松方三郎
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松方 三郎(まつかた さぶろう、明治32年(1899年)8月1日 - 昭和48年(1973年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等。松方家第3代当主で本名は義三郎。
日本の登山界の草分けのひとりで、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。
父は明治の元勲松方正義。兄は川崎造船所(現川崎重工)川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男。義三郎は十三男の末子である)
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[編集] 略年譜
- 1899年8月1日:松方正義とその妾キタの子として生まれる(母キタは京都で舞楽用の装身具を販売していた家の娘という) 義三郎と名付けられる 京都の北、松ヶ崎の農婦である乳母の家に預けられ4歳までここに育つ その後、兄巌に養われ芝区南佐久間町に住む
- 1905年4月:兄松方幸次郎の養子として届出
- 1916年3月:学習院中等科卒業
- 1919年3月:学習院高等科卒業 9月:京都帝国大学経済学部入学 河上肇教授に傾倒する
- 1922年3月:京都帝国大学経済学部卒業 東京に戻り三田綱町の正義邸に居住 東京帝国大学大学院に籍を置く
- 1923年9月:神奈川県鎌倉一ノ鳥居の松方正義別邸で関東大震災にあい重傷
- 1924年12月:日本郵船榛名丸でヨーロッパへ留学
- 1925年:嘉治隆一との共著「マルクスとエンゲルス」を弘文堂から出版 スイス山岳会会員となる
- 1926年8月:エンゲルへルナー群峰の岩登りに槇有恒らとともに秩父宮に随伴
- 1927年:イギリス山岳会(アルパイン・クラブ)会員となる。
- 1928年2月:帰国 4月:南満州鉄道株式会社入社、東亜経済調査局勤務
- 1934年2月:社団法人新聞聯合社入社 外信部勤務
- 1936年1月:社団法人同盟通信社発足、初代調査部長となる
- 1938年2月北支総局英文部長となり北京に駐在 8月:北支総局長 英文部長兼任 10月:北支総局長のまま香港支局長を兼務 香港に駐在
- 1945年6月:満州国通信社理事長退任 9月:同盟通信社へ復帰 調査局長に就任 10月:社団法人同盟通信社解散のあとをうけつぐ社団法人共同通信社創立社員総会開かれ常任理事に選出される
- 1946年6月:日本山岳会会長
- 1949年4月:慶應義塾大学体育科目講師
- 1951年6月:日本新聞学会創立、理事に就任 12月:株式会社日本電報通信社取締役に就任
- 1953年4月:株式会社たくみ取締役に就任
- 1955年5月:本名“義三郎”を“三郎”と改名(子供のころから“義三郎”の名を嫌い自他ともに“三郎”で通っていたのが家庭裁判所で認められた)
- 1960年6月:共同通信社顧問 11月:株式会社共同テレビジョン・ニュース取締役会長
- 1962年4月:社団法人日本山岳会会長就任 12月:株式会社国際テレビ・フィルム設立、代表取締役に就任
- 1963年5月:同盟クラブ理事 10月:日英協会副理事長
- 1968年12月:社団法人日本山岳会名誉会員
- 1970年3月:日本山岳会ヒマラヤ登山隊長としてネパールへ出発 5月:エヴェレスト登頂成功(同年5月11日に同隊の松浦輝夫と植村直己が日本人初の登頂に成功した)。
- 1971年1月:株式会社ニュース・サービス・センター設立 取締役となる ボーイスカウト・世界ジャンボリー組織委員長を務める。
- 1973年2月:慈恵医大に入院 8月病床にて受洗 洗礼名はピオ・アンブロジオ 9月:死去
[編集] その他
[編集] 家族・親族
- 妻 星野(山口県,実業家佐藤市十郎二女)
- 子供は8人
[編集] 著作
- アルプスと人 (1948年、岡書院)
- 遠き近き (1951年、竜星閣)
- 父と子の山 (1957年、中央公論社)
- アルプス記 (1974年、竜星閣)
[編集] 松方三郎エッセー集
築地書館
- 山で会った人 (1975年)
- 手紙の遠足 (1975年)
- 山を楽しもう (1975年)
- アルプスと人 (1976年)
[編集] 参考文献
- 編集世話人代表松本重治 『松方三郎』 共同通信社 1974年
- 著者:ハル・松方・ライシャワー、訳者:広中和歌子 『絹と武士』 文藝春秋 1987年