アテネオリンピック野球日本代表
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アテネオリンピック野球日本代表(アテネオリンピックやきゅうにほんだいひょう)はアテネオリンピックに出場した日本のプロ野球選手を編成したチームである。通称、長嶋ジャパン。
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[編集] 概要
プロ選手の参加が認められた2000年シドニー大会で、アマチュア主体のメンバーに松坂大輔らプロ8人を参加させた混成チームで出場しながら初めてメダルを逃した。そのため、日本球界が一丸となっての代表選定を目指して、監督に日本球界最大のスーパースターである長嶋茂雄巨人終身名誉監督を起用し、初めて全選手をプロ選手のみで構成する代表が編成された。
代表チームはオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権大会を全勝してアテネ大会への出場権を得るが、長嶋は大会を前にした2004年3月4日に脳梗塞のため入院。病状によっては監督交代という事態も取り沙汰され、星野仙一(前阪神監督)や原辰徳(現巨人監督)など具体的な名前も報道された。だが全日本野球会議は長嶋の早期回復を期待して、5月に長嶋体制の続行を決定する。6月25日の代表選手発表の会場には長嶋の姿は無かった。病状が回復した場合のアテネ行きも検討されたが、最終的に長嶋は医師団の判断を尊重して断念。結局、代表チームの指揮は監督経験が皆無である中畑清ヘッドコーチが執ることとなった。
また代表選出にあたっては、各球団の経営者側の判断によって、戦力への影響を公平にするとの目的で各球団から2名ずつに制限された。これは、アテネ大会の開催期間中にもプロ野球の公式戦が通常通り行われることから、いい選手を持ち、チームを優先させたい中日の落合博満監督や阪神の岡田彰布監督らの希望でもあった。長嶋らは制限の撤廃を希望していたが実らず、本来の意味でのベストメンバーとはならなかった(例を挙げれば予選で活躍した中日の井端弘和はこの2人枠のためチームでは福留孝介や岩瀬仁紀がいたため出場できなかった)。このことには、アテネ大会の現地解説をつとめた星野仙一が経営者側の近視眼的な判断と指摘するなど、批判の声も多かった。
日本代表は決勝進出を逃し、銅メダルに終わった。このことに関して、代表選出の方法はもちろん、スコアラー等の裏方スタッフの不備による情報収集の不備、そして柔軟性に欠ける中畑の采配にも問題点を見出すことができる。例えば、谷佳知など公式戦ではバントをほとんどしない主軸選手に送りバントを命じて失敗を招いたり、終盤のチャンスの場面で左投でサイドスローのウィリアムス(阪神)に対し左打者で、さらに普段チームメイトであり対戦の少ない藤本(阪神)をそのまま送り出す(※)など、型にはまった策が裏目に出る場面も多かった。シドニーでの敗因は現場ではなくプロ選手の派遣問題であったのに対し、アテネでは首脳陣の采配や裏方の不備にすべて責任があったとの声が聞かれる。
- ※中畑の意図は、左打者である藤本が右へゴロを打ってランナーを進塁させ、日本を代表するクリーンナップに託すという「生産的アウト」を想定したものであった。実際、藤本は中畑の意図の通りニゴロでランナーを得点圏に進めている。
しかし、最大の問題点は日本球界が一丸となって編成された日本代表が監督不在で挑むという異常な事態となったことにあるといえる。代表編成の過程において、長嶋の持つカリスマ性は球界はもちろんスポンサーである財界、マスコミなどを含めた統一体制を作り上げる重要な要素となっていた。そのことから、長嶋が病床に臥してからも「長嶋ジャパン」という看板を下ろすわけにはいかず、マスコミ報道も体制の見直しよりも長嶋が早期に回復してアテネで指揮を執ることを願うようなものが多かった。
だが、実際の症状を見ている長男の長嶋一茂などは、監督業は無理、と反対していた(体の負担にもなるから)。しかし、長嶋茂雄本人はいたって意欲的であり、それがリハビリの意欲にもなっていたことから、一茂も大きく反対できなかった。結果的には長嶋がその姿をマスコミの前に出すまでにも一年以上かかってしまい、到底無理な話であった。肝心の監督采配も「長嶋さんの為にも金メダルを」という合言葉の前に、二の次となってしまっていた。
とはいえ、野球が正式種目になって以来予選リーグをトップ(6勝1敗)で通過したのは今回のチームが初めてであり(銀メダルを獲得したアトランタ五輪代表は4勝3敗の予選3位)、キューバを五輪で破ったのも初めてである。オーストラリアに敗れた事実を格下の相手が強国を相手に番狂わせを演じたと捉える向きが極一部にあるようだが、これは試合後の選手のコメントと共に多くのファンを失望させた。
確かに一度の対戦で敗戦しただけならば、番狂わせと呼ぶことができるかもしれないが、このアテネ五輪ではオーストラリアと二度対戦し、二度とも敗戦したという事実から目を背けた行為に過ぎないからである。
[編集] 監督・コーチ
- 監督:
- ヘッド兼打撃コーチ:中畑清
- 国際オリンピック委員会の規定により、アテネオリンピックでの登録上の監督は中畑になっている。
- 投手コーチ:大野豊
- 守備・走塁コーチ:高木豊
- アドバイザースコアラー:柴田猛
[編集] 選手
/の後の数字は背番号。
[編集] 投手
- 清水直行(千葉ロッテ/11)
- 岩瀬仁紀(中日/13)
- 黒田博樹(当時広島/15、現ドジャース/18)
- 安藤優也(阪神/16)
- 三浦大輔(横浜/17)
- 松坂大輔(当時西武、現レッドソックス/18)
- 上原浩治(巨人/19)
- 岩隈久志(当時大阪近鉄、現東北楽天/20)
- 和田毅(福岡ダイエー/21)
- 小林雅英(当時千葉ロッテ、現インディアンス/30)
- 石井弘寿(ヤクルト/61)
[編集] 捕手
[編集] 内野手
[編集] 外野手
- 福留孝介(当時中日、現カブス/1)
- 谷佳知(当時オリックス、現巨人/10)
- 村松有人(オリックス/23)
- 高橋由伸(巨人/24)
- 木村拓也(当時広島、現巨人/27)
- 和田一浩(当時西武/55、現中日/5)
[編集] 第22回アジア野球選手権メンバー
アテネオリンピック予選を兼ねた第22回アジア野球選手権に代表として選出され、アテネオリンピック本戦の代表には選出されなかった選手は以下の通り。
[編集] 壮行試合メンバー
2004年7月13日、14日に行われた日本代表壮行試合の選手として社会人野球から選出された選手は以下の通り。
[編集] アテネ五輪アジア地区予選兼第22回アジア野球選手権の戦績
※会場は札幌ドーム。日本代表は決勝ラウンドからのシード。2003年11月5日~7日。
[編集] 決勝リーグ
- 11月5日 13-1中国
- 11月6日 9-0台湾
- 11月7日 2-0韓国
- 日本代表は優勝、アテネ五輪出場権獲得
[編集] アテネ五輪の戦績
※会場はギリシャ・ヘリニコにあるオリンピック野球センター。(2)は第2グラウンド。他は第1グラウンドで開催。試合日は現地時間。
[編集] 予選リーグ
- 8月15日 12-0イタリア(大会規定により7回終了でコールドゲーム)
- 8月16日(2)8-3オランダ
- 8月17日 6-3キューバ
- 8月18日(2)4-9オーストラリア
- 8月20日(2)9-1カナダ
- 8月21日 4x-3チャイニーズ・タイペイ(台湾)【延長10回】
- 8月22日 6-1ギリシャ
[編集] 決勝トーナメント
- 8月24日(準決勝) 0-1 オーストラリア
- 8月25日(3位決定戦) 11-2 カナダ
- アトランタオリンピック以来2大会ぶりのメダル、銅メダル獲得
[編集] その他
- チャイニーズ・タイペイ戦では(後のニューヨーク・ヤンキースのエースとなる)王建民の前に打線が沈黙したが、高橋由伸の同点ホームラン(最終的には勝利)で決勝トーナメントに進むことができた。
- オーストラリア戦では2度に渡ってジェフ・ウィリアムスの前に苦汁を嘗めたが、実はアトランタオリンピックでも敗戦を喫している。