TERU
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TERU | |
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基本情報 | |
出生名 | 小橋 照彦 |
別名 | てっこ |
出生日 | 1971年6月8日(37歳) |
血液型 | O型 |
学歴 | 北海道函館商業高等学校卒 |
出身地 | 日本 北海道函館市 |
ジャンル | ロック |
職業 | ミュージシャン、作曲家、作詞家、ボーカリスト |
担当楽器 | ボーカル、ドラム |
活動期間 | 1994年~現在 |
レーベル | 東芝EMI/EMI Music Japan |
共同作業者 | GLAY |
TERU(テル、本名:小橋 照彦(こばし てるひこ)、1971年6月8日 - )は、日本のミュージシャンで、バンド・GLAYのボーカル。北海道函館市出身。北海道函館商業高等学校卒業。身長169cm。血液型O型。愛称は「てっこ」。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 小学校・中学校時代
小学生の頃からスポーツ少年で(しかし現在でも水泳だけは苦手)、中学の頃には野球部に所属していた。 絵も得意であり、「北海道絵画コンクール」で道賞(北海道賞)を獲得するほどの腕前だった。現在も主にパソコンを使用してイラストなどを製作、公開している。公式な作品としてはビデオ『VIDEO GLAY4』、『VIDEO GLAY 5』(PV集)のジャケットイラストなど。
[編集] 高校時代
- 1987年の夏辺りに小学校・中学校と一緒であるサッカー部の先輩に「ちょっとドラムをやってみないか?」と勧誘され、聖飢魔IIのコピーバンド「花とゆめ」に加入。ドラムを担当し、文化祭で披露した。しかしTERUの家にはドラムセットなど無く、親戚の叔母さんが営むスナックの椅子などを使って練習していたようだ[1]。
- 1988年の3月頃、小・中学校の同級生であるTAKUROに誘われ、GLAYとしての活動を始める。当初はドラムでの加入であった。ある日TAKUROがTERUの家にまだ歌の入っていないデモテープを置き忘れ、歌があったほうが何かとやりやすいだろうと考えたTERUが歌を入れてみたところ、TAKUROが「神がかった声」と感じて腰を抜かした[2]。これがボーカルへ転向するきっかけとなり、新しいドラムが見つかるまで、マイクを天井からぶら下げてドラムを叩きながら歌っていた[3]。同年7月にはGLAYとしての初ライブを行う。
- TERUが姉の結婚式でTAKUROと「ずっと2人で…」を演奏、披露したのもこの頃の話である。
[編集] 上京~インディーズ時代
- 上京後は赤羽の凸版印刷に勤める傍らバンド活動を続けていたが両立出来ず、試用期間明けで辞めてしまった。7月に居所を埼玉県内に移し、その後はさまざまな仕事をしながら、バンド活動を行う。
- 1993年にGLAYのファンであった一般人女性と結婚、2子をもうける。
[編集] メジャーデビュー以降
- 1994年
- 1999年
- 12月6日 メンバープロデュース・ファンクラブ限定ライブの一環として、TERUプロデュース「THE MEN WHO SOLD THE WORLD」をZepp Tokyoで行う。男性限定のライブであったことから、「男ナイト」と呼ばれ、以後福岡、大阪でも行われることとなる。
- 2000年
- 2001年
- 4月 坂本龍一を中心とする地雷排除支援活動地雷ZEROに協力し、チャリティーソング『ZERO LANDMINE』に参加。
- 2002年
- 2005年
- 7月18日千葉ポートパーク円形広場野外ステージにて、自身がDJを務めるラジオ番組の開始10周年を記念して、イベント「TERU ME NIGHT GLAY 10th ANNIVERSARY SPECIAL 〜Summer of 05〜」を行う。
- ほっとけない 世界のまずしさキャンペーンに参加。
- 12月3日12月4日に行われた「White Band FES.(ホワイトバンドフェス)」にもGLAYとして参加した。
- 親交のある山本シュウに誘われ、レッドリボンキャンペーン2005に参加。
- Yahoo! JAPANでの特集や、ファンクラブ会報などで対談を行う。
- 12月21日 BUCK-TICKの20周年を記念したトリビュート・アルバム「PARADE〜RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK〜」に「悪の華」でHISASHIと共にrally[4]として参加。
- 2007年
[編集] 人物
- 天然発言が多く、ファンにはTERU語録として親しまれている。
- 兄弟は姉1人と妹1人。
- 趣味は料理であり、その腕前はメンバーも絶賛するほどである。
- 現在の妻はパフィーの大貫亜美だが、大貫とは再婚[5]。
[編集] 作品
[編集] 参加作品
- ZERO LANDMINE(2001年4月25日)
- 冬のエトランジェ(2004年12月8日)
- MISIAのアルバム「SINGER FOR SINGER」に収録された楽曲。コーラスとして参加。
- Say something(2006年12月20日)
- 氷室京介のアルバム「IN THE MOOD」に収録された楽曲。コーラスとして参加。
- RED RIBBON Spiritual Song ~生まれ来る子供たちのために~ (2007年11月28日)
- 世界エイズデー・プロジェクト2007 チャリティー・シングル
- LOVE CLOVER(1998年4月8日)
- TAKUROがプロデュースした中山美穂のシングルにコーラス参加
[編集] 出演
[編集] ラジオ
- TERU ME NIGHT GLAY(BAY-FM)
- 2005年7月18日、『TERU ME NIGHT GLAY』とその前身である番組を含め10周年であることを記念し、ラジオ番組公開録音『TERU ME NIGHT GLAY 10th ANNIVERSARY SPECIAL ~Summer of 05~』を千葉ポートパーク円形広場野外ステージで開催。テルミーリスナー12万人の応募者の中から1万人を抽選により選び、招待した。その他、声だけでも聞きたいと集まった50人のテルミーリスナーも参加し、総勢1万と50人による公開録音になり、「史上最大のラジオ番組公開録音」としてギネス・ワールド・レコーズに申請することになる。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 後にTAKUROと共にGLAYの活動を始めた頃にはTERUの部屋は防音処置が施されていたとTAKUROは語っている
- ^ TAKUROが人生において腰を抜かすほど驚いたのは、この時以外には、日本のロックバンドBOØWYの楽曲『B・BLUE』を初めて聴いた時だけだという。
- ^ ただし、本人はTAKUROが受けた衝撃をあまり理解出来ていなかったらしく、先輩を新ボーカルとして連れてきてドラムに戻ろうとしたが、TAKUROにより却下されボーカルに戻されるというエピソードがある。
- ^ GLAYのTERU(ボーカル)とHISASHI(ギター)、Radio Carolineの ウエノコウジ(ベース)、THE MAD CAPSULE MARKETSのMOTOKATSU MIYAGAMI(ドラムス)によって結成されたバンド。
- ^ 前妻との間に一男一女、大貫との間に一女もうけている。