ジャコ・パストリアス
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ジャコ・パストリアス | |
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ジャコ・パストリアス (イタリア ナポリ、1987年) |
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基本情報 | |
出生名 | John Francis Anthony Pastorius III |
出生日 | アメリカ合衆国 ペンシルベニア州 ノリスタウン 1951年12月1日 |
学歴 | アメリカ合衆国 マイアミ大学 |
出身地 | アメリカ合衆国 フロリダ州 |
死没日・地 | アメリカ合衆国 フロリダ州 フォートローダーデール 1987年9月21日、21時25分 |
ジャンル | ジャズ、フュージョン |
職業 | プロデューサー、作曲家、編曲家、ベーシスト |
担当楽器 | エレクトリックベース |
活動期間 | 1960年代-1987年 |
レーベル | Warner Bros. |
影響 | ジェイムス・ジェマーソン |
公式サイト | jacopastorius.com |
著名使用楽器 | |
Fender JAZZ BASS | |
ジャコ・パストリアス (John Francis Anthony Pastorius III、1951年12月1日 - 1987年9月21日) はジャズ及びフュージョンのエレクトリックベース奏者。ペンシルベニア州 ノリスタウン生まれ。1970年代に頭角を現し、1975年にはパット・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年、ファーストアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』でのソロ・デビュー、同年からウェザー・リポートの3代目ベーシストとして活躍。
エレクトリックベースの奏法に革命をもたらしたと言われ、彼が死した今においてもその信奉者は世界中に数多い。ジャズベース史上最大のトリックスターとされる。有名なベーシストは数多く居るが、ジャコはそれまでリズム楽器としての認識が強かったエレクトリックベースを花形楽器まで昇華させたイノベイターとして、エレクトリック楽器の歴史に一石を投じている。
目次 |
[編集] バイオグラフィ
- バック・グラウンド
- 幼少の頃から地元の聖歌隊に参加し、音楽的な素養を身に付ける。ジャコが7歳の頃、家族はフロリダ州 フォートローダーデールに移住した(後年、彼のアルバムでしばしばスティール・ドラムが用いられるのは、フロリダで過ごした影響が大きいとされる)。フロリダでは、地元のバンド「ラス・オラス・ブラス」でドラムを担当していたが、13歳の時フットボールの試合中に右手首を骨折してドラムを続けることが困難となったため、ベースを弾くようになった。高校卒業後はフロリダの地元でバンド活動していた。丁度この頃に手に入れたエレクトリックベースは毎日の練習とギグ数の多さからフレットがすり減ってしまったので、フレットを抜いてフレットレスベースを自作し、米国アコースティック社製ベースアンプ Modl#360と組み合わせた自分好みの音を作り出していた。フレットレスに改造したのはフェンダー社製フェンダー・ジャズベースの1962年モデル。フレットが残されたままの1960年モデルも愛用していた。
- ジャコの由来
- ジャコは若い頃「Nelson "Jocko" Padron」という変名にて活動して「Jocko」というニックネームで呼ばれていた。これは1950年代のメジャー・リーグ名物アンパイアから取ったものだった。ある日、アパートの隣に住んでいたアレックス・ダーキィと毎日のようにジャズの練習をしていた時に、アレックスが譜面に間違えて「Jaco」と書いてしまったところジャコはこれを気に入り、それ以降自分を「ジャコ(Jaco)」と名乗るようになった。
- アルバム・デビュー
- 1975年、パット・メセニーの初リーダー・アルバム『ブライト・サイズ・ライフ』に参加。同年、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのドラマー、ボビー・コロンビーとジャコは出会い、驚異的なベーステクニックはコロンビーにデビューアルバム制作を決断させる。アルバム作りに併行して約2ヶ月間コロンビー率いる上記BS&Tに参加、そこでマイク・スターン(ギター)と2年ぶりに再会し以後、音楽活動、私生活の両面で親しくなる。かくして、1976年にコロンビーのプロデュースでアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』が発表された。
- ウェザー・リポート時代
- 同1976年、フロリダに来ていたウェザー・リポートのリーダー、ジョー・ザヴィヌルにデモテープを渡すなどして直接自分を売り込んだ。2代目のベーシストのアルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であり、1976年にはアルバム『ブラック・マーケット』でザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲の録音に参加した。これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次のアルバム『ヘヴィ・ウェザー』以降ではコ・プロデューサー(プロデューサーへの補佐的立場)としてクレジットされるようになった。ウェザー・リポート内においては単なるベーシストとしてではなく、曲の提供なども含め、色々な意味での音楽的貢献度は高まっていた。同アルバム収録、ジャコの華麗なベースソロが聴ける「ティーン・タウン」では父親譲りのドラミングも披露していて、後にライブ・アルバム『8:30』のスタジオ録音サイド収録「8:30」でもドラムはジャコが叩いていて、ライブでの同曲演奏時にはジャコのドラミングに生で遭遇することが出来た。アルバム『ミスター・ゴーン』ではジャコ色が若干弱まったシンセサイザー主体の抽象的サウンドになり、この頃からジョー・ザヴィヌルとの確執が噂されるようになった。これ以降ウェザー・リポートのライブではジョー・ザヴィヌルのシンセサイザーなど電子楽器類とジャコのベースアンプの音量が非常に大きく鳴らされていて、互いが音量でも競い合っているような雰囲気だったため、会場でPAされたサウンドは、ほぼロック・コンサート並の大音量だった。
ウェザー・リポート以外にもトリオ・オブ・ドーム(ジョン・マクラフリン、トニー・ウィリアムス、ジャコでのトリオ・ユニット)でのレコーディングとハヴァナ・ジャムへの出演、ジョニ・ミッチェルのアルバム・プロデュースとコンサート・ツアーなど、一気に黄金時代を迎え華々しい活躍を見せ続けていた。
- ソロ及びワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド時代
- 1981年、ワーナー・ブラザーズ・レコードとソロ契約しセカンドアルバム『ワード・オブ・マウス』をリリースする。このアルバムはアメリカではあまり評判とならなかったが、日本では大絶賛された。翌1982年にはウェザー・リポートを離れ、ジャコは自身のバンドで活躍しはじめた。同年4月には「ジャコ・パストリアス・バンド」としての来日が予定されていたが、直前で急遽中止になり幻に終わってしまったが、同年8月には「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド」を引き連れて日本公演を行い、大成功をおさめた。この時の演奏は、ライブアルバム『Twins I & II』に収められている。なお、日本側からは東京ユニオンのメンバー数人がホーンセクションとしてビッグ・バンドに参加していた。このツアー用リハーサルには東京都渋谷区にあるNHKのスタジオが使われており、後にNHKの放送枠でライブの模様がオンエアされた。1983年5月21日と22日には再び「ジャコ・パストリアス・バンド」として東京新宿厚生年金ホールでの来日コンサートが行われていて、ビッグ・バンドよりも小編成ながらジャコ健在ぶりをアピールした。
- おもな来日コンサート・ツアー
- ジャコはウェザー・リポートからギル・エヴァンス・オーケストラでの来日まで、かなり多くのコンサートで来日していて、ウェザー・リポートでは1978年6月21-7月2日までの7公演、1980年6月21日-7月4日までの11公演、1981年5月31日-6月12日までの9公演、ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンドでは1982年8月31日-9月5日までの6公演、ジャコ・パストリアス・バンドでは1983年5月21日と22日の2公演、ギル・エヴァンス・オーケストラへの参加では東京よみうりランド、オープン・シアター EASTで行われた伝説のライブ・アンダー・ザ・スカイ出演も含む1984年7月28日と8月4日の2公演で、ファンの多くは来日コンサート・ツアーが途切れてしまった1985年以降1987年までは海外メディアからの情報も殆ど無くなってしまい、ジャコの状況は掴みにくくなっていった。
[編集] 楽器とパフォーマンス
- エレクトリックベース
- フェンダー社製の1960年と1962年型 ジャズベースを使用。1960年製の方は後年までフレット有りのままだったが、ジャコのトレードマークにもなっている1962年製の方は1970年代前半にフレットが抜かれフレットレスに改造された。フレットが抜かれた指板には船舶などの船底に使用される「マリーン・エポキシ」と呼ばれ乾燥後にはかなり硬化するエポキシ樹脂製のクリア塗料が塗られ、ローズウッドの指板をラウンド・ワウンド弦の擦れから保護していた。ボリューム及びトーン・コントローラー関連だが、1962年製ジャズベースのオリジナル状態は、ボリュームとトーン・コントロール・ノブが各1個ずつの計2組の仕様だった。それは2階建て構造の可変抵抗で構築された2連式ボリュームとトーン・コントローラーそれぞれ2個のピックアップ各々のボリュームとトーンを調整する方式だったが、ジャコのジャズベースは1963年式以降と同様にフロントとリアの独立ボリューム、マスター・トーンが1個のスタイルへ担当テックによって変更されている。コントロール・ノブはジャズベース本来の黒いプラスティック製の物ではなく、プレシジョンベースなどに使われている金属メッキが施されたタイプの物を装着している。
1962年仕様のベースがトリビュート扱いでフェンダー社のカスタムショップ・トリビュートという特定のビルダーが作業する製造ラインから「ジャコ・パストリアス トリビュート・ジャズベース フレットレス」(以前には「ジャコ・パストリアス レリック・フレットレスベース」という名称も使われた)として製造発売され、ボディーの傷や塗装の剥がれかた、ネック裏の汚れまでも忠実に再現されている。但しフィンガー・ボード部分に関しては「エリック・クラプトン ブラッキー・トリビュート」や「トリビュートシリーズ ジェフ・ベック エスクワイヤー」で見られるような、長年にわたって使い込まれた汚れや傷など詳細のエージング処理はされず新品さながらのとても綺麗な仕上がりになっているが、フィニッシュはジャコ同様にエポキシ樹脂コーティングが施されている。
- ベース・ストリングス
- 英国ロトサウンド社製(ROTOSOUND)のRS-66 SWING BASS(スゥイング・ベース)というラウンド・ワウンド弦を使用していた。この弦はザ・フーの故ジョン・エントウィッスルが初期開発に関わったことでも有名で、他にはイエスのクリス・スクワイア等もメインで使用していた。一般的にはロック・ミュージシャン御用達のベース弦。
- ベース・アンプ
- ステージ上では2台の米国アコースティック社製ベースアンプ - Model #360+361を主に使用。このアンプは1968年〜1971年まで生産されていたモデルで、搭載されているスピーカーは45cmで、フロント・ローデッド・ホーン形式のキャビネットに収納されていた。プリ・アンプ及びパワー・アンプ部がオール・トランジスタ(ソリッド・ステート)設計のハイ・パワー型となっていて、平均出力は220W、最大ピーク時は440Wまで対応できる仕様。アンプ・ヘッドのコントロール部には、ハイゲインとローゲインのインプットがあり、ブライトスイッチ、ボリューム、トレブル、ベース、バリアンプ・レンジとエフェクト、ファズのアタックとゲイン・コントロール等と、パワースイッチ、グランドのオン・オフが装備されている。アンプ・ヘッド部のサイズは、縦x15.3cm、横幅x61cm、奥行きx30cmで、スピーカー・キャビネット部のサイズは、縦x122cm、横幅x61cm、奥行きx46cm。
ジャコがソロ・パフォーマンス時にベース・アンプ・ヘッドのファズを調整しているシーンを、ウェザー・リポートの1976年ライブ映像DVD「ライブ・アット・モントルー 1976」や、ベスト・アルバム『フォーキャスト:トゥモロー』に含まれている1978年のライブ映像DVDでも確認することが出来る。
- プレイ
- ベースを弾くときの基本的右手ポジションはブリッジ側ピックアップの上端に親指を乗せ、指を伸ばした状態のまま指の付け根を動かして弾く、早いパッセージにも対応できる奏法をとっていた。ソフトな音色が必要とされる時などはネック終端に親指を乗せたそのポジションで弾いたり、スラッピングでパーカッシブなリズムを出す際には、手のひらを指板に弦ごと叩きつける様な奏法も取っていた。ウェザー・リポートの「バードランド」(アルバム『ヘヴィ・ウェザー』収録)や「Three Views Of A Secret」(アルバム『ナイト・パッセージ』収録)のイントロやソロの一節などでの親指を利用したピッキング・ハーモニクス奏法が随所に使われ、この奏法の場合には必要なハーモニクス・ノート毎に弾く場所が変わるため、曲全体を通すと様々なポジションで弾くスタイルでもある。
- エフェクト効果
- スタジオ録音においては全く同じフレーズを2度弾くダブル・トラッキングを行う事があり、フレットレスの微妙なピッチ・コーラス効果を巧みに使用していた。ウェザー・リポートの「A Remark You Made」(アルバム『ヘヴィ・ウェザー』収録)やジャコの「コンティニューム」(アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』収録)などで聴くことが出来る。この奏法をステージ上でこれを再現させるために、MXR社製デジタル・ディレイを使っての疑似ダブリング効果を用いていた。オーディオ・サンプリング機能の初歩的機能であるサウンド・メモリー機能も使い、サウンド・オン・サウンド方式でソロ・パフォーマンス時における彼独自のスラッピングしたフレーズなどをリピートさせて特定のリズムを作り、その上でソロを弾く場合には毎度々々おなじみの光景ながらも観客はそのパフォーマンスが楽しみでもあった。
- パフォーマンス
- ライブ中のソロ終盤には概ねディストーションを掛けた状態でのハーモニクス奏法で「トレーシーの肖像」(アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』収録)を弾き始め、ジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」などの有名なフレーズも引用したりした上でベースを床に置きハーモニクスを鳴らしロングトーンでフィードバックが掛かっている中、忽然とステージから消え、再び現れて楽器を休める…といったような光景だった。ウェザー・リポートでのコンサート時には興奮してのってくると曲の途中で雄叫びのようなシャウトが聴けたり、「ジャコのカニ歩き」としても有名な、素早い横歩きでステージ上を右往左往してファンで埋め尽くされた客席を盛り上げていた。
[編集] 精神疾患と死
- ウェザー・リポート脱退直後
- ウェザー・リポートから離れた頃からジャコの生活は荒れはじめた。ドラッグに溺れたり躁鬱病に悩まされ、コンサート・ツアー中にも奇行が目立つようになり、ドラッグ更正施設への入退院を繰り返すようにもなった。当時の来日ステージ「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」で全身に泥を塗った格好で登場した事は有名である。1980年代中頃、ライブ活動は小規模ながらもニューヨークのジャズクラブなどでギグを続けており、マイク・スターンやハイラム・ブーロック、ケンウッド・デナードとセッションを行っていた。
- 死に至った経緯
- 1987年9月11日、地元フォートローダーデールに来ていたサンタナのライブに飛び入りしようとしたところ、警備員が知らなかったのか当時の姿からジャコ本人とは信じられずにか追い出されてしまい、失意の内に訪れたナイトクラブ「ミッドナイト・ボトルクラブ」に泥酔している状態で入ろうとしたところ、空手技能を持つガードマンとの乱闘となり、投げ飛ばされた弾みで倒れた際に鋭角なモノに頭部を強打し、脳挫傷による意識不明の重体に陥った。運び込まれた病院では昏睡状態が続いていたが一向に意識の回復が望めず、家族同意のもと、父親のジャックの手により人工呼吸器が外され、1987年9月21日 21時25分、家族らが見守る中、永眠した。ジャコはイノベーターとして世界中からの期待を掛けられたまま、彼の生まれ故郷であるフロリダの地で35年9ヶ月あまりの生涯を閉じた。
- ジャコ回想
- ジャコの1980年代における奇行は酒やドラッグによるものと言われて来たが、ジャコの家族の証言によると躁鬱病によるものである可能性が高く、早くからジャコの状態を理解していたらあのような悲劇は避けられたかもしれない。しかしながら酒とドラッグの摂取量が常人をはるかにしのぐ量であった為、それらが症状の悪化を劇的に進ませたということも否定できない。また、彼が酒などに走った一つの理由として、「トップスターでいることに対する過度のプレッシャーを感じていた」という証言も残っている。ジャコの前妻イングリッド・パストリアスによると、「1980年代に日本国内でジャコが見せた様々な奇行の数々が、日本の某ジャズ系音楽雑誌を通じてアメリカへは誇張された形で飛び火し、さらに偏見を持たれた」という事だった。そう言ったことから、今でもイングリッドは日本の某ジャズ系音楽雑誌を快く思っていないのも事実である。
[編集] エピソード
ジャコに対してはその音楽性以外にもルックスや使用楽器、そして波瀾万丈な人生において世界中に数多くのシンパを生んでいる。1978-1981年頃のウェザー・リポート来日コンサート・ツアーや、その他ジャコ主体のコンサートで直に体験することが出来なかった生のジャコの姿をあまり知らない世代にとって、ジャコの伝記本として1990年代初頭に出版されていた『ジャコ・パストリアスの肖像』は彼を知る上での参考書になっている。ただし、この著者ビル・ミルコウスキーとジャコは面識がないらしく、イングリッド本人も面識はないらしい。そういった事から文献の内容はその殆どが周囲などへのインタビューで構成されている書物として受け取るのが、現時点ではジャコの肖像を知る上で適切だろう。
また、最初の妻であるトレーシーとの間に生まれた子供達のジョンとメアリーは、現在ジャコの残した音楽的資産管理をするための事務所を開いて活動している。1982年に発売されたアルバム名『Twins I & II』の元にもなっていて、同年誕生したジャコと2番目の妻イングリッドとの双子の息子、ジャコの血を引き継いだジュリアスとフェリックスは「way of the groove」というバンドを組んで地元フロリダ・フォートローダーデールのバーやクラブで頻繁にギグを行っているが、まだレコーディング・デビューはしていない。因みに、フェリックスはベースでジュリアスはドラムを担当していて、どちらもジャコが得意としていた楽器だけにDNAを受け継いだ今後の成長と活躍が期待される。また、甥であるデイヴィット・パストリアスは「Local 518」というバンドでデビューしている。
[編集] ディスコグラフィー
- ソロ・アルバム
- ジャコ・パストリアスの肖像 (1976)
- ワード・オブ・マウス (1981)
- ウェザー・リポート在籍時
- ライブ・アルバム (ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド & ジャコ・パストリアス・バンド)
- Twins I - Aurex Jazz Festival '82 (1982)
- Twins II - Aurex Jazz Festival '82 (1982)
- インヴィテイション (1983)
- バースデイ・コンサート (1995)
- Twins I & II (1999)
- Twins I & II - Live In Japan 1982 (2007)
- コンピレーション、その他
- ライブ・アンド・アンリリースド (2002年) "ウェザー・リポート"
- パンク・ジャズ (2003)
- フォーキャスト:トゥモロー (2006年) "ウェザー・リポート"
- トリオ・オブ・ドーム (2007) "トリオ・オブ・ドーム"
- ザ・エッセンシャル・ジャコ・パストリアス (2007)
- 代表的参加アルバム
- パストリアス, メセニー, Ditmas, Bley -『ジャコ』(1974)
- パット・メセニー -『ブライト・サイズ・ライフ』(1976)
- アル・ディ・メオラ -『ランド・オブ・ザ・ミッドナイト・サン』(1976)
- イアン・ハンター (Ian Hunter) -『オール・アメリカン・エイリアン・ボーイ』 (All-American Alien Boy) (1976)
- ジョニ・ミッチェル -『逃避行』(1976)
- アルベルト・マンゲルスドルフ -『トライローグ - ライブ!』(1976)
- ジョニ・ミッチェル -『ドンファンのじゃじゃ馬娘』(1977)
- トム・スコット -『インティメット・ストレンジャー』(1977)
- ハービー・ハンコック -『サンライト』(Sunlight) (1978)
- ジョニ・ミッチェル -『ミンガス』(1979)
- ミシェル・コロンビエ -『ミシェル・コロンビエ』(1979)
- ジョニ・ミッチェル -『シャドウズ・アンド・ライト』(1979)
- ハービー・ハンコック -『ミスター・ハンズ』 (Mr. Hands) (1979)
- ボブ・ミンツァー - 『Source』(1982)
[編集] ビデオグラフィ
- ライブ・アット・モントルー 1976 "ウェザー・リポート"
- シャドウズ・アンド・ライト "ジョニ・ミッチェル"
- ライブ・イン・モントリオール "ジャコ・パストリアス・バンド"
- モダーン・エレクトリック・ベース
- フォーキャスト:トゥモロー (2006年) "ウェザー・リポート"
[編集] 外部リンク
- JACO PASTORIUS - the official web site of the world's greatest bass player(オフィシャル・ウェブサイト)
- INGRID'S JACO CYBERNEST(ジャコの元妻・イングリッドのサイト)
- WAYOFTHEGROOVE.COM(ジャコの息子達のバンドサイト)
- DAVID PASTORIUS / official site(ジャコの甥、デイビッドのサイト)
- FENDER PLAYERS CLUB - JACO PASTORIUS
- JACO PASTORIUS DISCOGRAPHY(Tom Stroud監修)
- JACO PAGE
- JACO PASTORIUS UNISSUED LIVE RECORDINGS DISCOGRAPHY
- A TRIBUTE TO JACO PASTORIUS 1951-1987