松本重治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本 重治(まつもと しげはる、明治32年(1899年)10月2日 - 平成元年(1989年)1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。
明治の元勲松方正義は母方の祖父。妻花子は松方正義の三男幸次郎の娘。
目次 |
[編集] 年譜
- 1899年10月2日:大阪市堂島に松本枩蔵、光子の子として生まれる。母光子は松方正義の四女 松本重太郎の跡を継いだ父枩蔵は九州電気軌道会社の重役となり生活の大半を九州で過ごした 重治は小学校、中学校時代を母親とともに神戸にすごす
- 1917年:第一高等学校に入学。
- 1920年:東京帝国大学法学部入学。
- 1923年:大学院に進学。
- 1924年:イェール大学に留学。
- 1925年:ウィスコンシン大学に留学。
- 1926年:ジュネーヴ大学に留学。
- 1927年:帰国。東京帝国大学高木教授のヘボン講座助手。
- 1932年:「東京政治経済研究所」創設。「新聞聯合社」(のちの同盟通信社)入社。
- 1939年:同盟通信社編集局長。
- 1943年:同盟通信社常務理事。
- 1945年:「同盟通信社」を退職。「民報」社を設立、社長兼主筆。
- 1947年:公職追放の処分を受ける。アメリカ学会を創設。
- 1951年:ジョン・ロックフェラー3世と再会。
- 1952年:「国際文化会館」の専務理事。
- 1965年:「国際文化会館」の理事長。
- 1969年:勲一等瑞宝章を授賞。
- 1976年:文化功労者となる。
- 1989年:没。「国際文化会館葬」として送られる。
[編集] 評価
アメリカ研究の泰斗高木八尺を生涯の師と仰ぎ、戦後は国際文化交流のプログラムと世界的な知識人達を招待する民間の知的交流機関を運営。会館に一生を捧げた彼は自らを「宿屋のオヤジ」と呼び、趣味のパイプを咥えた姿で世界中のブレインの信用を集めた。親日派とされた歴史家のアーノルド・J・トインビー、ロックフェラー財団のジョン・ロックフェラー3世は松本を無二の親友とよび、会館の運営に協力している。文化交流と若者の道を拓くためフルブライト委員会やユネスコ国内委員会の委員、国立西洋美術館評議員にもなったが、吉田茂、鳩山一郎、池田勇人からの、駐米大使、駐英大使、国連大使の公職は断っている。吉田茂に白洲次郎の大臣就任を諮問された際には「言葉の足りない奴だから」と仲の良かった後輩の廟堂入りも止めさせた程に、誰に対しても遠慮はしなかった。
坊ちゃん気質で、会った人間の人柄で惚れる(反面、嫌う癖もある)為に、戦前は近衛文麿に協力している。近衛自身が心ならずも周囲の波に押し流される時でさえ、この友情だけは動かなかった。中国の要人・ジャーナリスト・学者との深い交流を持ち、この事が西安事件の独占スクープとして世界を激震させる要因となる。1930年の京都における第3回太平洋会議以来、新渡戸稲造の薫陶を受けていた。
著書に『上海時代』、『近衛時代』がある。昭和史の生き証人でありながら、無防備な人柄のため、著作について一面では不当とも思える非難を浴びている。父方の祖父松本重太郎を生涯を通じて敬愛した。母方の祖父は松方正義。叔父の松方幸次郎は幼少より重治を可愛がり、重治は幸次郎の娘の花子と結婚している。この為、「松方コレクション」の散逸には心を痛めている。
[編集] 人脈
以下、(○)は親戚を現す。
神戸中学時代の後輩に、吉川幸次郎、今日出海、白洲次郎(○)。先輩に嘉治隆一。長与善郎(○)の白樺派に傾倒。一高時代の同期に牛場友彦(○)、岡崎嘉平太、尾崎秀実。東京帝国大学法学部で先輩に末弘厳太郎門下の蝋山政道、我妻栄、木村龜二がおり、日曜日には内村鑑三の聖書講義の会に通っていたが「新人会」には誘われていない。同い年の叔父松方三郎(○)と遊び仲間で、西園寺公一もキンちゃん、シゲちゃんと呼び合う仲。
外遊した際にはニューヨークの日本大使館で鶴見祐輔と出会い、彼の縁で歴史家のチャールズ・ビアードと対面、その唯物史観と人柄に衝撃を受けてジャーナリストを志す。ジュネーブのILOの国際会議で前田多門、松岡駒吉を知る。旧知の秩父宮が槇有恒をリーダーとしてアルプス登山をする際には同行。御殿場時代には宮付きの士官だった本間雅晴とテニスをしている。
帰国後は柏会グループ(内村を中心とした一高卒業生)の黒木三次(○)、鶴見祐輔、高木八尺(○)、前田多門の四名が後見人となり、東大の高木講座で助手に。長谷川如是閑を嘉治から紹介され、東大の俊英である蝋山と「国際政治経済研究所」を創設。
柏会メンバーで新渡戸門下の先輩でもある岩永裕吉(○)に誘われて新聞聯合社に入社し、古野伊之助の「信用第一」の記者の心得を授かると上海支局長として単身赴任。内山書店で立ち読みしている魯迅を目撃、1度だけ会食の栄に浴している。「聯合」と「電通」が合併した同盟通信社となった年に西安事件をスクープ。後藤隆之助と徐新六(蒋介石の右腕)の会談をセットして旧知の松井石根率いる派遣軍の南京入城をとめようと奔走する。汪兆銘工作では幾多の説もあるが、汪の立場を守ろうとしている。日米の和平工作にも協力。
本業では里見甫を手伝い満州国通信社の設立に貢献した帰りに川島芳子を見かけている。また、後に「ロイター」の社長となる中国支配人クリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)とはライバルであり友人であった。彼の奔走により日本人が入れなかった「上海クラブ」に加入、クラブとして親米派の最長老の樺山愛輔(○)を招待して樺山に誉められてる。帰国後は上田碩三らと共に「同盟」の常務会を構成している。後に語っているところでは上田が電通系(後に電通3代目社長)であったため、聯合の途中入社の松本でも周りの目からあまり話ができなかったという。
敗戦後、親友であった近衛文麿の自殺を牛場と止めようとしたが力が足りず、この友人を亡くすのが戦前の大観である。
占領下で吉田茂(○)が外務大臣に就任すると、幼友達の白洲次郎(○)の依頼で、アメリカのことはあまり知らない吉田のブレーンとなった。
[編集] その他
- 1927年の金融恐慌で資産の大部分を失い12円50銭が重治の相続した金銭のすべてであったという。
[編集] 著作
[編集] 参考文献
- 著者:ハル・松方・ライシャワー、訳者:広中和歌子 『絹と武士』 370-389頁 1987年
- 『追想 松本重治』中央公論事業出版、1989年