西園寺公一
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西園寺 公一(さいおんじ きんかず、明治39年(1906年)11月1日 - 平成5年(1993年)4月22日)は、神奈川県生まれの政治家。参議院議員、外務省嘱託職員、太平洋調査会理事など歴任。民間大使の異名をとる。祖父は西園寺公望、父は西園寺八郎。
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[編集] 来歴・人物
明治39年(1906年)11月1日、公爵西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生。学習院を経たのちイギリスへ留学。昭和5年(1930年)、オックスフォード大学を卒業した。
帰国後は外務省嘱託職員、太平洋調査会理事などを歴任。近衛文麿のブレーンとして軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また「汪兆銘工作」にも参画、「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。
昭和15年(1940年)9月には再度外務省嘱託職員となり、対米戦争回避のための努力を行った。この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、ヒトラーやムッソリーニとも会っている。昭和16年(1941年)7月には、内閣嘱託に。近衛首相より、日米交渉について、陸海軍の意見調整を図る、という任務が与えられた。
同年10月、風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎秀実の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎秀実とは共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたが、それを「国家機密漏洩」であるとされて、懲役1年6ヶ月、執行猶予2年の判決を受けた。これを契機に、西園寺家の相続権を放棄することとなった。
戦後は、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めた。参議院議員選挙に出馬して当選。昭和29年(1954年)には京都市長選挙に出馬して落選する。
昭和33年(1958年)には日本共産党に入党するも、のちに路線の対立を生じさせた結果、昭和42年(1967年)に除名処分となる。その直後に家族とともに中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等としてとして北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。
一方、著しく中国共産党寄りだった姿勢や、言論人として責任を負わなかった態度には批判が多い。文化大革命開始当初にいち早くこれを支持し、毛沢東・江青夫妻や林彪などを礼賛した[1]。 また文革を疑問視する保守派政治家や言論人、台湾関係者を非難する言動を繰り返していた。西園寺の言動は中国国内で文革の宣伝・扇動にも用いられた。しかし昭和51年(1976年)の毛沢東の死後、文革が終結し、華国鋒によって江青ほか四人組が逮捕されると態度を一変させた[2]。 更に昭和56年(1981年)、江青らに死刑判決が下ると早速これを支持し、江青を非難するに至った[3]。 当時の日本においては西園寺以外にも文革礼賛者が少なくなく、一定の理解者まで含めると相当数に及んだ。大半の者は言論責任を負うことをしなかったが、その多くは口を閉ざし、あるいは論壇から退場していった。しかし西園寺は自身の不見識を棚に上げ、なおも中国共産党におもねり、更に論壇にも居残ろうとする態度を取り続けたことから、保守派はもとより中立的な言論人からも厳しい批判を受けた。「自己批判」を口にしながら「江青にだまされていた」等と言い訳に終始し、自分が何を間違えたのか検証しようともしない姿勢は批判者を呆れさせるほどであった[4]。
かつての文革礼賛者はその後新興宗教やカルト的団体に接近する者が少なくなかったが[5]、西園寺も晩年は子息とともに創価学会に傾倒。入会こそしなかったものの、外部の理解者の立場にあった[6][7]。 中国寄りの創価学会に賛同しなお影響力を誇示しようとしていたようであるが、一方の創価学会にとって、中国とのかかわりが深く名門の末裔でもある西園寺父子は組織の「権威付け」には重宝な人物であった。
[編集] 家族
[編集] 脚注
- ^ 「紅衛兵の活動には、とくにその初期においては、いろいろの行き過ぎがあったのを否むことはできない。しかし、紅衛兵運動は、無産階級文化大革命というまことに激しい、まことに厳しい革命の先駆である。いったい行過ぎのない革命などというものがありうるのか。」「文革が進み、修正主義の道をゆく劉少奇一派の正体が暴露され、毛沢東路線の勝利が不動のものとなるにつれて、江青さんの声望は高まり、文革指導者の地位はゆるぎないものとなった」「江青同志の直接の指導のもとに、姚文元同志は、新作歴史劇「海瑞の免官」評ずという文章を書いたとある。姚文元のこの一文は文革の幕開けに重要な役割を果たしたものだ。江青さんの果たしている革命的役割がこのように大きいのと、その謙虚な清潔な人柄がアピールするのだろう」「文革については、毛主席の英明な指導はもちろんだが、林彪さんが国防部長になって以来の毛沢東思想による徹底した解放軍教育が、はかりしれない原動力だったとおもう。」西園寺公一『北京十二年』朝日新聞社 1970年
- ^ 「四人組が打倒された直後、事の真相を知らされた私は、しばし呆然自失した」「前の段階では考えられなかった新しい事態が発生している。帰国してとりあえず『北京十二年』の絶版を申し入れ、私の自己批判の糸口とした」日中友好協会機関紙『日本と中国』1979年10月1日
- ^ 「文革中、私たちは江青にだまされていた。彼女は文芸面の先駆者として振舞っていたが、四人組の逮捕の後、毛沢東主席の指示を装って彼女が犯した罪がいかに奥深いものだったか、わかってきた。裁判での江青の態度が立派だったという人もいるが、そんなのは浪花節で、私は死刑が当然だし、執行猶予もつけなかった方がかえってすっきりした。」『朝日新聞』1981年1月26日朝刊
- ^ 稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』文藝春秋社 ISBN 4163491708
- ^ 文革礼賛派として積極的な言論活動を行った早稲田大学教授新島淳良は文革終結後教授を辞し、ヤマギシ会に入会している。
- ^ 西園寺一晃監修『周恩来と池田大作』2002年 朝日ソノラマ
- ^ 西園寺一晃ほか共著『インタビュー 外から見た創価学会』2006年 第三文明社
[編集] 著書
- 『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」人間の記録』(2005年、日本図書センター)
- 『貴族の退場 — 異端「民間大使」の反戦記録』(1995年、筑摩書房)
- 『新編 釣魚迷』(1992年、つり人社)
- 『中国グルメ紀行』(1985年、徳間書店)
- 『北京十二年』(1970年、朝日新聞社)
- 『北京の八木節』(1965年、朝日新聞社)
[編集] 訳書
- 『フライ・フィッシング Kaiko Ken’s Naturalist Books』エドワード グレイ(著)、西園寺公一(訳)(1985年、TBSブリタニカ)