ロマーノ・プローディ
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イタリアの政治家 ロマーノ・プローディ Romano Prodi |
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生年月日 | 1939年8月9日(68歳) |
出生地 | エミリア=ロマーニャ州、 レッジョ・エミリア県、 スカンディアーノ |
没年月日 | |
死没地 | |
出身校 | ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス |
前職 | {{{前職}}} |
現職 | {{{現職}}} |
所属政党 | 民主党(PD) |
称号・勲章 | |
世襲の有無 | {{{世襲の有無}}} |
親族(政治家) | {{{親族(政治家)}}} |
配偶者 | フラヴィア・ フランツォーニ |
サイン | [[画像:|128px]] |
公式サイト | Romano Prodi |
第80代首相(閣僚評議会議長) | |
内閣 | 第2次プローディ内閣 |
選挙区 | |
当選回数 | |
就任日 | 2006年5月17日 |
退任日 | 2008年5月8日 |
退任理由 | 内閣信任決議の否決のため |
所属委員会 | {{{所属委員会}}} |
議員会館 | {{{議員会館}}} |
元首 | (大統領) ジョルジョ・ナポリターノ |
法務大臣 | |
内閣 | 第2次プローディ内閣 |
選挙区 | |
当選回数 | |
就任日 | 2008年1月17日 |
退任日 | 2008年2月6日 |
退任理由 | |
元首 | |
第10代欧州委員会委員長 | |
内閣 | |
選挙区 | |
当選回数 | |
就任日 | 1999年9月16日 |
退任日 | 2004年10月30日 |
退任理由 | 任期満了のため |
元首 | |
第76代首相(閣僚評議会議長) | |
内閣 | 第1次プローディ内閣 |
選挙区 | |
当選回数 | |
就任日 | 1996年5月17日 |
退任日 | 1998年10月21日 |
退任理由 | |
元首 | (大統領) オスカル・ルイージ・スカルファロ |
商工大臣 | |
内閣 | 第2次ジュリオ・アンドレオッティ内閣 |
選挙区 | |
当選回数 | |
就任日 | 1978年11月25日 |
退任日 | 1979年3月20日 |
退任理由 | |
元首 | |
その他の職歴 | |
その他の職歴 | |
ロマーノ・プローディ( Romano Prodi 、1939年8月9日 - )は、イタリアの経済学者、政治家。首相(第76・80代)。下院議員(2期)。民主党議長(初代)。
欧州委員会委員長(第10代)、商工大臣(第2次ジュリオ・アンドレオッティ内閣)、レッジョ・エミリア市議会議員を歴任。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 大学教授から政界へ
エミリア=ロマーニャ州レッジョ・エミリア県スカンディアーノ出身。ミラノカトリック大学を卒業後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学ぶ。1963年からボローニャ大学において産業政策の講師となり、1966年には同助教授、1971年から教授として活動する。
[編集] オリーブの木
1995年2月、シルヴィオ・ベルルスコーニ率いる与党・フォルツァ・イタリアに対抗する中道左派勢力の首相(閣僚評議会議長)候補として下院(代議院)選挙への出馬を表明。中道左翼連合「オリーブの木」を結成し議長に就任。
1996年の総選挙で勝利し、1996年から1998年まで首相。1999年9月から2004年11月まで欧州委員会の委員長を務めた。2002年4月に公式実務賓客として訪日した際、初めての国会演説で「日本経済は潜在力を持っている。自信を持つんだ!」という旨の発言をした。
[編集] ルニオーネ
2005年、オリーブの木を発展させ中道左派連合「ルニオーネ」を結成。2006年の総選挙ではルニオーネを率いてベルルスコーニ政権の中道右派連合「自由の家」に挑み、僅差で勝利。再び閣僚評議会議長に就任した。
左派からキリスト教民主主義政党を含む9党連立政権の運営に苦慮し続け、2007年2月21日にはイタリア共和国軍のアフガニスタン駐留延長を含む外交方針案が一部の与党議員による造反によって否決された事を受け、ジョルジョ・ナポリターノ大統領に辞表を提出。野党連合は総選挙を求めたが、大統領は辞表を正式には受理せず続投を要請。翌月両院の信任を受けて危機を乗り切った。
その後、中道左派政党を結集すべくルニオーネの中心政党でイタリア共産党の流れをくむ左派「左翼民主主義者」と中道右派「マルゲリータ」を合流させ、新党・「民主党」の結成し議長に就任。
2008年1月、ルニオーネに所属していた「欧州民主連合・人民」書記長のクレメンテ・マステッラ(司法大臣)が自身への汚職捜査に対する不満と、小選挙区制の復活を柱にする選挙制度案への危機感から連立離脱を表明。政権は上院で少数与党となった。
これを受け、2008年1月24日、元老院(上院)での内閣信任決議案の投票が行われ、その結果、賛成156、反対161、棄権1で内閣信任決議案が否決されたため、プローディはナポリターノ大統領に閣僚評議会議長辞任を通知、政権は崩壊した。なお憲法の規定に基づき、大統領が次期閣僚評議会議長を指名するまで、プローディは閣僚評議会議長の職務を遂行する。
その後、ナポリターノ大統領は暫定政権発足を試みたが失敗し2月6日に議会を解散。その後の記者会見にて総選挙には出馬せず、政界から引退すると発表した。
[編集] プローディ内閣
- 第1次プローディ内閣 を参照。
- 第2次プローディ内閣 を参照。
[編集] プローディ委員会
- プローディ委員会 を参照。
[編集] 略歴
[編集] 経歴
- 1963年 - ボローニャ大学政治学部助手就任。
- 1966年 - ボローニャ大学政治学部非常勤教授就任。
- 1971年 - ボローニャ大学政治経済学講座教授就任。
- 1974年 - イル・ムリーノ会長就任。
- 1982年 - 産業復興公社(IRI)総裁就任。
- 1993年 - 産業復興公社(IRI)総裁就任。
- 1994年
- 5月31日 - 産業復興公社(IRI)総裁辞任。
[編集] 政歴
- 1963年 - レッジョ・エミーリア市議会議員選挙(キリスト教民主主義公認)当選。
- 1978年 - 商工大臣(第4次ジュリオ・アンドレオッティ内閣)就任。
- 1996年
- 4月21日 - 代議院議員選挙(無所属 - オリーブの木)当選。
- 5月17日 - 第76代首相(閣僚評議会議長)就任、第1次プローディ内閣発足。
- 1998年
- 1999年
- 2004年
- 10月30日 - 欧州委員会委員長退任。
- 2005年
- 2006年
- 4月9日 - 代議院議員選挙(無所属 - ルニオーネ)2期目当選。
- 5月17日 - 第80代首相就任、第2次プローディ内閣発足。
- 2007年
- 2008年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Romano Prodi(公式サイト)
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