ドミンゴ・グスマン
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ドミンゴ・グスマン Domingo Guzman 東北楽天ゴールデンイーグルス No.50 |
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基本情報 | |
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国籍 | ドミニカ共和国 |
生年月日 | 1975年4月5日(33歳) |
身長 体重 |
187cm 92kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
初出場 | MLB / 2005年6月10日 NPB / 2002年3月31日 |
年俸 | 3,000万円(推定) |
経歴 | |
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ドミンゴ・グスマン(Domingo Guzman , 1975年4月5日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(投手)。ドミニカ共和国出身。登録名は「ドミンゴ」。
目次 |
[編集] 来歴
- サンディエゴ・パドレスでメジャー入りを果たしたが定着には至らず、その後台湾に渡り、中信ホエールズで「多明哥」の登録名でプレーする。
[編集] 横浜ベイスターズ時代
- 2002年、横浜ベイスターズに登録名「グスマン」でテスト入団。最初にスタートした中継ぎではなかなか結果を残せなかったが、先発転向後は安定するようになり5勝を挙げる。翌2003年シーズンは登録名を「ドミンゴ」に変えて、1年間先発ローテーションを守ったが、ムラっ気の多さが災いとなり8勝12敗の成績にとどまり自由契約となる(但し45勝94敗1分で最下位の横浜にあって、8勝はチーム単独トップ)。
[編集] 中日ドラゴンズ時代
- 2004年、中日ドラゴンズに入団。自身初の2桁勝利(10勝5敗)を果たしたが、翌2005年は肩の故障でほとんど投げられなかった。2006年シーズンも2勝2敗と振るわず5月に二軍落ち、8月にウエーバー公示され、8月21日に自由契約選手になった。
[編集] 楽天イーグルス時代
[編集] 2007年
- 2007年6月、相次ぐ主力投手陣の離脱により投手の補強が急務となった東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表。同年はリハビリに専念していたため、何処の球団にも所属していなかった。その故障の影響が懸念されたため、2度の投球テストとメディカルチェックを経て、6月22日に契約の締結が発表された。登録名は引き続き「ドミンゴ」。背番号99に関しては山下大輔編成本部長によれば、99マイル(約159km/h)を目指すという意味がある。
[編集] 2008年
- 背番号を50に変更した2008年は福盛和男の移籍、小山伸一郎の出遅れなどから抑えに転向し、オープン戦でもまずまずの成績を残す。しかし、3月20日のパシフィック・リーグ開幕戦(対福岡ソフトバンクホークス)戦にて、3-1と楽天リードで迎えた9回裏から登板するが、柴原洋にパ・リーグでは14年ぶりとなる開幕戦でのサヨナラホームランを打たれる。その翌日3月22日にも4-3と楽天リードで迎えた9回2死で登板したが同点打を打たれる。救援失敗が続いたことの不安から先発に回り、4月11日の対オリックス戦で好投を見せた。登板後に本人も救援より先発の方がしっくりくると発言している。4月26日の対日本ハム戦で2安打で今季初完封を飾った。
[編集] エピソード
- 抜群の身体能力で、MAX155km/hの直球と140km/hの優れた高速チェンジアップを持つ助っ人投手。
- 横浜在籍時は打撃に非常に消極的だったことで知られ、18打席連続三振(世界記録)の珍記録を持つが、本人曰く「振っても振ってもバットに当たらないんだからしょうがない」。
- 一方で中日入団後は、野球を始める以前にしていたバスケットボールで鍛えた俊足を生かして、たびたび積極的な走塁を見せた。チームメイトの荒木雅博から「間違いなく自分より足が速い」と評価されていたほどである。
- バントは構えてからすると必ず空振りしていたが、普通のバッティングフォームから投球後ボールにバットを当てに行くようにすることは出来た。そのため、全てのバントが相手から見ると上記の俊足と相まって意表をついたセーフティーバントになった。2004年に記録した8安打のうち7本がバントヒットである。
- 中日時代には同じく俊足を活かしてサイン無しで盗塁を決行し、何度か成功させた。ヘッドスライディングしかできず(投手が手から滑り込むことは怪我をする危険性が高くタブー)、足からのスライディングを教えようとしたが拒否され、森繁和コーチに盗塁を禁止された。[1]
- 風貌が元読売ジャイアンツのバルビーノ・ガルベスに似ていることから、最初に来日した時に「兄弟?」と周りを驚かせた。同じドミニカ出身であり、台湾からのテスト入団という経緯でも共通しているが、本人はガルベスとの関係を否定している。
- 異常な強肩を活かした変則フォーム(上半身だけで投げる、いわゆる手投げ)が特徴だが、負担が大きかったのか、中日時代に右肩と右肘を痛めた。
- 中日退団後は右肩、右肘のリハビリ以外にはほとんど趣味の釣りをして過ごしており、実戦は友人らに誘われて草野球に1試合登板したのみだったという。
- 楽天入団後は、15万円のピアスを付けるようになった。
- 日本食は大好きで、特に刺身や寿司は昔からの好物である。[2]
[編集] 日本年度別投手成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 勝数 | 敗数 | セーブ | 完投 | 完封勝 | 投球回 | 被安打 | 奪三振 | 与四球 | 与死球 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | 横浜 | 42 | 19 | 5 | 5 | 0 | 4 | 2 | 96.2 | 85 | 66 | 31 | 4 | 30 | 2.79 |
2003 | 50 | 25 | 8 | 12 | 0 | 3 | 2 | 153.2 | 171 | 123 | 35 | 7 | 80 | 4.69 | |
2004 | 中日 | 42 | 23 | 10 | 5 | 0 | 0 | 0 | 146 | 138 | 128 | 41 | 9 | 61 | 3.67 |
2005 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 13 | 12 | 16 | 9 | 1 | 7 | 4.85 | ||
2006 | 4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 18.1 | 19 | 13 | 2 | 1 | 8 | 3.93 | ||
2007 | 東北楽天 | 99 | 11 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 55.2 | 56 | 40 | 22 | 5 | 31 | 5.01 |
2008 | 50 | ||||||||||||||
通算(6年) | 85 | 28 | 30 | 0 | 7 | 4 | 483.1 | 481 | 386 | 140 | 27 | 217 | 4.04 |
[編集] 脚注
監督 |
---|
19野村克也 |
コーチ |
78橋上秀樹(ヘッド)|71紀藤真琴(投手)|76杉山賢人(ブルペン)|77池山隆寛(打撃)|81関川浩一(打撃補佐) 80西俊児(内野守備走塁)|75佐竹学(外野守備走塁)|70山田勝彦(バッテリー)|73野村克則(バッテリー) |
二軍監督・コーチ |
87松井優典(監督)|82吉田豊彦(投手)|86星野おさむ(打撃)|89永池恭男(内野守備走塁) 85広橋公寿(外野守備走塁)|90芹澤裕二(バッテリー)|84高村祐(育成/投手)|74米田慶三郎(育成/野手) |
投手 |
0佐藤宏志|11一場靖弘|13小倉恒|14牧野塁|16山村宏樹|18田中将大|20長谷部康平|21岩隈久志|22愛敬尚史|26有銘兼久 28片山博視|29林恩宇|30永井怜|34渡邉恒樹|36朝井秀樹|40吉崎勝|41青山浩二|43寺田龍平|45川井貴志|47松崎伸吾 49インチェ|50ドミンゴ|51川岸強|53石田隆司|54木谷寿巳|56戸部浩|57小山伸一郎|59菊池保則|60石川賢|65松本輝 |
捕手 |
27河田寿司|31藤井彰人|37嶋基宏|39井野卓|44中谷仁|48伊志嶺忠|52山本大明|58木村考壱朗|67銀次 |
内野手 |
1塩川達也|2渡辺直人|3吉岡雄二|4高須洋介|6西谷尚徳|7山崎武司|12草野大輔 17フェルナンデス|32沖原佳典|35大廣翔治|38山下勝充|55リック|66西村弥|68枡田慎太郎 |
外野手 |
00森谷昭仁|8礒部公一|9鷹野史寿|23聖澤諒|24山崎隆広|25横川史学 33平石洋介|46鉄平|61憲史|62高波文一|63牧田明久|64中島俊哉 |
育成選手 |
121内村賢介(内野手)|126中村真人(外野手) |