桃山虔一
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桃山 虔一(ももやま けんいち、1909年10月28日 - 1990年12月21日)は、日本の元公族。李王家の出身で、元の名は李鍵(イ・コン、りけん)。李鍵公と呼ばれた。弟に広島の原爆で戦死した李鍝公、妹に李海瑗がいる。
[編集] 略歴
高宗の五男で純宗の異母弟である義親王李堈の長男として、韓国併合直前の大韓帝国に生まれた。幼少時に来日し、学習院中等科を経て、1930年に陸軍士官学校を第42期で卒業した。その後騎兵科に進み、1938年、陸軍大学校を51期で卒業する。
騎兵少佐時代に、海軍大佐松平胖(まつだいら あきら)の長女で伯爵廣橋眞光養妹の誠子(よしこ、戦後に佳子と字を改める)と見合い結婚した。
陸軍中佐として終戦を迎えた後は、東京で日本人として生きることを決意。1947年5月、新憲法発布に伴って平民になり、桃山虔一と名乗った。1950年、日本国籍を取得して桃山虔一が戸籍名となる。もともと資産が乏しく、終戦時の東京邸には5万円の現金しかなかった上、新憲法発布によって日本政府からの歳費が途絶えたため、宮内省から内密で毎月1万円を贈られていたが、まもなくGHQに知れて送金を停止された。このため、渋谷駅のバラック建ての一廓に3坪余のお汁粉屋を開業。このほか、陸軍大学校でドイツ語の兵学教官を務めた経歴を生かしてドイツ語の翻訳業に転じたものの注文は少なく、その後は農園経営や謄写版のガリ版書き、書籍取次の栗田書店勤務など、転々と職を変えた。
家庭面では誠子夫人に姦通相手との子を産まれるなど不和に悩み、1951年5月、誠子夫人と離婚した。誠子夫人との間に儲けた2男3女のうち、長男と長女は母方の籍に入った。
次いで秩父地方出身の前田藤吉の長女・美子(よしこ)と再婚し、1952年、桃山孝哉(こうや、開成学園教頭を務める)を儲けた。1990年12月21日歿。通夜には騎兵出身の三笠宮崇仁親王がはるばる浦和市まで足を運んで出席した[1]。