グレナディアー (SS-210)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1940年4月 |
進水: | 1940年11月29日 |
就役: | 1941年5月1日 |
退役: | |
その後: | 1943年4月21日に喪失 |
除籍: | |
性能諸元 | |
排水量: | 1,475トン |
全長: | 307 ft 2 in |
全幅: | 27 ft 3 in |
吃水: | 13 ft 3 in |
機関: | |
最大速: | 水上:20 ノット 水中:8.70 ノット |
乗員: | 士官、兵員80名 |
兵装: | 3インチ砲1門 21インチ魚雷発射管10門 |
グレナディアー (USS Grenadier, SS-210) は、アメリカ海軍の潜水艦。タンバー級潜水艦の一隻。艦名はタラ科の魚、グレナディアーに因んで命名された。
[編集] 艦歴
グレナディアーは1940年4月にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工した。1940年11月29日にウォルター・S・アンダーソン夫人(海軍諜報部長の妻)によって命名、進水し、1941年5月1日に艦長アラン・R・ジョイス少佐の指揮下就役する。
グレナディアーは1941年6月20日にO-9 (USS O-9, SS-70) 捜索に参加する。O-9はショールズ諸島沖での潜水訓練に失敗し浮上することができなかった。グレナディアーは二日後に行われた遭難者の追悼式に参加した。カリブ海での整調後グレナディアーは11月5日に修理のためポーツマスへ帰還した。日本軍による真珠湾攻撃の3週間後、グレナディアーは潜水艦隊に加わるため太平洋へ出航した。
歴戦の潜水艦は1943年3月20日に最後の哨戒に向けてオーストラリアを出航し、マラッカ海峡に向かう。マレー及びタイの沿岸を偵察し、グレナディアーは4月6日にプーケット島沖で貨物船を発見する。グレナディアーはその海域に留まり、4月20日の夜に2隻の艦影を発見、攻撃のため接近する。4月21日の夜明け、水上航行中に日本軍第936航空隊の艦上攻撃機が接近し急速潜行する。艦長のジョン・A・フィッツジェラルドは「120から130フィートの距離があるので安全だ」と語ったが、ちょうどそのとき爆弾が炸裂し、グレナディアーは振動して15から20度傾いた。動力と照明は完全に停止し、82mの深海に着底した。操舵室では火災が発生した一方、乗員は必死に修理を試みた。
海底で13時間が過ぎたがどうにか修理は成功し、21日の夕刻にグレナディアーは浮上した。推進システムの損害は回復不能であった。艦の放棄とジャングルへの脱出ができるようにするため、フィッツジェラルド艦長は艦に帆を付けて海岸に近づこうとした。しかしながら夜通し行われた作業は無意味であった。22日の夜明けに疲れ果てた乗組員は2隻の日本軍艦艇が接近するのを発見した。艦長は「動力無しで280フィートの水中に潜行停止するのは望ましくない」として、乗組員は艦を放棄するため機密文書を焼却し始めた。日本軍機はグレナディアーへの攻撃を続けたが、グレナディアーは機銃で応戦し、日本軍機が二度目の通過をした際に命中弾を与えた。被弾した日本軍機は離脱し、その魚雷は艦から200ヤードの距離で爆発した。
乗組員は艦を放棄するため全ての排水孔を開放した。艦は沈み、8名の士官と68名の乗組員は全て日本軍の捕虜となった。彼らはペナンへ連行され、詰問、殴打された。彼らは別々の収容所に収監され、マレー半島に沿って移動され最終的に日本本土へ連行された。グレナディアーの生存者は1943年11月27日にオーストラリアに到着した。非人道的な扱いにもかかわらず、グレナディアーの乗組員は4名を除いて全てが2年間の収容所生活を生き残った。
グレナディアーは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。
グレナディアーの記念碑がニューヨーク州バッファローのバッファロー・エリー郡ネーバル・アンド・ミリタリーパークに展示される。
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