マケドニア共和国
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- マケドニア共和国
- Република Македонија
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(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : マケドニアの国歌
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公用語 マケドニア語、アルバニア語 首都 スコピエ 最大の都市 スコピエ 独立
- 日付ユーゴスラビアから
1991年9月8日通貨 マケドニア・デナール(MKD) 時間帯 UTC (+1)(DST: (+2)) ccTLD MK 国際電話番号 389
マケドニア共和国(マケドニアきょうわこく)は、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和国。旧ユーゴスラビア連邦を構成していた国のひとつで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアと、四方を外国に囲まれた内陸国である。
国土は、地理的・歴史的にマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあたる。マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占め、残りは、約5割がギリシャに、約1割がブルガリアに分属する。マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していた古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。このため、ギリシャとの間で国名を巡って激しい論争がある。
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[編集] 国名
憲法上の正式名称は、Република Македонија (マケドニア語: ラテン文字転写は、Republika Makedonija 。読みは、レプブリカ・マケドニヤ)。通称は、Македонија (Makedonija)。
公式の英語表記名は、Republic of Macedonia。略称、Macedonia。
日本語での表記は、マケドニアもしくはマケドニア共和国。但し前者は地域としてのマケドニアと区別が付かないことに注意されたい。日本国はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政文書における日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」になる。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、これも先にギリシャがEUに加盟していることから「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及される。
マケドニアという国名は、この地の名称であり、アレクサンダー大王で有名なマケドニア王国の名に由来するものである。しかし、マケドニア地方の南部を領有し、その州名として既にマケドニアの名を使用していたギリシャ政府は、この地への領土的野心を伺わせる国名に対する警戒心と、ギリシャ人の国家であった「マケドニア」の名を歴史的にも民族的にも無関係の南スラブ人が称することに対する不満から、国名を変更するように強く抗議をした。そのため、1993年に現在の英語名を国際社会における仮の国名として、国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、暫定名称の The Former Yugoslav Republic of Macedonia(略称「FYROM」)の名で、この国との関係をもった。しかし、ロシアなど約40カ国の国々は、FYROM ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係をもっている。
- ギリシャとの国名論争については、マケドニア国名論争および統一マケドニアの各項を参照。
[編集] 歴史
詳細はマケドニアを参照
マケドニア地域の南スラヴ人は、東ローマ帝国、ブルガリア帝国、セルビア王国などの支配を経てオスマン帝国の支配下に入った。オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属においたので、これらの人々の帰属意識も正教会の信仰におかれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。
1912年、第一次バルカン戦争でマケドニアの大部分はブルガリア領に入るが、 翌1913年の第二次バルカン戦争により西北部4割はセルビア(のちユーゴスラビア王国)が奪取した。 このセルビア領マケドニアがのちのマケドニア共和国の起源である。第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦はこの地域にマケドニア共和国を置き、この地方の南スラヴ人はマケドニア人と呼ばれるようになる。
1991年9月8日、ユーゴ解体に伴い、マケドニアは独立を宣言。国名をマケドニア共和国とし、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(ヴェルギナの太陽ともいう)を描いた国旗を制定した。 1992年3月に連邦軍が撤退して独立を達成した。
1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、 4月に現在の暫定国名で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、 1994年2月に経済封鎖された。このとき、国旗を変更、憲法の一部を改正した。 1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。
1998年、総選挙の結果、旧共産系の社会民主同盟に代わり、中道右派連立政権が成立。 1999年3月に始まったNATO軍によるユーゴスラビア空爆(コソボ紛争)によって約50万人のコソボ地域のアルバニア系住民が難民として押し寄せた。 2001年2月、アルバニア系住民の民族解放軍(NLA)が武装蜂起した(マケドニア紛争)。 8月にアルバニア系住民の権利拡大を認める和平合意文書(オホリド合意)に調印し、NATO軍が駐留を開始した。 11月には議会が合意に基づき憲法を改正。 2002年9月の総選挙では、マケドニア人政党社会民主同盟が政権を奪還し、NLAが改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突が散発的に起こったが、現在は落ち着きをみせて治安は安定している。
[編集] 政治
マケドニアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は1991年11月17日に制定され、同月20日に施行されたもの(その後、数度の改正を経ている)。
国家元首である大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。元首としてマケドニア共和国を代表し、形式的に国軍最高司令官および治安評議会議長を務める。だがその権限は、儀礼的なものに限られる。
実際の政治は行政府たる内閣が率いる。総選挙後初の議会で首相が選出され、その後、議会により閣僚の選出が行なわれる。
立法府は一院制議会で、定数120議席。議員は比例代表制により選出され、任期は4年。
複数政党制が機能している。主な政党には中道右派の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMME)と中道左派のマケドニア社会民主同盟(SDSM)の2党がある。詳細はマケドニア共和国の政党一覧を参照。
最高司法機関は最高司法裁判所。
[編集] 地方行政区分
[編集] 地理
[編集] 経済
農業等の第一次産業に依存しており、また旧ユーゴ解体や先の国名問題に絡みギリシャからの経済封鎖が行われ、国内経済は安定しておらず、96年以降GDP成長率はプラスに転じたが先行きは不透明であり、国際通貨基金の監視下にある。2003年、世界貿易機関に加盟。
[編集] 国民
住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。
言語はマケドニア語(公用語)が68%、アルバニア語(公用語)が25%、トルコ語が3%、セルボ・クロアチア語が2%、その他が2%である。
宗教は正教会に属するマケドニア正教会が70%、イスラム教が29%、その他が1%である。
[編集] 文化
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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1月1日 | 元日 | ||
1月6日 | クリスマスイブ | マケドニア正教(ユリウス暦による) | |
1月7日 | クリスマス | マケドニア正教ユリウス暦による) | |
移動祝祭日 | 犠牲祭 | イスラム教徒のみ | |
3月8日 | 女性の日 | ||
移動祝祭日 | 聖大金曜日 | マケドニア正教(復活祭の直前の金曜日) | |
移動祝祭日 | 復活祭 | マケドニア正教 | |
移動祝祭日 | 光明月曜日 | マケドニア正教(復活祭の翌日) | |
5月1日 | メーデー | ||
8月2日 | 革命記念日 | ||
9月8日 | 独立記念日 | ||
10月11日 | パルチザンの日 | ||
移動祝祭日 | ラマダン | イスラム教徒のみ |
[編集] 有名な出身者
- ハジェヴスキー・ギョキッツァ - サッカー監督。元同国代表監督、Jリーグ・ジュビロ磐田の元監督
- カロリーナ・ゴチェヴァ - 歌手。バルカン半島を中心に人気が高く、ユーロビジョン・ソング・コンテストに2回出場。
- ヴラトコ・ステファノフスキー - ギタリスト(元レブ・イ・ソル)
- ゴッツェ・セドロスキー - サッカー選手、2004年にJ2・ベガルタ仙台に在籍
- マザー・テレサ (本名:アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ / アルバニア人)
- ボリス・トライコフスキー - 元大統領でVMRO-DPMNE穏健派の政治家。民族対立の緩和に尽力したが、在任中に事故死。
- ボバン・バブンスキー - サッカー選手、1996年-1998年にJリーグ・ガンバ大阪に在籍。現在は同国代表コーチ。
- ゴラン・パンデフ - サッカー選手。 イタリアセリエAで活躍するMF、FW。
- トシェ・プロエスキ - 歌手。バルカン半島一円で大変な人気を誇った。
- ミルチョ・マンチェフスキ - 映画監督、脚本家。
[編集] マケドニア国名論争
古代マケドニア王国の領地が自国にあるギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャの一地方」と主張する[1]。ギリシャは、セルビア南部から1991年に独立した、マケドニアの北西部地域にあたるこの国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼ぶ。同時に、1990年代よりマケドニアの国号を改めるよう要求している。
2008年時点において、論争が再び過熱。国連と米国が仲裁に入り、解決策を模索している[1]。
[編集] 脚注・参考資料
- ^ a b 「マケドニア:ギリシャと再び国名論争 国連、米国が仲裁へ」 毎日新聞 2008年3月24日
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 政府
- マケドニア共和国政府 (マケドニア語)(英語)
- マケドニア大統領府 (英語)
- 日系機関
- 旅行
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地域 | イギリス:ガーンジー島 - ジブラルタル - ジャージー島 - マン島 - アクロティリ・デケリア¹ | デンマーク:フェロー諸島 | ノルウェー:スヴァールバル諸島 | フィンランド:オーランド諸島 |
バチカンは国際連合非加盟。「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国、あるいは独立主張をしている国。国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。
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