897(明治30)年1月11日、蜂須賀茂韶文部大臣(第二次松方内閣)のもと、文部省参事官に就任する。翌年、浜尾新文部大臣に代わり就任した西園寺公望文部大臣(第三次伊藤内閣)が病気を理由に辞職すると中川も官職を退官。実業界に転じ、加島屋(現在の大同生命)の再興に尽力したほか、大阪堂島米穀取引所監査役、朝日生命保険株式会社副社長を勤めるなど活躍した。
しかし文部官僚時代、創設の中心に関わった京都帝国大学が制度上旧制高等学校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望が提唱した「能力と意欲のある人に国として(教育の)機会を与えるべき」という教育理念からもかけ離れている実態に限界を感じ、自ら私学を興すことを思い立つ。翌年、教学面での協力を京都帝国大学教授だった織田萬、井上密、岡松参太郎らから得るとともに、学校設立事務については、西田由(朝日生命株式会社 専務取締役)、橋本篤(大同生命保険株式会社 初代支配人)、山下好直(京都府議会議員)、河原林樫一郎(東洋レーヨン 常務取締役)、羽室亀太郎(京津電車 支配人)らの協力を得て、また設立賛助員として京都政財界の大物(内貴仁三郎、浜岡光哲、田中源太郎、中村栄助、雨森菊太郎、高木文平、河原林義男)の力を借り、京都法政学校設立事務所を朝日生命保険株式会社の一角に設置した。
中川は、恩師で京都帝大初代総長だった木下廣次にも京都法政学校設立の相談をしている。木下はこの計画を大変に気に入り、京都法政学校は京都帝国大学と「同心一体たるべきことを根本条件とすべき」と言われたと述べている。のちに京都法政学校を母体にして設立する「財団法人立命館」の「寄付行為」には、財団解散時には所有財産の全てが京都帝国大学に寄付されると明記されていたが、これは木下の示唆した京都帝大との「同心一体」につながるものである。
1900(明治33)年5月4日、京都府知事に対し「私立京都法政学校設立認可申請書」を提出。同年5月19日、晴れて設置が認可され、同6月5日に開校式典を開いた。初代校長には、京都府出身で民法起草者の一人、東京帝国大学教授の富井政章が就任した。富井は1927(昭和2)年8月31日まで京都法政学校長、私立立命館大学長の任にあたった。
[編集] 立命館学園への発展
京都法政学校の設立から5年後の1905(明治38)年、中川は西園寺公望が1869(明治2)年に京都御所内の私邸に開設した「私塾立命館」の継承を申し出てこれを許される。後年、「立命館」の継承について中川は、「唯学問の各科に属する講義を並べるばかりでは単に講習所であり得るのであつて、教授はあつても教育はないのであります。私は教育上の意義を持つ所の学校なるものはその全体の上に一の精神がなければならぬと思ふ(中略)。我立命館が西園寺公の立命館を継承したことは、即ち明治の初年に於て公が国家の須要に鑑みて有用な人材を養成するを以て国家経論の第一義とせられたる趣旨をそのまま継承」したものと、立命館継承の意図を説明している。その後中川は、樺太庁赴任の大役を終えて経済的にも安定したことから、「本学百年の大計を立つる決意」で自らの資産を投資し、西園寺公望の実弟で京都法政学校設立時から学校の要職にあった末弘威麿の協力を得て「財団法人立命館」を1912年に設置した。これに対し西園寺公望から祝意の言葉が届けられ、ここに西園寺立命館の名称と精神を継承する「立命館学園」がその礎を築いた。
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- 明治初年余私学を京都に開き名けて立命館と曰ひ、学を講じ道を論じて国家の進運に裨補せんことを期せり。其後故ありて中絶し、其名虚しく存するのみ。数年前中川小十郎君京都法政学校を創むるに当り、余に其扁額に題せんことを求む。余仍りて立命館の三字を書して之を与へ且附するに数言を以てし、君の力によりて其実の挙がるを喜ぶる意を表せり。中川君は明治維新余山陰道鎮撫の命を拝し丹波に下向したる際余の旗下に馳せ参じたる中川禄左衛門君の実子なり。然るに扁額は不幸祝融の災に罷りて滅せりと雖も校運は益隆盛に向ひ、次で中学を附設し後其組織を改め財団法人となるに及びて余に前に書せし所の題字を採りて其名称となせり。余は是に於てか益其名実倶に永く存するを喜ぶ。思ふに今日の学は開物成務を以て要と為すと雖も修身立命の工夫亦閑却すべからず。忠信の行ありて実用の才姑めて其功を成すことを得。自今其校に遊ぶ者深く思を比に致さば其違はざるに庶幾からん。法人立命館の成立に際し、聊か其名称の由来を叙し以て祝辞と為す。大正二年十二月十三日 正二位勲一等侯爵 西園寺公望
もともと中川は京都法政学校を法律と政治学だけを教育する小さな枠に収めておくつもりはなく、将来は日本を代表するような総合学園にしたいと考えていた。このことは京都法政学校開設から5ヶ月後、1900(明治33)年10月29日に京都府知事に提出された「校舎敷地貸与願書」の中にも見て取れる。願書の中で中川は、「将来は法政だけでなく文学、医学の二科を増設し、中学教員および医師を養成して、わが国教育の一大欠点を補充する機関」にしたいという決意を明らかにしている。こうして京都法政学校は、西園寺公望の設立した「立命館」の名称と精神を継承することになった。
なお、西園寺公望が揮毫した「立命館」の扁額は三種類ある。一つは1905年4月、西園寺公望が京都法政学校のために揮毫したもので、以下七十五文字の由来を付記した扁額である。残念ながらこの扁額は1909(明治42)年の火災で消失してしまい、現在残されているものは消失前に撮影された写真のみである。
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- 往年余興一校、名曰立命館、及余学泰西、校廃名存、頃者京都法政大学学員来、請襲用其名、余喜名乃得実、乃書遍額以与之、孟子曰妖寿不貳、修身以俟之、所以立命也、蓋学問乃要在于比矣
その後、西園寺公の同族・橋本実斐伯爵の邸宅に保存されてあった扁額が学園に寄贈された。この扁額は1869(明治2)年に西園寺が私塾立命館を開設したときに揮毫されたものである。このときの扁額は学宝として現存しているが、レプリカが中川会館正面玄関、衣笠キャンパス図書館などに掲げられている。また1918(大正7)年には、西園寺公望の好意で新たに書かれた「立命館」の三文字の大扁額も寄贈されている。西園寺公望は、中川小十郎らが設立した立命館学園に対して有形、無形の援助を続け学園の発展に貢献したことから、財団法人立命館は西園寺公望を学祖と位置づけ今日に至っている。国際司法裁判所元判事で、立命館名誉総長など学園の要職を歴任した織田萬は西園寺の精神と立命館について、「一たびこの立命館の名称の由来に想到すれば、何人も感奮興起せざるを得ないのでありませう。教職員にせよ、学生々徒にせよ、苟も学園の門をくぐつた者が公の心を以て心とし、精神を練り学業に勉むれば、一身の修養に於ても、社会の活動場裏に立つ場合に於ても、欠けることはありますまい。学園は指導精神をここに置き、あらゆる精神教育の流れは悉くこの源泉より発することになつてゐるのであるが、これが又学園の天下に誇り得べき一大特色である」と述べている。
[編集] 官界復帰
1903(明治36)年、木下廣次に請われた中川は、京都帝大書記官として官界に復帰する。1906(明治39)年、第一次西園寺内閣が成立すると内閣書記官 兼務 内閣総理大臣秘書官に就任した。1908(明治41)年7月4日、西園寺内閣が総辞職すると樺太庁事務官として樺太に出向。ポーツマス条約で島の南半分が日本領となった樺太に、軍人長官を置いて実質的な軍政を敷こうとする陸軍の要求をかわしたい西園寺が、これを阻止すべく自分の息のかかった中川を樺太に送った人事と見られる。1911(明治44)年9月、遠く樺太にある中川小十郎は高等官2等、勅任官と順調に出世し、文官としては事実上登り詰めた格好となっていた。
[編集] 台湾銀行への天下り
1912(明治45)年9月11日、中川は文部省を依願退職し、台湾銀行副頭取に就任する。これはいわゆる「天下り」で、当時は誰にとっても羨望の天下りポストであった。この年中川は、「従四位」に叙せられるとともに、「勲四等旭日小綬章」を受けた。台湾銀行副頭取として、南方方面やニューヨークに出張所を創設するなど精力的に活動したほか、1919(大正8)年に設立した「華南銀行」、「南洋倉庫」の顧問にも就任し、翌年には台湾銀行「頭取」となっている。台湾銀行時代の中川は、時間的に余裕ができたこともあり、政財界上層部との付き合いが増え、西園寺公望からの後援を受けて次第に政治の世界へと足を踏み入れるようになっていった。
[編集] 京都市市長選出
1916(大正5)年7月、京都市長で中川の友人でもあった井上密(京都帝大教授、京都法政学校教頭)が病気療養を理由に市長を辞任。同年9月、京都市会は、当時台湾にあった中川小十郎を京都市長第一候補者に選出する。同月16日、中川を推薦する議員たちの間で採決が主張され、結局無記名投票で中川が当選してしまった。
これを知った立命館大学ではまず「京都校友倶楽部」が9月23日に校友大会を開き歓迎の意を表明。校友代表として市議会議員の橋本孝三郎、弁護士の池田繁太郎が台湾まで説得に行く熱の入れようであった。結局中川はまわりの説得を聞き入れず市長就任要請を辞退。これを聞いた京都市参事会員と市議会長らが調整して再度就任要請を行ったが、中川は辞退の返電をしている。京都市長選挙を巡っては、1927(昭和2)年にも中川擁立の動きが政友会から起こったが、これも実現せずに終わっている。
[編集] 貴族院議員
1925(大正14)年、台湾銀行頭取を任期満了により退任した中川は、12月1日「貴族院令」第一条第4号「国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者」が適用され貴族院議員に勅選された。貴族院の勅選は内閣が推薦を行うという建前であるが、当時中川を内閣に推薦したのは誰あろう西園寺公望だった。
これを受けて立命館大学では1月17日に東京校友会支部が祝賀会を行い、学長の富井政章、学監の田島錦治、文庫長の跡部定次郎ら総勢45名が参加、翌1月18日には校友、教職員、学生ら1,600名余りを厚め、京都市公会堂で祝賀会を開催している。議員としての中川は、常任委員会第三部請願委員などを勤めた。
政界進出を果たした当初の中川は、立憲政友会に近い存在と目されていた。しかし原敬が暗殺され、高橋是清が政友会総裁になったころには独自路線を歩むようになる。1935(昭和10)年には親しかった平沼騏一郎を通じて陸軍皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎といった将軍と交際するようになり、西園寺公望の政治信条とは必ずしも相容れない立場をとるようになっていた。また、石原廣一郎らの後援で大川周明らが立ち上げた「神武会」に参加を請われ、一時は参加に前向きな姿勢を見せていたことが知られている。石原は「神武会」に政財界や軍部の大物を参加させることで会を発展させようとし、中川のほか菊池武夫陸軍中将・男爵、南郷次郎海軍少将、千坂智次郎海軍中将、田中国重陸軍大将、原道太海軍大佐、外交官の本田熊多郎らにも参加を持ちかけていた。「神武会」については、大川ら急進論者の参加を警戒した警察の警告で退会者が相次ぎ、中川自身も石原に会の解散を迫り、一時は石原と絶交するに至るなどした。
[編集] 「坐漁荘」と中川小十郎
元老・西園寺公望は、最晩年になると静岡県興津にある「坐漁荘」で過ごすようになる。当時台湾銀行に赴任していた中川であったが、本土に戻った際にはかなり頻度で「坐魚荘」を訪問し、西園寺の側にあった。当時の西園寺の政治秘書は男爵・原田熊雄であったが、記録上中川の訪問は原田に次いで多かったことがわかっている。原田が大磯に住んでいたことや、当時の交通事情などを考えれば、中川の訪問が群を抜いて多いと言える。また中川は、西園寺が東京や京都に移動する際には必ず付き添うなど私設秘書として西園寺から信頼される関係にあったことが窺える。事実、宮内大臣・牧野伸顕からの連絡は、中川を通じて西園寺になされていた(『牧野伸顕日記』)。また「二・二六事件」後、石原廣一郎から後継首班には「近衛公ヲ措イテ人ガ無」く、「是非老公ニ御推薦願ヒ度イ」と依頼されるとこれを西園寺に伝え、近衛文麿への大命降下に一役買っている。結局近衛は西園寺の説得を聞き入れず、組閣要請を拝辞している。
中川は、西園寺が亡くなる1940(昭和15)年11月24日にも興津にあった。西園寺は11月12日に発熱し床に伏せるが、これを聞いた中川は京都から夜行列車で出向いている。翌13日昼前に興津に到着した中川に、「公爵ヨリ当分滞在ヲ希望スル旨ノオ話アリ(1940年11月13日付「中川小十郎書簡」『中川文書』)」、結局最後まで興津を離れなかった。西園寺の国葬当日、立命館大学では西園寺から使用を許可されていた西園寺家・家紋「左巴」を染めた旗を半旗として広小路学舎校門に掲げ、禁衛隊の鼓笛隊演奏、西園寺から寄贈された旅順港閉鎖船・佐倉丸の鐘を鳴らし西園寺を偲んだ。中川は、「西園寺公爵がお亡くなりになった時に、私は貴族院議員の辞表を提出したが、同僚の意見もありそれは進達されずに途中で止められてしまった」と語っている(『中川家文書』)。
[編集] 逝去
1944(昭和19)年10月7日、いつものように自宅から立命館大学に出勤した中川は、午後5時すぎまで大学で事務にあたり帰宅。夕刻床に就いたがまもなく心臓麻痺を発症しこの世を去った。享年78であった。翌日、財団法人立命館緊急理事会を開かれ、松井元興学長を葬儀委員長とする「館葬」とすることが決定され、同年10月15日、天龍寺管長関精拙師を導師とした「館葬」が厳粛に執り行われた。政財官各界で活躍した中川の葬儀には多くの実力者から弔辞・弔電が寄せられた。親友で枢密院議長だった一木喜徳郎をはじめ、政官界などからは、文部大臣、貴族院、学士会、ドイツ総領事館(大阪・神戸)、水野錬太郎、竹越与三郎、石原莞爾らが、教育会からは、早稲田大学総長 中野登美雄、同志社大学総長 牧野虎次、関西学院大学長 神崎模一、関西大学長 竹田省、京都帝国大学法学部長 渡辺宗太郎、財界からは、大同生命保険社長 広岡久右衛門、日本郵船社長 寺井久信、大阪商船社長 岡田永太郎、朝日新聞社取締役会長 村山長拳、毎日新聞社長 高石真五郎、読売新聞社長 正力松太郎、京都新聞社長 後川晴之助、住友財閥の住友吉左衛門らが告別式に参列している。
中川小十郎は、立命館大学衣笠キャンパスに隣接する等持院墓地に葬られた。墓碑銘には「光徳院殿円応重興大居士」と刻まれている。
[編集] 略歴
- 1893年7月 帝国大学法科大学政治学科卒
- 1898年1月 文部省書記官兼文部大臣秘書官、同時に加島銀行理事
- 1899年4月 朝日生命保険(大同生命保険の前身)副社長
- 1900年6月 京都法政学校創立
- 1903年6月 京都帝大書記官
- 1905年3月 立命館学監
- 1906年4月 第1次西園寺内閣 内閣総理大臣秘書官
- 1908年7月 樺太庁第一部長
- 1912年9月 台湾銀行副頭取
- 1913年2月 立命館長(1928年3月まで)
- 1920年8月 台湾銀行頭取(1925年8月まで)
- 1925年12月 貴族院議員(勅撰 1944年10月まで)
- 1928年4月 立命館大学総長(1944年10月まで)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 『無用の花 - 横川巴人評伝』横川敬雄 著/能登印刷・出版部 ISBN 4890101039
- 『立命館百年史』第一巻通史 立命館百年史編纂委員会