三好政権
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三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本の武家政権である。ただし、三好氏が実質的に支配したのは四国や畿内などの限られた地域であるため、単なる戦国大名としての一政権としての見解もある。だが、当時の日本政治の中央である京都を支配下に置き、室町幕府将軍を傀儡として幕政を掌握し、朝廷も庇護下に置いていたことなどが、他の戦国大名の地方政権とは大きく異なり、政権であったといえる。
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[編集] 経歴
[編集] 政権の成立
三好氏は信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、三好之長の時代に管領・細川勝元、細川政元に仕えて勢力を拡大したのが畿内進出の契機となる。永正の錯乱の後の混乱において之長は細川澄元に与して奮戦したが細川高国に敗れ処刑され、その他の三好長秀など三好一族の多くが戦死、処刑されている。
之長の孫・三好元長は細川六郎(後の細川晴元)に仕えて細川高国を討つという武功を挙げ、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長した。しかし天文元年(1532年)、元長は同族の三好政長の讒言を信じた晴元に誅殺され、三好氏は元長の嫡男・三好長慶が継ぐことは許されたが、長慶は10歳という幼少のために三好氏は一時的に後退した。
長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、細川氏の家臣として木沢長政討伐をはじめ、細川氏綱や遊佐長教らとの戦いで多くの武功を発揮し、河内など畿内17ヶ所の代官職を与えられた晴元配下の最有力重臣にまで成長する。
天文17年(1548年)、長慶は遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、同時に細川氏綱を擁立して晴元に叛いた。これは晴元とその重臣・三好政長が父の仇だったためでもある。天文18年(1549年)、江口の戦いで晴元と長慶は戦い、長慶が勝利して政長は戦死し、晴元とその晴元に擁立されていた将軍・足利義輝は近江に逃亡し、政元以来の細川政権は崩壊し、三好政権が成立したのである。
[編集] 勢力拡大
天文21年(1552年)、長慶は足利義輝と和睦して義輝を京都に迎え、同時に細川氏綱を管領に据えた。この2人は長慶の傀儡であり、ここに将軍・管領という室町幕府の権力者を擁した三好政権が実質的に機能することとなった。しかし、幕府再興を目指す将軍・足利義輝との対立はその後も続き、義輝を近江に追放しては連れ戻すという事態が相次ぎ、またその間、長慶は何回か暗殺未遂事件に遭遇している。最終的に義輝と和睦したのは永禄元年(1558年)、六角義賢の仲介を受けてのことである。
長慶は版図を畿内・四国に拡大し、永禄年間までには山城・摂津・阿波・讃岐・播磨・伊予・丹波・和泉・淡路・河内・大和など11カ国に及ぶ大領国を形成している。当時、今川氏は3カ国、甲斐武田氏は2カ国、安芸毛利氏は4カ国であったから、長慶の勢力は諸国でも抜きん出たものであった。
[編集] 衰退への道
しかし全盛期を誇った三好政権も、永禄4年(1561年)になると、その権勢に衰えが見え始める。この年には長慶の弟で「鬼十河」と呼ばれた三好軍の勇将・十河一存が急死した。永禄5年(1562年)3月にも長慶の弟・三好義賢が畠山氏との戦いで戦死する。永禄6年(1563年)8月には長慶の嫡男・三好義興が死去するなど、有力な一族の相次ぐ死去という事態が相次いだのである。
また、長慶自身も次第に連歌などの文芸に溺れて政務を顧みなくなり、その実権を娘婿の松永久秀に譲渡してしまうという失敗を犯した。もともと、先に死去した十河一存や三好義興もこの久秀の暗殺説すら噂されていたのに、すでに一族の死で失意にあった長慶は久秀の本性を見抜けないほどに衰弱していたのである。このため、永禄7年(1564年)5月に久秀の讒言を信じて弟・安宅冬康を誅殺してしまった長慶は、後に冬康の無実を知ると失意の内に病に倒れ、自らも7月に死去してしまった(久秀の暗殺説もある)。
[編集] 将軍謀殺
長慶の死後、三好氏の家督は長慶の養子・三好義継(十河一存の子)が継いだ。しかし義継は若年のため、三好政権は義継の後見人である三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立されたのである。
一方、長慶の傀儡として君臨していた将軍・足利義輝は長慶の死を好機と見て、かねてから親密な関係にあった上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再興を目指して積極的な活動を行なうようになった。このような義輝の行動に危機感を持った久秀・三好三人衆らは永禄8年(1565年)5月19日にクーデターを起こして義輝を二条城で暗殺した(永禄の変)。
新たな将軍には阿波にあった義輝の従弟・足利義栄を擁立し、松永・三好連立政権は将軍をすげ替えてなおも幕政を牛耳ったのである。
[編集] 内紛・政権崩壊
しかし久秀の勢力を危険視した三好三人衆は、永禄の変から7ヶ月ほどたった12月、かつて久秀に筒井城を奪われて放浪していた筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三好三人衆と松永久秀の対立が先鋭化する。
はじめは四国の軍勢も動員し、さらに将軍・足利義栄と三好家当主・三好義継を擁する三好三人衆が圧倒的に優勢であったが、久秀は永禄10年(1567年)10月10日に興福寺に布陣していた三好軍を奇襲して東大寺大仏殿を焼き払って三好三人衆を撃退するなど、一進一退の攻防が続けられた。
このように三好政権内部で内紛が続いている中、永禄の変で細川藤孝ら幕臣の援助を受けて逃亡していた義輝の弟・足利義昭は、尾張・美濃を領して勢いに乗る織田信長の援助を受け、永禄11年(1568年)9月に上洛を開始する。内紛に明け暮れている三好政権は信長の侵攻を食い止めるため、管領職を与えることで六角義賢を味方につけて防衛しようとしたが、その六角氏は信長の侵攻を受けてあえなく敗れさった。
このため三好三人衆は松永久秀との戦闘を停止して織田信長と雌雄を決しようとしたが、すでに内紛で弱体化していた三好軍は内部統率すら執れる状況ではなく、ほとんど織田軍と戦闘することなく敗走した。これにより、20年にわたって中央政治を牛耳ってきた三好政権は、わずか半月で崩壊してしまったのである。
その後、三好義継や松永久秀らは信長に降伏して家臣となったが、義継は天正元年(1573年)に信長に討たれ、久秀も天正5年(1577年)10月に信長に討たれた。三好三人衆は信長に抵抗したが、これも天正元年(1573年)までに滅ぼされ、三好氏は畿内における勢力を失い、四国における三好長治、三好康長、十河存保、安宅信康などの勢力が残存するのみとなった。やがてそれらの勢力も内紛により衰退したり信長に降伏するなどして、織田政権の庇護の下で細々と命脈を保つことになる。
[編集] 政権構造
三好政権は室町幕府の旧体制をそのまま受け継いだ武家政権だった。将軍を傀儡として幕政を牛耳り、幕府の要職を名誉職として全国の有力諸大名に与えることで諸大名を懐柔するなど、幕府機能を最大限に利用している点がそれを物語っている。そのため、三好政権は内部構造が非常に脆弱で、その政権は長慶個人の才能と実弟の三好義賢・安宅冬康・十河一存らと嫡男の三好義興という限られた人物の存在によって成立しているに過ぎなかった。
経済力では堺を支配下に置くなどして他の諸大名を凌駕するほどのものだったが、年貢徴収に関しては郷村を三好氏の直轄領とするのではなく、朝廷や将軍を庇護していたことから旧来の荘園体制や室町幕府の制度をそのまま引き継いでしまったため、極めて脆弱なものだった。また冬康は安宅氏、一存は十河氏に養子入りして四国の水軍を支配下に置いた。これが三好氏の戦力を支えたのだが、三好氏はもともと阿波の豪族の盟主のような存在であり、そのため阿波・讃岐の戦力は畿内の維持に必要不可欠だった。ところが一存・義賢をはじめとする一族の死が相次いで四国支配の空洞化が進み、それが三好軍の軍事力衰退にまでつながった。
さらに長慶は朝廷・寺社との関係を重視し、たびたび連歌などを催しては親密な関係を維持しようとした。これは京都の公家衆・堺の町衆などで法華宗の信者が多く、その宗教ネットワークを最大限に利用しようというものだったのだが、同時に長慶を文弱に走らせてしまったのも事実であり、そして長慶の死、その後の三好家内紛が政権滅亡へのとどめとなってしまったのである。
[編集] 参考文献
- 「三好長慶」 長江正一 吉川弘文館
- 「戦国大名家系譜総覧」 新人物往来社
- 「戦国人名事典」 山本大
- 「戦国三好一族」 今谷明 新人物往来社