数学的直観主義
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数学的直観主義(すうがくてきちょっかんしゅぎ)とは、数学の基礎を数学者の直観におく立場のことを指す。
[編集] 来歴と評価
このような主張は、カントールの集合論に対抗する形で、クロネッカーやポアンカレによってもなされていたが、最も明確に表したのは、オランダのトポロジスト、ブラウワー(Luitzen Egbertus Jan Brouwer、ブローウェルとも)である。彼は、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。 ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウアの主張から排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる。
直観主義はその内容から、数学の証明は全て構成的に為されなければならないという主張(数学的構成主義)の一つとみなされている。
ブラウアーの主張は、哲学的で分かりにくかったが、その後ハイティング等によって整備され、結果的には古典論理から排中律を除いた形で形式化されたものが今日、直観主義論理として受け入れられている。
直観主義論理に基づく数学によって得られる成果は、古典論理に基づく数学に比べて制限されたものにならざるを得ない。
具体的には、ab=0 から a=0 または b=0 を直接結論することはできない。なぜなら、直観主義においては、「a=0またはb=0」が証明できるというのは、「a=0」が証明できるか、または「b=0」が証明できることを意味するからである。
また、有界な実数の部分集合は上限を持つというワイエルシュトラスの定理が証明できない。多くの数学者は、個人の精神とは独立した数学的実在を暗に認める立場から、直観主義に賛同せず、排中律の使用も妥当と感じている。
しかし、直観主義は単なる思想としてだけではなく、数学基礎論や計算機科学に様々な影響を与えている。
[編集] 逸話
ブラウアーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。
あるとき、ブラウアーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、 ブラウアーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。