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豊田泰光 - Wikipedia

豊田泰光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

豊田 泰光
基本情報
出身地 茨城県久慈郡大子町
生年月日 1935年2月12日(73歳)
身長
体重
176cm
82kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 遊撃手
プロ入り 1953年
初出場 1953年
最終出場 1969年
経歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2006年
選出方法 特別表彰
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

豊田 泰光(とよだ やすみつ、 1935年2月12日 - )は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手野球解説者。現役時代は豪快なバッティングで、西鉄黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送フジテレビ文化放送スポーツニッポンの野球解説者をつとめている。2006年野球殿堂入り。

目次

[編集] 来歴・人物

水戸商業1952年甲子園大会に出場しその後、西鉄に入団。遊撃手のレギュラーとなり、三原脩監督の卓抜した選手起用により、強打の2番打者として活躍した。当時の野球では遊撃手といえば打撃力は二の次で守備力が最優先、2番打者はバント、進塁打で走者を進めることが疑いの無い常識だった。そういう意味で豊田のプレースタイルは当時としては異質であった。1962年には選手兼任で助監督を務めるがわずか1年で辞任。その年のオフ国鉄(1965年5月10日からサンケイ、1969年からヤクルトだがこの年のみアトムズと名乗る)移籍後は一塁手、代打として活躍した。1968年からは打撃コーチを兼任し、1969年に引退。

現役引退後はニッポン放送で解説者となった後、近鉄で1年間(1972年のみ)コーチを務めた。1973年以降は評論活動に戻る。評論家としては、西鉄黄金時代について語ることが多いなど懐古主義の傾向が強くそれについて批判があり、球界の様々な問題点に切り込んだ辛口な批評で賛否両論がある。週刊ベースボールに持つ連載コラム「豊田泰光のオレが許さん!」は、現在に至るまで通算600回以上続いている。今後とも西鉄のことを語り続けなければいけないと公言している。

また、木製バットの原材料である、アオダモの植樹活動を精力的に行っている。

[編集] 背番号

  • 7 (1953年 - 1969年)
  • 70 (1972年)

[編集] 年度別成績

打撃成績
年度 球団




























O
P
S
1953 西鉄 115 439 402 64 113 22 0 27 216 59 25 12 3 -- 31 -- 3 92 1 .281 .337 .537 .874
1954 134 583 494 77 119 20 4 18 201 63 33 10 14 2 72 -- 1 107 3 .241 .337 .407 .744
1955 144 632 546 94 150 18 4 23 245 76 27 15 19 2 64 1 1 75 9 .275 .351 .449 .800
1956 148 629 529 90 172 28 12 12 260 70 31 13 15 7 76 5 2 59 17 .325 .407 .491 .898
1957 128 550 463 92 133 26 8 18 229 59 24 10 12 5 70 0 0 64 7 .287 .377 .495 .872
1958 111 458 399 72 103 16 3 13 164 43 11 8 6 2 50 1 1 65 11 .258 .341 .411 .752
1959 133 534 447 61 134 18 4 17 211 81 13 11 3 4 78 18 2 68 17 .300 .403 .472 .875
1960 127 508 425 75 122 18 4 23 217 87 9 7 0 5 77 4 1 82 7 .287 .394 .511 .905
1961 120 486 391 65 116 17 1 16 183 60 10 5 2 5 87 10 1 55 13 .297 .421 .468 .889
1962 130 519 431 73 118 11 2 23 202 67 9 5 0 2 84 9 2 82 14 .274 .393 .469 .862
1963 国鉄 136 549 472 68 138 26 1 20 226 70 12 11 2 3 71 2 1 65 17 .292 .384 .479 .863
1964 120 469 393 71 108 20 2 24 204 59 7 5 1 3 72 8 0 63 14 .275 .385 .519 .904
1965 サンケイ 58 221 185 20 43 4 0 10 77 22 1 1 0 3 31 1 2 31 4 .232 .344 .416 .760
1966 24 82 69 5 10 1 0 2 17 4 0 0 0 0 13 0 0 19 3 .145 .280 .246 .526
1967 106 346 309 34 76 18 2 9 125 36 3 4 0 2 32 3 3 60 4 .246 .321 .405 .726
1968 40 94 83 11 20 2 0 5 37 19 0 2 0 1 10 1 0 20 0 .241 .319 .446 .765
1969 アトムズ 40 116 99 8 24 4 0 3 37 13 0 2 0 1 16 0 0 17 6 .242 .345 .374 .719
通算成績 1814 7215 6137 980 1699 269 47 263 2851 888 215 121 77 47 934 63 20 1024 147 .277 .372 .465 .837
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル・表彰・記録

  • 新人王(1953年)
  • 首位打者:1回(1956年)
  • ベストナイン:6回(1956年、1957年、1959年~1962年) いずれも遊撃手
  • 日本シリーズ最高殊勲選手(1956年)
  • オールスターゲーム出場:9回(1955年~1960年、1962年~1964年)
  • 野球殿堂入り(2006年)
  • 2試合連続サヨナラ本塁打(1968年8月24日~8月25日)

[編集] エピソード

[編集] 西鉄時代

西鉄黄金時代の代名詞として知られるNLマークを、三原と共同で考案したことでも知られる。それまでの西鉄の帽子は黒地に白のNマークだったが、これが選手の間で評判が悪かった。そこで三原は水戸商高出身で商業デザインに興味を持っていた豊田を自分の部屋に呼び出し(特に試合に負けた日の夜)、2人でNとLの形に切り抜いた紙を並べたり重ねたりして検討した結果、ニューヨーク・ヤンキースのNYマークを想起させるNLマークが完成したという。1954年の日本シリーズから西鉄の帽子が黒地に白のNLマークに変更されたが、この年に初優勝、さらに1956年からは3年連続日本一に輝いたこともあって、NLマークは川崎徳次監督時代の2年間を除き、西鉄が球団を売却する1972年まで使用された(ただし1966年からはユニフォームにオレンジが加わったこともあって、NLマークもオレンジに変更された)。ちなみに白のNLマークの帽子は、西鉄のマネジャーを務めた藤本哲男が福岡市中央区に開業した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で現在も購入可能である。2008年に西鉄の後身である埼玉西武ライオンズが西鉄時代の復刻版ユニフォームを身に着けて公式戦を行なうイベント「ライオンズ・クラシック」においては豊田がエグゼブティブ・アドバイザーに就任している。

6(遊撃手)4(二塁手)3(一塁手)ダブルプレーはプロ野球でもよく見られるが、西鉄の場合(遊撃手:豊田、二塁手:仰木彬、一塁手:河野昭修中西太)は普段と異なる点が1つあった。通常このプレーにおいて、遊撃手は二塁手が一塁へ送球しやすいように、二塁手の体の右側へと送球するのがセオリーとなっている。ところが仰木が「右側に投げられると一塁へ送球しにくい」というので、豊田は仰木と二遊間を守る時は仰木の体の左側へ送球していた。ただし滝内弥瑞生など、仰木以外の選手が二塁を守る時は、二塁手の体の右側に送球していたが、仰木とのコンビが9年間続いたせいで豊田の中には「6ー4ー3のダブルプレーの際には二塁手の体の左側に送球する」のが癖になってしまい、国鉄移籍後に遊撃手として出場した際に悪送球を犯している。

稲尾和久が西鉄入団後に初めて球団寮を訪れた際、稲尾が中央球界では無名の存在だったこともあり、当時の寮長だった豊田から「西鉄に入る? 運転手になるなら本社へ行け」と稲尾に対して冷たく対応したという。

1956年に首位打者を獲得しているが、このときチームメイトの中西とは僅差であった。最終戦を前に中西は打点・ホームランの2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった。ちなみにこの試合では三原は球場に来なかったため、代理で監督を務めた川崎徳次が三原の意向を受けて両者を休ませている。

3連敗のあと1勝を返して迎えた1958年の日本シリーズ第5戦、2-3とリードされた9回裏、先頭の小淵泰輔が二塁打で出塁。3番の豊田に打順が回り、強打か送りバントかの判断を迫られたが、ベンチの三原を見ても「お前に任せる」と言わんばかりの知らん顔だった。結局豊田は自分の判断で送りバントをしたが、西鉄のナインはこのシリーズ最も当たっていた豊田がまさか送るとは思わず、ベンチに帰ったら「なぜ打たなかった」と袋叩きに遭ったという。1死3塁となったが、期待のかかった4番の中西が三塁ゴロに倒れてしまい、絶体絶命。2死となって全く当たっていなかった5番の関口清治の場面では「どんな神様でもいいです。お願いですから関口さんに打たせてください」と祈っていたという。関口は執念で中前にはじき返し、土壇場で同点に追いついた西鉄は息を吹き返し、この試合稲尾の本塁打でサヨナラ勝ち、結局3連敗4連勝でシリーズも制覇した。 ただし、このエピソードについて、稲尾はNHKの「ラジオ深夜便」に出演した時、次のように述べている。……あの場面(9回裏、ノーアウト2塁)では誰がどう見ても送りバントだった。しかし誰も豊田さんがバントに素直に同意するとも思っていなかった。豊田さんは別名「山川さん」と呼ばれていていつも皆とは反対のことを言っていたからだ。そこで三原監督が豊田さんに、「豊田、打て」と声をかけた。すると豊田さんは(「山川さん」なので)、「監督、何言っているんですか、ここは絶対にバントじゃないですか」と反対のことを言ってきた。そしてバントを決めた。豊田さんの性格を熟知してバントをさせた三原さんの見事な駆け引きだった……と。


内野フライを打ち上げた時に、走塁の途中で「俺が捕る」と言い、守備側の選手を混乱させエラーを誘った。そのエラーをした選手が引退後に審判になり、豊田は「以前に自分がした事を恨んでいて、追い込まれてからきわどいコースをストライクとして取られたらたまらない」と思い、その審判が豊田が出場する試合で主審を務める場合は早めのカウントで打つようになった。

[編集] 移籍

1962年限りで西鉄を退団して国鉄に移籍したが、西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。なお、豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである(後述)。前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎監督が辞任すると、西鉄は「監督・中西、助監督・豊田、投手コーチ・稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも選手兼任)。しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展してしまった。ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。その後中西とは関係を修復し、現在では「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩に戻っている。

本当は入りたかった巨人に入らず国鉄に入団した原因として当時、国鉄のコーチに高校の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。というのも豊田は茨城県立水戸商業高等学校時代当時の立教大学監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故にしてプロ入りしてしまった。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、その結果の国鉄入団となったのである。

また、当初西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている。西鉄は見返りとして金田正一投手または村田元一投手のいずれかを望んだものの、結局トレードマネーで解決し、得た資金でウィルソン・バーマ・ロイの3外国人選手を獲得。1963年の優勝にこの3人が大きく貢献することになる。

国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。

[編集] 国鉄時代

1968年に2試合連続で代打サヨナラ本塁打の離れ業を見せている(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)が、相手投手は2試合とも中日山中巽だった。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。

[編集] 引退後

1969年限りで現役を引退し解説者となったいきさつは、当時小学生だった息子の一言が引き金となっている。「あんたの子供がけんかで相手に怪我を負わせた」という小学校からの通知。それが来た夜豊田は「何で怪我を負わせたんだ?!」と問い詰めると息子は「『お前んとこの父親は役立たず。役立たず』とはやしたてられ、カッとなってボコボコにした」と答えた。これを知った豊田は「もう、引退しないといかんなぁ」と決意したといわれている。

引退と同じ頃、古巣の西鉄が黒い霧事件に巻き込まれて池永正明が「報告を怠った」という理由だけで永久追放になってしまった事に疑問を感じ、後に復権運動を行い復権を勝ち取った。この事でわかる様に球界関係者の不祥事には厳罰であたれという風潮を嫌う。そのため球界関係者では数少ない「万民平等主義者」である。その事情から永六輔と親交がある。

稲尾和久の死去に対して「ショックです。親、兄弟と同じ存在だった」「西鉄というのは稲尾ライオンズ。ライオンズをつくったのは稲尾。わたしの心の中で西鉄ライオンズはきょうで終わりです」と語った。            

1971年オフに近鉄バファローズのコーチに就任したが「若手に厳しく、ベテランに甘い」という指導法がフロントの気に障りわずか1年でクビになる。

当時ルーキーだった佐々木恭介は、豊田コーチから飲み屋で飲酒を強要されて二日酔いになり、翌日練習に遅れてしまい、豊田コーチから手ひどく叱責と罰を受けたと明かし、相手によって態度の変わるひどいコーチだったとラジオ番組で証言している。

金田正一が発足させた名球会への皮肉の意味も込めて、通算1000三振記録者を対象とする「千振会」(せんしんかい)の発足を企図したが、他の対象者の賛同を得られず実現しなかった。これは、当時他の対象者がほとんど名球会の会員だったことが一因といわれる。

また、大沢啓二が理事長を務めるプロ野球OBクラブも批判している。そのため豊田と大沢は犬猿の仲である。

1978年の日本シリーズで1時間19分の中断事件が発生していた第7戦の解説を勤めていた。その際豊田は「審判がホームランといえばホームランです」と発言している。

1982年にロッテの落合博満が打率.325、32本塁打、99打点という成績で三冠王を獲得した際、雑誌のコラムで「こんな低レベルの数字で三冠王を達成しても三冠王とは認めない」と発言した。これに対して落合は「三冠王になったこともないような人に言われる筋合いはない」と言い返してしばらくの間両者の仲に確執が生じていたが、1985年に落合が打率.367、52本塁打、146打点という文句のない成績で三冠王を獲得すると、さすがに兜を脱いで落合に詫びた。

文化放送ライオンズナイター近鉄西武戦の中継(藤井寺球場)で、一度だけ試合の実況をしたことがある。

1998年のヤクルト対巨人のテレビ中継でヤクルトの野村克也監督の野球の素晴らしさを引き合いに出し長嶋茂雄の監督能力、不可解な選手起用、さらに無能さを批判した。テレビの公共電波で長嶋批判をやった人物は過去にも水原茂らがいるが、「長嶋信者」として知られる巨人系列の日本テレビの元アナウンサー・徳光和夫の怒りに触れたり、テレビ局には抗議の電話が殺到した。

1999年福岡ダイエーホークスの春季キャンプを取材していたとき城島健司に「俺の事をボロクソに書くなこのヤロー!!」と怒鳴られた。理由はスポーツニッポンの九州版に城島の酷評コラムを書いており、これが城島本人の怒りを買ったらしい(選手に怒鳴られたというケースは後にも先にも城島のケースのみである。)。

2004年パシフィック・リーグがリーグチャンピオンシップ(=変則トーナメント方式のプレーオフ)を導入した際リーグ優勝の価値が暴落するとの理由から、以降は徹底的なプレーオフ批判論者となっている(2007年セントラル・リーグも導入すると発表された際も同様の理由で批判していた。ただし、2005年のロッテの日本一に関しては、プレーオフは論外だとしながらも異論は唱えていない)。
また2006年10月7日付けの朝日新聞コラムで「パ・リーグが導入を決めた際渡邉恒雄(=現読売ジャイアンツ会長、導入当時はオーナー)さんが「冗談じゃない」と反対しておられていたがセ・リーグが導入を決めた際反対しなかったのは巨人が弱くなった証拠なのかねぇ…」と巨人までが賛成する現実にあきれた趣旨の文章を載せている。

豊田が批判しているプレーオフであるが、2006年のプレーオフ第2ステージ日本ハムVSソフトバンク第2戦、9回裏に2死一、二塁で稲葉篤紀のセンターに抜けそうな打球をセカンド仲澤忠厚が好捕したものの、ショート川﨑宗則への送球が逸れて二塁セーフ。その間に二塁ランナーの森本稀哲が一気に生還し日本ハムがサヨナラ勝ちし、リーグ優勝が決まった。このプレーに対して「あの場面では誰も責められない。二塁ランナーの森本がよく走った」、「川﨑がランナーを全く警戒しておらず、二塁塁審へのアピールの前に本塁へ送球するべきだった」との声がある中、豊田だけは自らの経験から仲澤を批判、「あの場面はバックトスで送球するべきであった」と週刊ベースボールのコラムで発言した。

2007年の日本シリーズにおいて、落合博満監督が8回まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回に岩瀬仁紀へ交代させた采配自体には、豊田は明確な賛否を示さずに、「レギュラーシーズン2位から日本シリーズへ勝ち上がってきたラッキーな状況だったからこそ、日本一を絶対に取らなければいけないという雰囲気があり、落合監督に相当なプレッシャーがかかっていたんだろう。そもそも、レギュラーシーズン1位で出場していれば、こんな騒動にはならなかった」とプレーオフ批判の持論を展開した。

「打球音・ミットにボールが収まる音が聞こえてこそ野球だ」と球場での鳴り物応援を真っ向から否定しており、開幕戦などでのセレモニーの大音響を合わせ「球場騒音」と週刊ベースボールの自身のコラムでたびたび批判している。ただし、鳴り物応援についてはファン側からの反論も出ている。(詳しくは鳴り物応援#鳴り物応援の賛否の項を参照されたい)

東北楽天ゴールデンイーグルス及び仙台市が嫌いなようで、週刊ベースボールの自身のコラムでもたびたび中傷とも取れる記事を載せている。仙台市に関しては前楽天GMのワイン好きのマーティ・キーナートがお歳暮にワインでなく、仙台の地酒を送ってきたことに対し、「仙台という閉鎖的な東北の典型的な田舎ではこういった地元アピールをやっていかなければやっていけんのでしょうね」と書き、また楽天が新規参入の際にも「何故仙台なんでしょうか」と書いていることから相当仙台嫌いであることが解る。

王貞治長嶋茂雄稲尾和久の三人について、「この三人は監督のような、つまらないいざこざに巻き込ませるようなことをせず、憧れの存在のまま御三家として祭るべきだった」と監督就任を惜しんでいる。王は巨人時代は解任騒動、ダイエー時代は生卵事件や身売り騒動に遭い、長嶋は一度目の監督時はいきなりの最下位転落と解雇、二度目はFA選手の乱獲や処遇でその手法を疑問視され、稲尾は黒い霧事件西鉄ライオンズの身売りに巻き込まれた。

豊田はプロ野球関係者の葬儀に基本的に参列しない。その理由について「グラウンドで戦った先輩や友人、仲間たちの葬式に行ったら、悲しくなってしまってね、涙が止まらなくなって堪らないからです。そういうのが嫌だから、自分は葬式に行かないで自分なりに(故人に)お別れするようにしているんです」と、週刊ベースボールのコラムに書いていた。

90年代初めはテレビ東京のスポーツ番組(月曜日)にて青田昇、有本義明、ダンカンらとともにプロ野球に関して喧々諤々の議論をしていた。(月曜スポーツ討論会)最終回(このとき豊田がフジテレビに復帰することが報告される)でダンカンより本をプレゼントされるが、その本は確執があったとされる別所毅彦著作の「剛球唸る!―栄光と熱投の球譜」であったため、やや引きつった笑みで、「(本を)ありがとう」と言っていた。

[編集] フジテレビ絶縁宣言

豊田は、引退の翌年(1970年)以降コーチとして現役復帰した1972年を除きプロ野球中継や1976年からスタートしたプロ野球ニュースでフジテレビの解説者として活躍していた。(1987-1991はテレビ大阪

2002年頃、「フジテレビが野球を大切にしなくなった」ことを理由に「フジテレビ絶縁宣言」を表明し、以来テレビでの解説から去った。フジテレビではプロ野球ニュースなどの野球番組で、1987年頃から野球に詳しくない女子アナウンサー(中井美穂西山喜久恵木佐彩子中村江里子平松あゆみ宇田麻衣子荒瀬詩織→すぽると大橋マキ内田恭子中村仁美、現状では本田朋子平井理央ら)、1990年代からはお笑い芸人(とんねるずがキャスターを務めたりもしていた)が大きな役割を占めるようになっており、こういった野球ニュースとしての低質化に起因するものと思われる。2003年、王貞治監督を侮辱する内容のバラエティー番組をフジテレビが報道した際には、「こうして字に表すだけで腹が立つ(自身のコラムで経緯を説明していた)。ワンちゃんがどれだけプロ野球に貢献したのか、こんなわけの分からない連中に汚されるとは。やはりフジに見切りをつけた自分の判断は正しかった」と語っている。しかし、これらを差し置いても、一番の絶縁の理由は2001年のプロ野球ニュースの終了であった。豊田自身「プロ野球ニュースだけは絶対に終わらせてはいけない」と声を大にして叫んでおり、終了後はCS放送に移動して放送されたが、このことが許せなかったようである。週刊ベースボールの自身のコラムでも、これについて何度も発言している。

[編集] 現在の出演番組

※豊田によると規制なく自由にめったぎれるから出演できるとのこと。
以前は文化放送ライオンズナイターでもレギュラー解説を務めており、戸谷真人アナウンサーとの名コンビで知られた(2006年は久々に一度だけ出演)。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
中西太
パ・リーグ新人王
1953
次代:
宅和本司
先代:
中西太
パ・リーグ首位打者
1956
次代:
山内和弘


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