第3次桂内閣
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第3次桂内閣(だいさんじかつらないかく)は第15代内閣総理大臣の桂太郎によって組閣された内閣である。
期間は1912年(大正元年)12月21日~1913年(大正2年)2月20日。この62日という内閣の短命さは、東久邇宮内閣の54日に次いで史上第2位である。
[編集] 概要
これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存せず、自前の官僚勢力による組閣を行い、斎藤実海軍大臣を優詔をもって留任させた。だが、桂が構想した反立憲政友会各党の合同による「桂新党」構想を山縣は認める気は無く、一方政局の暗部を知らない国民は桂が前の在任の時のように政権復帰の野心があり、西園寺前内閣の崩壊も彼の策動とみなした。
かくして「憲政擁護・門閥打破」を掲げた憲政擁護運動が始まり、これに対抗して桂は山縣の反対を無視して新党構想を掲げて伊藤博文の立憲政友会結成の例に倣おうとした。だが、尾崎行雄の内閣不信任案趣旨説明演説を機に桂が帝国議会の停会を命じたことから議事堂は群衆に囲まれる。大正天皇の詔書を立憲政友会に下して内閣に協力させようとしたが、総裁の西園寺の説得にも関わらず党議によって拒絶される。結局桂は停会の延長を命じたところ、議事堂を囲む群集は激昂して東京市内は大混乱に陥った。衆議院議長大岡育造の説得を受けた桂は内閣総辞職を決断した(大正政変)。
直後に桂は病に倒れて死去、新党立憲同志会の船出を見ることも無かった。一方、一連の混乱の発端であった山縣の地位は揺らぐことが無かった。
[編集] 国務大臣
- 内閣総理大臣 桂太郎
- 外務大臣 桂太郎(兼任、1912年12月21日~1913年1月29日)、加藤高明(1913年1月29日~2月20日)
- 内務大臣 大浦兼武
- 大蔵大臣 若槻礼次郎
- 陸軍大臣 木越安綱
- 海軍大臣 斎藤実
- 司法大臣 松室致
- 文部大臣 柴田家門
- 農商務大臣 仲小路廉
- 逓信大臣 後藤新平
- 内閣書記官長 江木翼
- 法制局長官 一木喜徳郎
[編集] 外部リンク
第2次西園寺内閣 | 第3次桂内閣 1912年12月21日 - 1913年2月20日 |
第1次山本内閣 | |||||||||||||
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※ 名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 |