松方コレクション
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松方コレクション(まつかたコレクション)とは、実業家松方幸次郎が大正初期から昭和初期にかけて築いた美術品コレクションのこと。
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[編集] 収集の経過
1916年(大正5年)頃、松方がロンドンで、当時社長を務めていた川崎造船所のために、貨物船の売り込みや資材の買付をしていた際に、興味本位でオークションで絵画を購入したことが収集のきっかけであったという。画家ブラングィンと知り合い、1916年から1918年までのロンドン滞在中に1000点以上の作品を収集した。この他、フランスの実業家が持っていた浮世絵8000点を購入した。
1921年(大正10年)にロンドン・パリに渡った。このときは海軍の依頼で潜水艦の設計図を入手するのが密かな目的だったという。松方の名は既にコレクターとして知られており、モネやロダンとも直接に交友し作品を購入した。画商などから購入するときも剛胆で、ステッキで「ここからここまで」と指して購入したとの逸話も伝えられる。このパリ滞在時には矢代幸雄が同行しており、画商で見かけたゴッホの『ファンゴッホの寝室』とルノアールの『アルジェリア風のパリの女たち』を希代の傑作として購入を勧めたという。当時、松方は「私が自由に使える金が三千万円できた」と矢代に語ったということであり、これは現在の通貨価値に換算すれば300億円程度と推定される[1]。
1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけても、ヨーロッパに滞在しコレクションを増やした。
対象は絵画、彫刻、工芸品、海外に在った浮世絵などでその点数は絵画2千点、浮世絵8千点におよぶといわれたが、現在はその正確な点数は分かっていない。
[編集] コレクションの行方
松方は共楽美術館という美術館を設立する構想をもっており、ブラングィンが設計図を作成していた。しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻し、負債整理のため松方も私財を提供せざるを得なくなった。そのため、日本にあったコレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、売立てにより散逸してしまった。それらの一部が現在ブリヂストン美術館、大原美術館に収蔵されているものである。浮世絵のコレクション約8000点は皇室に献上され、のちに帝室博物館(東京国立博物館)に移管された。
一方、海外で保管していたコレクションは散逸を免れたが、1924年に実施された10割関税(関東大震災の復興資金のため、買値の10割の関税、つまり買値と同額の税金がかかった)が障害になり、昭和初期の軍国化の傾向の中で西洋美術のコレクションは軍部に悪印象を与えるのを恐れたこと等もあって、そのまま海外に保管されていた。
ロンドンに保管していたコレクション(約300点と推測されている)は1939年に火災で焼失してしまった。パリに保管していたコレクション(428点との説がある)は、ロダン美術館に預けられていたが、第二次世界大戦のドイツの侵攻により、パリの近郊、アボンダンに疎開していた。幸運にもナチスの押収は免れたものの、戦後にフランス政府に押収されてしまった。
1951年のサンフランシスコ講和会議でも議題となり吉田茂が返還を要求したが、フランス側が譲らず、コレクション中主要な作品20点をフランスに残すことにし、その他の作品、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が美術館に展示するという条件で寄贈(返還)されることになり、1959年に国立西洋美術館で公開されるに至った。
返還交渉にあたった矢代幸雄らは特に『ファンゴッホの寝室』と『アルジェリア風のパリの女たち』を要求したが、前者の返還は認められなかった。
[編集] フランスに残された作品
オルセー美術館、ルーブル美術館などに所蔵されている。
- ゴーギャン4点
- セザンヌ、3点
- ボンヴァン、3点
- スーティン、2点
- クールベ、1点
- マネ 「ビールジョッキをもつ女」 計1点
- ロートレック、1点
- モロー、1点
- マルケ、1点
- ピカソ、1点
- ゴッホ 「ファンゴッホの寝室」 計1点
- ルノワール、1点
[編集] 脚注
- ^ 矢代幸雄『芸術新潮』昭和30年1月号、岡泰正『「アルルのゴッホの寝室」、松方コレクション、眼力示す。』2006年11月17日、日本経済新聞
[編集] 関連項目
- 神戸川崎財閥(松方コンツェルン)