トマス・ピンチョン
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トマス・ピンチョン(Thomas Ruggles Pynchon, 1937年5月8日 - )は、現代のアメリカを代表する前衛作家の一人。一見不条理に見えるがその実、博識に支えられている作品で知られ、とりわけ大作『重力の虹』は20世紀後半の世界文学の最高傑作のひとつとして名高い。ピンチョンはほとんどマスコミとの接触を持たず、その素性は知られていない。作品の数も非常に少ない。同時代の前衛文学者には、ジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、ジョン・ホークスがいる。ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。コーネル大学卒業。
90年代以降定期的にノーベル賞候補に挙げられている。イェール学派として有名な文芸批評家のハロルド・ブルームは現代の代表する米国人小説家としてドン・デリーロ、フィリップ・ロス、コーマック・マッカーシー、そしてトマス・ピンチョンの4人を挙げている。
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[編集] 略歴
トマス・ピンチョンは1937年、ニューヨーク州ロングアイランド、グレンコーブに測量技師トマス・ラグルズ・ピンチョン・シニアとキャサリン・フランセス・ベネット・ピンチョンの間に長男として生まれる。妹と弟がいる。
ピンチョン家はアメリカ最古の家柄のひとつである。遡れば11世紀にノルマンディーから征服王ウィリアムと共に英国に移住してきた事が分かっている。15世紀にはロンドンの執政長官を輩出した。初代ウィリアム・ピンチョンは1630年にウィンスロップ艦隊でマサチューセッツ湾植民地提督と共にやって来た700人の1人であり、ロクスベリー(Roxbury)とスプリングフィールドの建設に尽力し商人として財をなした。1650年に『われらが救済の褒むべき価』という本を出版し、ピューリタン正統派からは異端として非難され焚書されている。18世紀半ばを舞台にしたナサニエル・ホーソーンの小説『七破風の家』には、一族のピンチョン大佐が実名で登場する。
父親はプロテスタントで母親はアイルランド系のカトリック。子ども達はカトリックとして育てられた。16歳でオイスター・ベイ高校を最優秀学生として卒業した。コーネル大学から奨学金をもらって、同年秋に工学物理学(Engineering Physics)部に入学。1年が終わらないうちに大学を辞め、海軍に入隊した。なお、1998年にロンドンタイムズが息子と歩いていた姿をパパラッチするまで、ピンチョンの写真はこの入隊の際に撮影されたものと、10代の頃の写真しかなかった。
1957年にはコーネル大学に戻り英文科に入学。当時の創作科の講師にウラジミール・ナボコフがいた。しばしばピンチョンはナボコフの講義を受けていたと言われているが真偽は不明である(当時ナボコフは妻にレポートの採点をまかせており、妻はピンチョンの独特な手書き文字を覚えていると証言している)。大学3年と4年の時に学部学生の文芸雑誌『コーネル・ライター』の編集に携わり、1959年5月同誌に『少量の雨』を発表。
同年大学を最優の成績で卒業したピンチョンは数々の大学院の奨学金を断り、マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントでボヘミアン生活を送りながら小説『V.』を執筆しはじめる 1960年2月から1962年9月までの間、シアトルのボーイング航空機会社に就職して米軍の地対空ミサイルボマークのテクニカルライターとして働いている。1961年3月、短編『秘密裏に』を発表。後に書き直されて『V.』の第3章となる。退職後はカリフォルニアやメキシコに移り住む。
1962年、メキシコで長編第1作『V.』を完成。『V.』は1963年に出版され、同年度の最優秀処女小説に与えられるフォークナー賞を受けた。このころ雑誌社がピンチョンの写真を撮ろうとピンチョンを訪ねたところ、ピンチョンはバスで遠くの山中に逃げ込んでしまい、写真を撮ることはできなかった。ピンチョンはこのころから長く公の場に出ていない。
1966年、長編第2作『競売ナンバー49の叫び』を発表。ローゼンタール基金賞を受賞。1967年から1972年まではおそらくメキシコとカリフォルニアで生活していたと思われる。ドラッグについての噂が多い。
1973年には長編第3作目『重力の虹』発表。1974年度の全米図書賞を受賞するが、授賞式には姿を現さなかった。満場一致で同年度のピューリッツァー賞フィクション部門に推薦されるが、ピューリッツァー賞委員会は「読みにくく卑猥である」として退けた(同年のピューリッツァー賞フィクション部門は該当作無しとなった)。
1975年、米文芸アカデミーより5年に1度優秀な小説に与えられるハウエルズ賞に選ばれたが、「名誉なことだがいらないものは要らない」と受賞を辞退した。
1984年、初期短編を集めた『スロー・ラーナー』発表。執筆当時の状況を序文として書き下ろす。同年10月28日、ニューヨーク・タイムズにエッセイ「ラッダイトをやってもいいのか?」("Is It O.K. to Be a Luddite?")を掲載。邦訳は『夜想』25号(1989年)に掲載。1988年、マッカーサー奨励金(MacArthur Foundation Genius Grant)として31万ドルを受ける。
1990年、16年ぶりに長編第4作『ヴァインランド』発表。『ヴァインランド』の取材を兼ねて2度来日した。90年代半ば、エージェントのメラニー・ジャクソンと結婚、長男ジャクソン・ピンチョンが生まれる。
1997年、長編第5作『メイソン&ディクソン』発表。2003年、ジョージ・オーウェル著『1984年』の新版に序文を寄稿。2004年1月、アニメ『ザ・シンプソンズ』に本人役として(声のみ)出演。2月にも再登場。
2006年7月、最新作『アゲインスト・ザ・デイ』("Against The Day")の出版が予告される。出版は同年12月5日。オンライン書店Amazon.comに、ピンチョン本人(と思われる人物)によって宣伝文が掲載される。
[編集] 備考
- 1990年代に自殺したカリフォルニアの作家ワンダ・ティナスキー(Wanda Tinasky)がピンチョンと同一人物であるという噂があった。
- ピンチョンの最新作はロシアの数学者ソフィア・コワレフスカヤに関する小説になると噂されていた。マイケル・ノーマン元ドイツ文化大臣は、ドイツでピンチョンのコワレフスカヤ研究を助けたと発言している。
- 近年では若手作家と接触があり、スティーヴ・エリクソンはピンチョンからエイミーコミックを手渡されたと告白している。
[編集] 作品
- V. (V., 1963):ウィリアム・フォークナー賞
- 競売ナンバー49の叫び (The Crying of Lot 49, 1966)
- 重力の虹 (Gravity's Rainbow, 1973)
- スロー・ラーナー (Slow Learner-Early Stories, 1984)
- ヴァインランド (Vineland, 1990)
- メイソン&ディクソン (Mason & Dixon, 1997)
- アゲンスト・ザ・デイ(Against the Day, 2006)
[編集] 関連項目