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オフリド - Wikipedia

オフリド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オフリド

Охрид
オフリド市街
オフリドОхридの市章
市章
位置
オフリドの位置の位置図
オフリドの位置
座標: 41°07′01.31″N, 20°48′06.14″E
歴史
{{{成立区分1}}} {{{成立日1}}}
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旧名 {{{旧名}}}
創設者 {{{創設者}}}
行政
オフリド

Охрид
市長 Aleksandar Petreski
地理
面積  
  市域 383.93 km²
    陸上
    水面   {{{水面面積(平方キロ)}}} km²
      水面面積比率
  市街地
  都市圏
標高 695 m
人口動態
人口 (2002年現在)
  市域 42,003人 人
    人口密度   142.97 人/km²
  市街地
    市街地人口密度
  都市圏
    都市圏人口密度
  備考
その他
等時帯 CETUTC+1
  夏時間
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市外局番 {{{市外局番}}}
ナンバープレート {{{ナンバープレート}}}
ISO 3166-2 {{{ISOコード}}}
公式ウェブサイト: [1]

オフリド(Ohrid、マケドニア語:Охрид)は、マケドニア共和国西部にある都市。バルカン半島の大湖オフリド湖のほとりにある。かつては市内に365もの教会があり、マケドニアのエルサレムと呼ばれた時代があった。10世紀末から11世紀にかけて、ブルガリア帝国の首都であった。このため大主教座が置かれ、現在でもマケドニア正教会の大主教座が置かれている。1980年、オフリドとオフリド湖はともにUNESCO世界遺産に登録された。

目次

[編集] 市名

マケドニア語とその他の南スラヴ語での市名はオフリド(Охрид)という。アルバニア語での市名はオハル(Ohër、不定名詞)またはオフリ(Ohri、定名詞)である。歴史的な名前としては、ディアッサリテス(Dyassarites)、ラテン語のリクニドゥス(Lychnidus)またはギリシャ語名リクニドス(LychnidosΛύχνιδος)、オクリダ(OchridaΟχρίδαまたはΩχρίδα)とアクリダAchridaΑχρίδα)、後者二つがいまだ現在の慣用となっている。

[編集] 歴史

現代のオフリド市は、古代都市リクニドス(Lychnidos)の後裔である。これは数件の東ローマ時代の文献、『町はリクニドスの大湖近くの高い丘の上にあり、その前はディアッサリテスと呼ばれていた町は、湖にちなみリクニス(Lychnis)といった。』と書かれていたことで立証されている。古代の町リクニドスの存在は、ギリシャ神話フェニキアカドモスとつながる。彼はテーバイの建国者であり、晩年にエンケレイス人の国へ逃れてオフリド湖のほとりにリクニドスの町を建設したという[1]

古代にラクス・リクニティス(Lacus Lychnitis)という名であったオフリド湖は、遠い古代に青くきわめて透明な水をたたえていたことからそのギリシャ語の名前がついた。中世には時にその古代の名前で呼ばれていたほどだった。町は古代ローマ道ヴィア・エグナティア(en:Via Egnatia)沿いにあり、アドリア海の港ディッラキオン(現在のドゥラス)とともにビザンティウムとつながっていた。おそらく、第一次ブルガリア帝国皇帝サムイルの要塞が建つ前に、町の丘の上に要塞があったとされる。考古学上の遺跡(5世紀からあるポリコンホウス聖堂など)が、この地域にあった初期キリスト教への順応を証明する。リクニドスから来た司教が多数のエキュメニズム会議に加わった。

ブルガリア人がリクニドス市を867年に征服した。オフリドという名前が初めて現れるのは879年である。990年から1015年の間、オフリドは第一次ブルガリア帝国の首都であり要塞であった。990年から1018年の間、オフリドはブルガリア総主教座が置かれていた。1018年に東ローマ帝国がオフリドを占領した後、ブルガリアの総主教座はオフリド大主教座へ格下げされ、コンスタンディヌーポリ総主教庁の権威の下に置かれた。

ポリコンホウス聖堂の床モザイク画
ポリコンホウス聖堂の床モザイク画

1018年以降、より位の高い聖職者はほとんどがいつも決まってギリシャ人であった。オスマン帝国支配時代もそれは変わらず、1767年に総主教座が廃止されるまでギリシャ人高位聖職者時代が続いた。16世紀初頭、オフリド総主教座はソフィア、ヴィディン、ワラキアモルダヴィアの主教管区、かつてのペーチ総主教座の一部を下位に持つ頂点に達していた。イタリアにおける正教会管轄区域(アプリアカラブリアシチリアヴェネツィアダルマチア)ですら配下においていたのである。

監督主教都市として、オフリドは重要な文化中心地だった。市内にある現存するほぼ全ての教会は、ビザンツ時代とブルガリア帝国時代に建てられたもので、残りは中世後期に短期間セルビア支配を受けた時代に建てられたものである。

オフリドは、キリル文字の誕生した地らしいということが信じられている。オフリドの聖クリメント(en:Clement of Ohrid)がおそらく考案し、聖キュリロスと聖メトディオスの兄弟がグラゴール文字を交替で考案したものを、クリメントがさらに革新させたのだとする。

アンティオキアボエモン1世と彼の率いるノルマン軍は1083年にオフリドを掌握した。13世紀と14世紀、オフリドはエピロス専制侯国、ブルガリア、東ローマ帝国、セルビア帝国と、支配者が次々と変わった。14世紀終わり頃、オフリドはオスマン帝国に占領され、1912年まで支配された。キリスト教徒人口は、トルコ支配最初の1世紀で衰えてしまった。1664年、市内にはキリスト教徒の家がわずか142軒しかなかった。この状況は、18世紀に入って改善された。オフリドが、主要通商路上の重要な貿易中心地として出てきたのである。18世紀終わり頃、およそ5,000人の住民がいた。18世紀終わり頃と19世紀初頭に向かい、オフリド地方はトルコ占領下の他ヨーロッパ諸国のように、社会的不安の温床であった。マフムド・パシャ・ブシャトリヤ(Mahmud Pasha Bushatlija)とジェラディン・ベグ(Djeladin Beg)のような半ば独立した封建領主らがオフリドを管理下に置き、中央政府に公然と反抗して、税支払いを拒否したり、自身の私兵にあてがう金として税金をとりたてた。19世紀終わり頃、オフリドには2,409軒の家があり、11,900人の人口があった。人口のうち45%はムスリムで、残りはほとんどが東方正教会信徒であった。1912年以前、オフリド(トルコ名オフリ、Ohri)は、モナスティル県にあるモナスティル(現在のビトラ)のサンジャク(県)を抑制する町区の中心であった。

[編集] キリスト教会史

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オフリド地域の文化的・歴史的景観とその自然環境
マケドニア共和国

オフリド湖畔にたつ聖ヨヴァン・カネオ教会
オフリド湖畔にたつ聖ヨヴァン・カネオ教会
(英名) Natural and Cultural Heritage of the Ohrid region
(仏名) Patrimoine naturel et culturel de la région d’Ohrid 
登録区分 複合遺産
登録基準 文化遺産(1)(3)(4)
自然遺産(7)
登録年 1979年
拡張年 1980年
IUCN分類
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
世界遺産テンプレートを使用しています

最初に名前が知られた主教はゾシムス(433年頃)である。6世紀には、地震で破壊されたが(プロコピオス著『ヒストリア・アルカナ』より)、オフリド近隣で生まれたという東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって再建された。ユスティニアヌスによって町はユスティニアナ・プリマと呼ばれたという(彼が建てた新しい都市のうち最も重要な都市として)。しかし歴史家デュシェーヌは、別のイリュリアの開拓された町スクピがこのユスティニアナ・プリマだと主張する(Les églises séparées, Paris, 1856年 240)。新たな都市が県都かイリュリア地域圏の都となり、政治の便宜上で市はイリュリア都市のキリスト教会中心地、または帝国の南部ドナウ地域(南部ハンガリー、ボスニア、セルビア、トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア)のキリスト教会中心地にされた。ユスティニアヌス1世は、ローマ教皇アガペトゥス1世かシルウェリウスからの申し分のない承認を、この処置のためすぐ得ることはできなかった。キリスト教会の権威の侵害に加え、皇帝の行いは、イリュリア地方における教皇の司教座の典型として、テッサロニキの古代の権利に対する損害となった。それにもかかわらず、新たな司教座が要求され、事実、教会の自主独立特権、またはキリスト教会の独立特権を獲得した。その長く様々に変化させた歴史を保ち続けて、また格闘し続けて、この特性が得られたのである。ユスティニアヌスから圧力を加えられた教皇ウィギリウスは、世俗領土の広範な管内に含まれるユスティニアヌス・プリマの、大主教管区による大主教権の儀式を認めた。しかし、教皇グレゴリウス1世は、ローマ教皇の主教座に対する他のイリュリア主教たちと同様に、ローマへ従属するようユスティニアヌスを扱ったのだった。

受胎告知を表したイコン。オフリドの聖クリメント・オクシリドスキ教会蔵
受胎告知を表したイコン。オフリドの聖クリメント・オクシリドスキ教会蔵

7世紀のアヴァール人スラヴ人の侵入は、この古代の信仰・文明化中心地の荒廃をもたらし、2世紀にわたって府主教の特性は停止状態になった。

しかしイリュリアにおいて新たにブルガリア人の改宗が進んだ後(864年)、主教座が再び目立つことになり、この時代に市はアクリダの名で呼ばれていた。ビザンツ人宣教師らがこの地域で最初にキリスト教教義を説いて回ったけれども、ローマから大司教が送られた。そこから、ブルガリア人は自らの初の公式説明と、キリスト教信条と規律における事柄の勧告とを書いた。コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオス1世ミスティコス (在位:858年-867年)の書いたResponsa ad Consulta Bulgarorumの中に見られるこのブルガリア人の業績は、中世の教会記録のうち最も影響を及ぼしたものの一つとされる [2]. しかし、ブルガリア王(クニャズ)ボリスはすぐにビザンティンの影響に感化された。第4コンスタンティノポリス公会議が869年に開催された際、ブルガリアは東ローマ帝国のコンスタンディヌーポリ総主教庁と一体化され、870年にラテン人の宣教師らが追放された。それから東ローマ帝国の府主教がオフリドを管掌するようになった。オフリドはブルガリア皇帝サムイル時代に帝国の首都となった。10世紀には好戦的な支配者の遠征により利を得て、オフリドは東ローマ帝国に新たに含まれた領土の府主教座となった(拡大したマケドニア地方、テッサリアトラキア)。ブルガリアがフォティオスの分離(ローマとコンスタンティノープル両教会の対立)において9世紀終わり頃からコンスタンティノープル側につくと、オフリドの主教座は西方教会と教皇の影響から脱した。

サムイル帝の要塞
サムイル帝の要塞

1018年にブルガリア帝国は東ローマ皇帝バシレイオス2世によって崩壊させられ、バシレイオス2世はオフリドをより近くコンスタンティノープルに接触できるようにした。ここにオフリドはブルガリアのオフリド府主教座となった。1053年、オフリド府主教レオ(en:Leo of Ohrid)は、ラテン教会に対抗してトラーニのヨハネへ、ミカエル・カエルラリウスと同意の上回覧状を送った。1078年にオフリド府主教テオフィラクトゥスは、高名な中世ビザンティン聖書解釈者の一人であった。彼は自ら書いた文通において、オフリド主教座の伝統的独立性を主張した。コンスタンティノープル主教は、コンスタンティノープルから独立した主教がブルガリアにおいて聖職授与をする権限はないと言った。実際、オフリドはこの時期にコンスタンティノープルやローマのどちらとも親しく交わっていた。しかしローマの司教座のため、オフリドの感情は友好というには劣り、14世紀にオフリド主教アンティムスは、父なる神と子から精霊が突出することに対して記述していることがわかっている。けれども、ラテン人宣教師たちが14世紀から15世紀にかけオフリドに現れた。その多くがフランチェスコ会聖職者で、彼らはこの地方でのローマ教会支配権の保護を義務として負っていた。13世紀、名の知られた裁判官デメトリオスがオフリド大主教となった。

17世紀の在オフリドのラテン人司教らは、同時代の者がそうであったように、専制的な司教であった。オフリドの教会の独立は近代においてうわべだけであり、ブルガリアにおけるカトリックの影響はそのままにされていた。コンスタンティノープル総主教アルセニウスは、オスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世の依頼で1767年についにオフリド府主教座を廃止した。その権威の絶頂において、オフリド府主教座の権威の下に従属するのは、10の府主教座と6の監督主教座が数えられた。

[編集] 主な建築物

聖ナウム教会
聖ナウム教会
聖パンテレイモン教会
聖パンテレイモン教会

[編集] 姉妹都市

[編集] 世界遺産登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。

[編集] 脚注

  1. ^ Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992,ISBN 0-631-19807-5,Page 99:"... 99 victory would be theirs if they received Cadmus as king. After this had come about as foretold, Cadmus and Harmonia ruled over them and founded the towns of Bouthoe (Budva) and Lychnidus (Ohrid). ..."
  2. ^ マンシ人, xv, 401; Hefele, Concilieng., iv, 346 sq.

[編集] 外部リンク


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