ニウエ
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- ニウエ
- Niuē Fekai(ニウエ語)
Niue(英語) -
(域旗) (紋章) - 地域の標語 : 不明
- 地域の歌 : Ko e Iki he Lagi
-
公用語 ニウエ語(ポリネシア語系)、英語 主都 アロフィ 最大の都市 不明 通貨 ニュージーランド・ドル(NZD) 時間帯 UTC -11(DST: 不明) ccTLD .nu 国際電話番号 683
ニウエ(ニウエ島、Niue)は、南緯19度、西経169度にある国。ニュージーランドの北東、トンガの東、サモアの南東にある。
ニュージーランドとの自由連合関係を維持している。すなわち、ニュージーランドから国家として認められているものの、同国からの独立はせず、同国と対等な立場で一部権限を委託しているという関係にある。日本はニウエをクック諸島とともに国家として承認せず、ニュージーランドの一部として扱っている。国際連合はクック諸島とともに非加盟国として扱っている。
総面積は259km²。総人口は1,500-2,000人程だが、経済の停滞などで徐々に減少している(2006年には1591人)。首都はアロフィ。
立憲君主制で、元首はイギリス女王のエリザベス2世。総督はニュージーランド総督が兼任している。
また、比較的広く使われている.nuドメインは、元々この国のccTLDである。
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[編集] 歴史
ニウエに人類がいつ到達したのかは分かっていないが、考古学の研究から類推すると、紀元前10世紀頃にサモアやトンガにラピタ人が到達するのと相前後して植民されたか、あるいは1世紀から5世紀頃マルケサス諸島やソシエテ諸島にポリネシア人が拡散する過程で植民されたかのどちらかである。
言語学上の研究から推測して、13世紀から16世紀にかけてトンガ海上帝国 Tongan Maritime Empireが栄えた時期にはこの勢力圏下に入っていたと思われる。ヨーロッパ人がポリネシアに現れて以降の歴史は以下の通り。
- 1774年 - キャプテン・クックが来航する。
- 1846年 - サモア人キリスト教宣教師団が進出する。
- 1900年 - ニウエ王の要請によりイギリスの保護領となる。
- 1901年 - クック諸島の一部としてニュージーランドの属領となる。
- 1974年 - 内政自治権を獲得し、ニュージーランドとの自由連合国となる。
- 2007年12月12日 - 中華人民共和国と国交を樹立[1]。
[編集] 地理
ニウエ島に最も近いのはほぼ真西に420km離れたヴァヴァウ諸島(トンガ)である。ニュージーランドは南南西へ2300kmも離れている。
ニウエは世界最大のサンゴ礁の島で、海面上約60メートルに渡って石灰岩の断崖がそそり立ち、その地形がほぼ島全体を縁取っている。つまり台地状であり、山岳や湖などは存在しない。島の形状は基本的に楕円形であるが、首都アロフィと、南部のアヴァテレは湾状の地形となっている。 人口の多くはアロフィを中心とする北西から西の海岸地帯に集中している。
気候はサバンナ性で、11月から翌年の4月が雨期に当たる。
時差はニュージーランド本土と23時間あり、本土が夏時間採用時は24時間(丸1日)である。
[編集] 経済
主産業は農業(パッション・フルーツやライム、バナナ、コプラなど)で、切手の販売や観光業も重要である。しかし、ニウエでは仕事がほとんどなく、約1万人近くのニウエ人が不満を抱えつつニュージーランドに移住し暮らしている。将来、移住者が減少するのを期待してニュージーランド政府はニウエの経済に多額の投資をして来ているが、援助金の効果の悪い使い道や、サイクロンによる被害などがニウエの経済発展を妨げている。
[編集] 住民
住民はサモア人の血を引く、ポリネシア系ニウエ人がほとんどである。
宗教はキリスト教の影響が強いが、モルモン教なども進出している。
[編集] 注釈
- ^ Full text of joint communique on the establishment of diplomatic relations between China and Niue_English_Xinhua
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