里見甫
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里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月12日 - 1965年3月21日)は、関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。
福岡市の修猷館から上海の東亜同文書院を経て貿易会社勤務。その後天津の邦字紙京津日日新聞記者、北京新聞主幹に就任。
1930年(昭和5年)満鉄南京事務所嘱託となり、満州事変後は関東軍参謀部第4課(対満政策課)嘱託となり情報収集・宣伝・宣撫を担当。国策会社満州国通信社(国通)の設立に関わり、初代主幹(事実上の社長)に就任。
満鉄総裁に就任した後藤新平は、台湾総督時代に阿片の専売化・漸禁政策により、アヘン戦争以来中国に流入、蔓延していた阿片の規制に成功。満州でも同様の政策を実行し、軍閥から取り上げられた阿片利権は里見に託される。関東軍の影佐禎昭大佐の指導で中国の地下組織青幇や紅幇とも連携し、上海でのアヘン密売を取仕切る里見機関を設立。阿片によって得た莫大な利益の半分を蒋介石側に、残りの半分を日本側の傀儡であった汪兆銘と関東軍に上納していた。
戦後はA級戦犯として起訴されるが無罪釈放。日本商事代表に就任。里見の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。
[編集] 備考
里見は「電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。電通通信史刊行会の「電通通信史」(1976;以下『電通史』と略す)によると現在の広告代理店の電通は光永星郎を創業者とする「日本電報通信社」という通信社に始まっている。光永は日清戦争で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた(詳細は通信社の歴史を参照)。
御手洗辰雄の「新聞太平記」(1952;以下『太平記』と略す)では、光永が通信社経営のために苦心した様子が描かれている。光永はニュースを新聞社へ売ったとしてもそれだけでは経営が立ち行かないと考え、全国の新聞の広告欄について広告主と新聞の仲介者として手数料を取る広告代理店の業務を兼業するアイデアに至る。通信社が広告代理店となったのはこれが最初ではなくフランスのAFPにも例があり、国内でも光永が最初ではない。しかし新聞市場を科学的に研究した光永は「新聞年鑑」を発行するなどプランを実現化する(詳細は通信社の歴史を参照)。
月間の広告取扱高は150万円、日本の新聞広告の7割を掌握し、株主配当7分という優良企業に成長した電通は銀座の顔となった八階建ての自社ビルを建てる(『電通史』)。ただし、同時に新聞の部数を把握して新聞社の生命線である広告単価を握っていた電通のやり口は周囲の反感をもたれていたとする見方もある(『太平記』)。新聞と広告の二本柱で「国を代表する通信社」となった電通を広告のみと分割させたのは、情報局を背景とする国家代表通信社「同盟通信社」の創設である。
これを電通のライバルである「新聞連合社」の古野伊之助の策謀にあると見る者がある。駄場裕司は『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(2007)で里見脩の『ニュース・エージェンシー―同盟通信社の興亡』(2000;以下『ニュース』と略す)について注釈でその硬直性に言及しているが、現在は広く以下の観点が一般的である。
即ち、戦前の日本の新聞社は外国からのニュースを通信社から得ていたが、古野は国家の中枢に働きかけ外国から情報を得る通信社を一元させようとして電通を切り崩しにかかったとする見方である。これは国家の情報統制と歩みを一つにしているとする見方である。このステップとなったのが満州における電通勢力の排除であり、その結果として「満州国通信社」は創設されたとする見方である(『ニュース』)。
満洲国通信社の『国通十年史』(言論統制文献資料集成に収録)によると新聞連合社の奉天支局長の佐々木健児が本庄繁に推薦したのが兄事していた里見とされ、里見はこれにより初代主幹となる。組織が曖昧なため主幹という名称となっている。ちなみに二代目の理事長は松方三郎である。『国通十年史』では本庄に創設に関する研究を指示された里見だが、通信社と国内の情報機関についての内情が不明なため、1932年に来日した際に面識のあった大阪の能島進(電通支社長)に説明をもらった上で白鳥敏夫、鈴木貞一、上田碩三、古野伊之助と面談して組織の基盤作りにも松本重治の協力を求めたとしている。佐野の一文はこのような背景がある。