本間雅晴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本間雅晴 | |
---|---|
1887年11月27日 - 1946年4月3日 | |
陸軍中将 本間雅晴 |
|
生誕地 | 新潟県佐渡島 |
死没地 | マニラ |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1915年 - 1942年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 第27師団長 台湾軍司令官 第14方面軍司令官 |
戦闘 | 太平洋戦争 |
賞罰 | 死刑(マニラ軍事裁判) |
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は日本の陸軍軍人、陸軍中将。
目次 |
[編集] 経歴
本間賢吉の長男として新潟県佐渡島に生れる。佐渡中学、陸軍士官学校(19期)を経て、1915年(大正4年)陸軍大学校(27期)を優等で卒業。 太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。陸軍きっての英語堪能者といわれ、詩歌も奏でた。フィリピン攻略後はバターン攻略の不手際をとがめられ予備役となる。
[編集] バターン進撃時の様子
大本営は第14軍にマニラ市を占領させた後、当初の決定事項通りとして第14軍中の精最強部隊の第48師団をジャワ方面へ転出させた。大本営はこの様な事を中国大陸で何度もしており、現地軍から主力を取り上げ作戦を失敗させ、その後強力な兵団とともに参謀が送り込まれ作戦を完遂させる。無能な現地軍を大本営が救うというシナリオである。手足をもがれた第14軍はバターンに斥候を送るが敵にやられてしまう。大本営に敵を早く攻略するよう連日言われた第14軍は仕方なく装備の貧弱な兵達を進撃させた。そのため米比軍の頑強な攻撃を受け、多数の死者を出し作戦に失敗する。その後強力な兵団と共に参謀が送られてきた。その参謀らは本間に黙って見ているように指示し、以後の作戦はすべて送られてきた参謀が実施した。
一方、敵将ダグラス・マッカーサーは日本軍に追い詰められ、自らが捕虜になりかねない状況にまで追い込まれていた。フランクリン・ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、万一彼が戦死したり捕虜になるようなことがあれば国民の士気に悪影響が出ると考え、マッカーサーとフィリピンのマヌエル・ケソン大統領にオーストラリアへの脱出を命じた。マッカーサーは家族を連れてパイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアへと飛び立った。この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴に汚点を残し、自尊心を大きく傷つける結果となった。
[編集] 戦犯裁判
バターン戦ののち、予備役となり終戦まで一線には復帰しなかった。終戦後、「バターン死の行進の関係者が処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間の中将としての礼遇を停止した。しかし、結局マニラ戦犯裁判でバターン死の行進の責任者として召喚された。有罪判決が下り、本間は死刑となった。
処刑は、1946年(昭和21年)4月3日午前0時53分、ちょうど4年前に陸軍第14軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑であったのに対し、本間の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった。
[編集] 辞世の句
- 「戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよ志」
- 「甦る 皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ」
- 「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」
- 「予てより 捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく」
- 「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ」
[編集] 逸話
秩父宮付き士官時代はハンサムな本間は上流階級のサロンではよく噂になったという。宮が快活な人柄だったために、その行動に周囲から煩い声が聞こえている折であり、本間も口では「困ります」と言いながらテニスの相手をしたり気を使っていたという。
富士子夫人は証人として出廷した際、「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」と陳述、その毅然とした姿に、裁判官も検事も感動の涙を流したといわれる。
[編集] 裁判の是非
有罪判決が下ると本間の弁護団はアメリカ連邦最高裁判所に人身保護令を求めたが、6対2の判決で却下された。1945年12月19日審理開始、1946年2月11日判決、同年4月3日銃殺という早さで処刑されたのは、この裁判がコレヒドールで屈辱的な敗北をしたマッカーサーの本間への復讐劇であったからだとする意見もある。
[編集] 年譜
- 1907年(明治40年)5月 - 陸軍士官学校卒業(19期)。
- 1910年(明治43年)11月 - 中尉に昇進。
- 1915年(大正4年)12月11日 - 陸軍大学校卒業(27期)。
- 1916年(大正5年)8月 - 参謀本部附勤務。
- 1917年(大正6年)8月 - 大尉に昇進。参謀本部員(支那課)。
- 1918年(大正7年)4月 - イギリス駐在。
- 1921年(大正10年)6月 - 陸軍大学校教官。
- 1922年(大正11年)8月 - 少佐に昇進。
- 11月 - インド駐剳武官。
- 1926年(大正15年)8月 - 中佐に昇進。
- 1927年(昭和2年)1月 - 秩父宮御付武官。
- 1930年(昭和5年)6月3日 - イギリス大使館附武官。
- 8月1日 - 大佐に昇進。
- 1932年(昭和7年)8月8日 - 陸軍省新聞班長。
- 1933年(昭和8年)8月1日 - 歩兵第1連隊長。
- 1935年(昭和10年)8月1日 - 少将に昇進。歩兵第32旅団長。
- 1936年(昭和11年)12月1日 - ヨーロッパ出張。
- 1937年(昭和12年)7月21日 - 参謀本部第二部長。
- 1938年(昭和13年)7月15日 - 中将に昇進。第27師団長。
- 1940年(昭和15年)12月2日 - 台湾軍司令官。
- 1941年(昭和16年)11月6日 - 第14方面軍司令官。
- 1942年(昭和17年)8月31日 - 予備役編入。
- 1946年(昭和21年)4月2日 - マニラ軍事裁判において法務死。
[編集] 参考文献
- 角田房子『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』中央公論新社〈中公文庫〉、1975年。ISBN 4122002354