朝鮮特需
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朝鮮特需(ちょうせんとくじゅ)は、朝鮮戦争に伴い、在朝鮮アメリカ軍、在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービスを指す。また在日国連軍、外国関係機関による間接特需という分類も存在する。朝鮮戦争勃発直後の8月25日には横浜に在日兵站司令部が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの間接特需として36億ドルと言われる。
このような状況に関して、当時の韓国の李承晩大統領は、「朝鮮動乱には国連軍16カ国青年達が参加し、血を流して自由陣営を守っているのに、日本の青年達は何をしていたか。映画を見て、パチンコをして、ストリップに興じていたではないか。そして特需で肥え太ったのではないか」と語った。[要出典]「第二次世界大戦後の日本は、隣国の戦争特需のお蔭で復興した」と、批判的に見られがちだが以下のようにただ儲かったわけでもないという見方もある。
[編集] 兵器生産
朝鮮特需において日本企業に対する兵器生産の許可(実質的な命令)が下されたのは1952年3月のGHQ覚書からとされる。それまでは戦地で使用される被服、軍用毛布、土嚢用麻袋、各種鋼管鋼材などが主であり、糸ヘン景気、金ヘン景気と言われた。1951年の法人税上位10位はすべて繊維業種である。
[編集] 概要
戦争勃発直後の1950年(昭和25年)6月に米軍の在日兵站司令部が設けられ、直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。直接調達方式とは日本政府を介さないで占領軍/国連軍との取引を行うことで、占領軍は基本的に免税である。つまり莫大な取引があっても本来の商取引において徴収される諸税を日本政府は受け取ることが出来ない。当初調達された物資は、土嚢袋、軍服、軍用毛布、テントなどにおいて使用される繊維製品と、前線での陣地構築に必要とされる鋼管、針金、鉄条網、コンクリート材料(セメント、骨材(砂利・砂))など、そして各種食料品と車両修理であった。
兵器や砲弾などの生産は1952年(昭和27)3月のGHQ覚書によって許可された。車両修理、航空機の定期修理(IRAN)を、第二次世界大戦当時に戦闘機や戦車を生産していて、技術的ノウハウがあった現在の三菱重工業や富士重工業(※)に依頼したため、これらの企業や関連企業は、敗戦によって中断されていた最新技術を入手できたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶ機会を得ることが出来、戦前の非効率的な生産方式から脱却し、再び産業立国になる上で重要な技術とノウハウを手に入れただけでなく、多くの雇用と外貨を確保することが出来たと言われている。これは、それまでの日本の工場生産において品質管理的手法が取り入れられておらず、とにかく数を生産すれば良いという風潮があったため不良品がそのまま出荷されるということは珍しいことではなかった。実際に太平洋戦争末期には工程管理という思想は一部では取り入れられつつあったがそれも不十分なものであり、工員個人の技術力により製品の品質が左右される状態は戦後もそのままであった。しかし不良品を受け取る米軍としてはたまったものではないため直接的に日本の各工場へアメリカの技術者が出向いて品質管理や工程管理の指導を行ったことにより効率的な量産が行われるようになったのである。そういう意味では日本の産業界の工場生産においては大転換期であり、戦後の高度経済成長の礎となったことは間違いない。
- ※なお、当時三菱重工業や富士重工業は存在しない。三菱重工はGHQ/SCAPの財閥解体により、1950年に「東日本重工業」・「中日本重工業」・「西日本重工業」の三社に分割、日本独立後の1952年に「三菱日本重工業」・「新三菱重工業」・「三菱造船」と改称、1964年(昭和39)に再統合となっており、富士重工の前身中島飛行機はGHQによる命令で12社に分割されていたからである。
しかし、戦争中の時点では対米生産一辺倒だったため、国内産業の発展が朝鮮特需のみによって進行したわけでもない。戦前に比べ高度かつ効率的な工業システムを理解するきっかけにはなったものの、内容を細かくみれば発注は持続性が無く、契約の打ち切りは日常茶飯事、契約確保のために採算を度外視することも珍しくは無かったと言う。[要出典]このしわ寄せは労働者や一般市民にも及び、工場は昼夜をたがわず稼動しながら生産の見通しが立たないため雇用促進に貢献しない例や、鉄鋼生産へ優先供給したために悪質な石炭しか市中に出回らなくなる例、一般の農家に麦の供出を求め、拒否されると駐留軍兵士が武装して乗り込むなどの例があったとされる。[要出典]
韓国国内では「朝鮮戦争(朝鮮特需)が無ければ日本は農業国になっていた」と主張されている。[要出典]これに対しては、実際は第二次世界大戦前から日本はアジアにおける唯一の工業国であった上、戦後のアメリカの対日政策として日本をソビエト連邦に対抗するための最前線の最重要地点とするために日本を再び工業国に仕立てたことが原因にあるとの反論がなされている。[要出典]
当時人口8300万人を抱え、一切の海外植民地を失っていた日本が人口を養う方法は貿易しかなかった。戦前90パーセントの食糧自給が可能だったとはいえ朝鮮・台湾からの米の輸入、関東軍の傀儡国家である満州国からの大豆、高粱の輸入で維持されていたのが現実である。また資源がほとんど無かったこともあり加工貿易が発達した。
日本列島は東西南北に長いため、アメリカとしても全てを防衛するには経費が莫大にかかり難しかった。ソ連を牽制するためだけに膨大な国税をつぎ込み、太平洋の反対側の列島を守備することはアメリカの世論が許さなかった。そこでアメリカは、少なくとも日本人が自分たちで列島を防衛しなおかつ駐留米軍の費用を負担してくれる(後に通称思いやり予算として実現)までの経済大国にしたかった。そうした中で起きた朝鮮特需は、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気、列島改造景気などと次々に起こった好景気の序章となり、ある程度の経済成長はそのままアメリカの望むところであった。背景には朝鮮戦争による東アジア冷戦の本格化で日本を反共の砦の一つにするための思惑による占領政策の転換がある。
当時の日本はアメリカ式編制による陸軍4個師団を筆頭とする占領軍経費を「終戦処理費」として負担しており、初期には一般会計の50パーセントにも及んでいた。ドッジラインによる緊縮財政下においても15パーセントを妥当とするという考えがGHQより出されており、占領下の日本がただ乗りとは程遠かったことを示している。1952年(昭和27年)までの占領総経費は47億ドルとも言われ、各種朝鮮特需による売上の総計に匹敵する。朝鮮特需の47億ドルがいわば「総売り上げ」としての額であるならば、税支出としての47億ドルは「純益」から支払ったに等しい。当時のアメリカが日本を心配して復興を支援したわけではなく、有利子の借款や駐留経費の4割の負担など、後の円高調整を発端とする思いやり予算などからは想像も出来ない苛烈な現実があった。