バートランド・ラッセル
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バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872年5月18日 - 1970年2月2日)はイギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者。第3代ラッセル伯爵。イギリスの首相を務めたジョン・ラッセルは祖父である。
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[編集] 生涯
アルベルト・アインシュタインと親交があり、核廃絶に対する共通の想いから「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表した。この宣言がパグウォッシュ会議の開催へと発展した。
また、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜き、親交を結ぶとともに、良き理解者として『論理哲学論考』の出版などを支援した。
1950年 - ノーベル文学賞を受賞。(『人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して』; "in recognition of his varied and significant writings in which he champions humanitarian ideals and freedom of thought.")
[編集] 思想と業績
数学者・論理学者として出発し、哲学者としてヘーゲリアンから経験論者に転向、以後その主張はかなりぶれがあったものの基本的にはモノ的対象を基礎とした現象主義もしくは随伴主義的唯物論をとる。そののち、教育学者・教育者・政治運動家としても活躍する。
[編集] 論理学・数学
ラッセルはアリストテレス以来最大の論理学者の1人であり、その業績は「ラッセルのパラドックス」に代表される数々のパラドックスの発見と、その解決法の探求のなかで成し遂げられた。
ラッセルのパラドックスの発見について述べるためには、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツの哲学者・数学者・論理学者であるフレーゲの研究について触れざるをえない。フレーゲは、数学は論理に帰着しうる(論理主義)と考え、その思想を現実化する一歩として、論理上で実際に数学を展開するという野心的な著作『算術の基本法則』( Grundgesetze der Arithmetik ) を上梓した。 1901年、ラッセルは、この『算術の基本法則』で示された体系にパラドックスを発見し、フレーゲにその発見を伝える書簡を送った。このパラドックスは、のちに「ラッセルのパラドックス」とよばれる。この手紙は、フレーゲの悲痛なコメントとともに『算術の基本法則 II』( Grundgesetze der Arithmetik II ) に収録されている。
この時期、ラッセル自身もまた、ホワイトヘッドとともに、論理主義の立場から論理上で実際に数学を展開するという事業に取り組んでいたが、このラッセルのパラドックスのために、約2年間の停滞を余儀なくされている。さらに、このパラドックスは、同時期に発見された類似の他のパラドックスとともに、数学の基礎に存在する深刻な問題と受け取られ、いわゆる「数学の危機」の震源となり、その解決をめぐって、ヒルベルトの「形式主義」やブラウワーの「直観主義」の誕生の切っ掛けとなった。
ラッセルは他にも多数のパラドックスを発見したが、ラッセル自身の名が冠せられたのは何故か一つだけである。例えばブラリ=フォルティのパラドックスはラッセルが出版したが、その際脚注で「ブラリ=フォルティの論文に示唆された」と述べたためこの名が冠せられた。ところがブラリ=フォルティの論文を見てもそのパラドックスは載っていないという。[1]
ラッセル自身のパラドクス解決の試みは、1903年、「階型理論」(theory of types) の発見により成功をおさめた。ラッセルは、この成功を礎に、階型理論に基づく高階論理上で全数学を展開するという一大事業を押し進め、その努力は、『数学原理』Principia Mathematica(1911-1913年)として結実した。
[編集] 哲学
最初期のラッセルは、当時のイギリス哲学界の思潮の影響下にあり、ヘーゲルの影響が強い。ラッセルが学んだケンブリッジは19世紀後半にはヘーゲル主義の支配下にあり、ジョン・マクタガートを筆頭とするこの時期のケンブリッジの哲学学派は、新ヘーゲル派と呼ばれている。しかし、20世紀初頭には、ラッセルはG・E・ムーアとともにヘーゲルの影響から逃れ、独自の哲学を展開し始める。
ヘーゲルの影響を逃れた直後の著作である『数学の原理』Principles of Mathematics(1902年) では、多数の普遍的存在者を容認する極端な普遍実在論を展開したが、『表示について』On Denoting(1905年)で普遍者とみられたものが個物についての記述の連言として分析できることを発見したこと(→ 記述理論)をきっかけにして、『論理的原子論の哲学』Philosophy of Logical Atomismでは、個物のみを実在とし、以後はその個物が何であるか、とくに心と個物の関係が何であるかに関心の中心が向けられた。
晩年の『西洋哲学史』A History of Western Philosophyは、生計を立てるための通俗書であるにもかかわらず、その内容は生き生きとして魅力的であり、とりわけ、西洋哲学史の書物に初めて'Western'という形容詞を採用し、哲学が西洋だけの独占物ではないことを示した点で重要である。
[編集] 記述理論 Theory of Description
指示対象が存在しない「現代のフランス王」や「ペガサス」といった語句を解釈する際に、フレーゲのようにそのような語句を含んだ文を無意味としたり、それら非存在者の指示対象としてなんらかの概念の「存在」を仮定することなしに、解釈を可能とするためにラッセルが発見した手法である。1905年の『表示について』で初めて発表された。
記述理論とは、以下のような手法である。
という文章の意味を考える場合、この文を、
と翻訳する。すると、実在しない「現代のフランスの王」が示す指示対象として存在者をなんら仮定することなく有意味に文を解釈でき、その真偽を確定できる。
[編集] 科学的推理の五つの公準
ラッセルは、科学的推理を有効にする五つの公準がある、とした[2]。
- 擬似永続性の公準 : 任意の事象Aが与えられたとき、その時点に相次ぐ時点において、またそれの場に近接する場において、Aにきわめて似通った一つの事象が生じることがしばしばある。
- 分離可能な因果列の公準 : ある系列の一つあるいは二つの要素から、その系列の他の一切の要素についてなにがしかを推理できるような、そのような一つの事象系列を形成することがしばしば可能である。
- 空間時間的連続性の公準 : 連接しない二つの事象間の因果的連鎖の中にいくつかの中間項がかならずあり、その各々が次のものに連接している。いいかえれば数学的な意味で連続的な一つの過程が存在する。
- 構造上の公準 : 構造の似通った多くの複合事象が、一つの事象を中心として、その周辺に余りバラバラにならないように配列されるとき、通常それらの事象は、すべてその中心にすえられた一事象から発する諸因果系列に属する。
- 類推の公準 : 二つの事象集合AとBがともに観察されるときにはいつも、AがBを引き起こすと信じうる理由があるとする。このとき、もし与えられた事例においてAが観察されるが、Bが起こるか否かが観察できないとしても、Bが起こることは確からしい。またBが観察されたのに、Aが観察できないとしても、Aが起こっていることは確からしい。
上述の諸公準の一例として、ある種の視覚的外見と固さとのつながりをラッセルは取り上げている。ここでは「固い」という因果的な語は、ある種の触感を引き起こすような物体の性質をさすものと解釈される。はじめの四つの公準は、物体が適当な感覚を引き起こしているとき、その物体が有しているそれに対応する性質がおそらく存在することを推論することを可能とする。これに対して、第五の公準は、物体が触られていない時にも、その視覚的外見に固さがおそらく結びついて存在することを推論することを可能とする。
[編集] 教育思想
教育学者としては、自由と高い知性とを重んじ,後のA・S・ニールの先駆となるフリースクールを創設したリベラリスト教育論者である。
[編集] 社会思想
ラッセルの平和主義は、現実主義的な平和主義であると特徴づけられる。そのときそのときの情勢の下で、最悪と思われるものと戦い、最良と思われる手段で平和の実現を目指すといえるだろう。
彼の平和主義への傾倒は、1901年、ボーア戦争中に始まるとされるが、彼が活発に社会的な発言、著作を出版するようになったのは第一次世界大戦からである。
第一次大戦中、ラッセルは徹底的な非戦論を主張し、ケンブリッジの教授職を追われ、投獄されている。第一次大戦後、ラッセルは戦争に熱狂した民衆の姿に驚きを覚え、平和維持のためには民衆の啓蒙と社会制度の改革から始める必要を痛感した。この彼の政治的スタンスから、社会主義にシンパシーを感じ労働党へと入党する。
当時、社会主義に傾倒していた知識層は、フェビアン社会主義で有名なシドニー・ウェッブを筆頭に、マルクス主義にシンパシーを感じソビエト連邦に好意的であったが、ラッセルはそのような風潮とは一線を画し、ソビエトロシアに対して批判的な著作The Practice and Theory of Bolshevismを著している[3]。 同書において、ラッセルはレーニン、トロツキー、スターリンについて厳しい視線を向けている。
ところが、第二次世界大戦においては、第一次世界大戦に対する反戦の態度とは正反対にナチズムに対抗するために徹底した抗戦を主張するようになった(アインシュタインも彼と同じく、第一次世界大戦の際には徹底的に反戦を主張し、青年に対して兵役拒否をするようにさえ訴えていたにも拘わらず、第二次世界大戦では「最早、兵役拒否は許されない」と発言するなど、変節している)。第一次大戦における彼の非戦論との違いから、ロマン・ロラン等から「変節」であると厳しく批判された。ラッセルは批判に対して「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」と弁明した。
第二次世界大戦直後は、世界政府樹立とそれによる平和維持をめざした。アメリカの持つ原子爆弾という超兵器の抑止力によってソ連を押さえ込むことで実現することを構想し、西側諸国の核保有による東側諸国との対抗を説き、労働党の委託を受け精力的に講演を行った。
しかし、その構想は、ソ連の核兵器開発の成功、アメリカ・トルーマン大統領による水素爆弾開発計画(→エドワード・テラー)によって破綻する。米ソによる水爆戦による世界の終末というものが一挙に現実味を帯びたため、ラッセルは、その最悪のシナリオを回避するため、核兵器廃絶の運動に身を投じる。
1955年7月9日、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。この宣言は、ラッセルが起草し、アルベルト・アインシュタインが署名を行ったものである。アインシュタインがその署名を行ったのは、彼の死の1週間前のことであった。このラッセル・アインシュタイン宣言は、パグウォッシュ会議(第1回開催1957年7月6日 - 7月10日)につながる。
1961年には、百人委員会を結成し、委員長に就任。英国の核政策に対する抗議行動を行った。同年9月、百人委員会による国防省前での座り込みの際に逮捕され、生涯二度目となる懲役刑を受けることになる。
ベトナム戦争に対しても、ラッセルは厳しい批判行動を展開した。サルトルらとともに、アメリカの対ベトナム政策を糾弾する国際戦争犯罪法廷[4]を開廷する。
その後も、1970年、97歳でこの世を去る直前まで、精力的に活動した。
[編集] エピソード
- Introduction to Mathematical Philosophy は、第一次大戦中の最初の投獄の際、獄中で執筆された。
- その投獄中、面会に来た友人に「なんでまた、君はそんなところにいるんだね?」と尋ねられたラッセルは「君こそ、なんでそんなところにいるんだい?」と尋ね返したそうである。
- 第一次大戦中の最初の投獄の際、彼の兄であるフランク・ラッセルの計らいで、絨毯のある差額特別室での獄中生活であった。室代を請求に来た刑務所長に「滞納するとどうなりますか」と聞いたというエピソードが残っている。
- 第二次世界大戦の直前に渡米し、1944年までアメリカ合衆国で生活している。滞在中プリンストン大学に赴き、ゲーデルと面会している。その際の印象をラッセルは自叙伝に記しているが、その中でゲーデルをユダヤ人と誤って記述している。ゲーデルは「ラッセルの数理論理学」という論文でその誤りを指摘している。
- 生涯で4度結婚した。最後の結婚は80歳の時であった。
- 名付け親は哲学者のジョン・スチュアート・ミル。
[編集] 主な著作
- 『数学の原理』 (下記『数学原理』とは別の著作) Principles of Mathematics
- 『数学原理』 (ホワイトヘッドとの共著) (1910年-1913年) Principia Mathematica
- 『表示について』 (1905年) On denoting
- 『論理的原子論』 (1956年) Philosophy of Logical Atomism
- 『精神の分析』 (1921年) Analysis of Mind
- 『西洋哲学史』 (1945年) A History of Western Philosophy
他多数。
[編集] 脚注 出典
- ^ Gregory Chaitin. "A Century of Controversy over the Foundations of Mathematics" Springer-Verlag. 2008-05-13閲覧.
- ^ 「人間の知識」
- ^ The Practice and Theory of Bolshevism, 1920
- ^ いわゆるラッセル法廷:於ストックフォルム、1967年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ラッセル研究者と愛好家のためのポータル・サイト
- Bertrand Russell -Free Online Library-
- (百科事典)「Bertrand Russell」 - スタンフォード哲学百科事典にある「バートランド・ラッセル」についての項目。(英語)
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