I-16 (航空機)
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I-16(ロシア語:И-16イー・シヂスャート)は、ソ連のポリカールポフ設計局の開発した単葉戦闘機。戦間期から第二次世界大戦の初期にかけて労農赤軍の主力戦闘機を務めた。世界最初の実用引き込み脚戦闘機である。1933年12月に初飛行した。
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[編集] 概要
太い胴体は木製であり、全体的なスタイリングはアメリカ製の高速レース機であるジービー・レーサー(1932)に類似して、極度に寸詰まりな形態である。機首のエンジンカウリング前面にシャッターを設け、厳寒時にエンジンがオーバークールすることを防止しているのもソ連機らしい特徴である。ちなみにこの機がこれほど寸詰まりな形態になったのは、設計者のポリカールポフの持論が「高速性能を追求するのならば、機体は短い方が有利である」だったからと言われている。
最大の特徴の引き込み脚は、パイロットの人力によってワイヤ駆動で作動するという、極めてプリミティヴなシステムであった。しかしながら速度は配備当時世界最速で、実戦でも九五式戦闘機やHe 51など複葉戦闘機を性能的に圧倒した。なお、ノモンハン事件関連で九七式戦闘機に対しても優速であったとする記述がまま見受けられるが、最高速度は九七戦が475km/h(3000m)と同等もしくはやや上回り、I-16が優速であったのは急降下速度である。
スペイン内戦、ノモンハン事件、独ソ戦の初期、ソ連・フィンランド戦争に使用されたが、いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった。それでも、ソ連ではI-16を操縦する撃墜王が幾人も誕生した。だが、ドイツ軍がソ連に侵攻した1941年時点ですでにI-16は相対的に旧式化しきってしまっており、その後も戦闘機や戦闘爆撃機として運用が続けられたものの、より高性能なYak-1やLaGG-3、MiG-3が登場すると、徐々にそれらに取って代わられていった。各種派生型合わせ、1941年までに9,450機が作られた。
[編集] 諸元
- 全幅:8930 mm
- 全長:6150 mm
- 全高:2410 mm
- 自重:1266 kg
- 発動機:M-25V 空冷式星形9気筒エンジン
- 出力:750 馬力
- 最大速度:455 km/h Type18:464km/h(ノモンハン事件当時の新型)
- 航続距離:650 km ~ 800 km
- 武装 7.62 mm機銃 (機首固定2丁、翼固定2丁)。後期型は76.2 mm対地ロケット弾の搭載も可能。
[編集] 実戦での評価
スペックが示す通りスペック的に同時期の他の戦闘機に遜色なかったが、アジアでは並外れた格闘性能を持つ九七式戦闘機があり、ヨーロッパではデビューしたばかりのBf 109が存在したのが、やられ役の原因であろう。一撃離脱を得意とした重戦闘機だったが、スペイン内戦ではドイツのHe 51を凌駕したものの、前出のBf 109に一蹴された不運の戦闘機と言える。
ただし、ノモンハン事件の後半では一撃離脱戦法をとるようになって、九七戦の得意とする格闘戦には容易に応じなくなり、また装甲を強化した型や両翼に20mm機関砲装備の重武装型を投入したこともあって、前半のように一方的な損害を被ることはなくなっていった。逆に、機材や部隊を入れ替えずに戦い続けた九七戦の損害が目立つようになる。
とはいうものの、一部の部隊を除きソ連軍パイロットの技量は低く、また一撃離脱戦法にも徹底を欠いたため、単機同士では依然として九七戦に対しては分が悪かったと言えるが、日本側パイロットの証言にもあるように、九七戦の弱武装では、装甲強化したI-16を撃墜するのは、ほとんど不可能になっていた。しかし、当時の撃墜記録は、すべてパイロットの自己申告であり、火も吹かずに急降下で離脱したI-16を、人によっては、すべて撃墜とカウントしていたため、九七戦は依然無敵という神話が創られることとなった。
多数機が使用された中国空軍では、護衛無しで飛来する九六式陸上攻撃機などに対しある程度の戦果を収めたが、圧倒的な性能差を持つ零戦が登場すると一蹴されてしまった。