リアエンジン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リアエンジンとは、自動車・航空機において、貨客スペースより後方にエンジンを搭載する形式を指す。
自動車では通常、ミッドシップよりもさらに後方、後輪車軸上もしくはその後方に搭載しているものが該当するが、広義ではミッドシップ型も含むことがある。本項目では狭義の定義にて記述する。
目次 |
[編集] 自動車のリアエンジン
1930年代以降盛んとなった。ドライブトレーンを後部に集中させて最小限にまとめることができ、軽量化と室内容積の拡大を図れるパッケージングとして、主に小型乗用車に用いられた。大型乗用車向けのレイアウトとしてはほとんど普及しなかった。
操縦安定性やラゲッジスペース確保などの面で課題も多く、1960年代以降、小型車では前輪駆動車に取って代わられた。21世紀初頭現在では、一部のスポーツカーや特殊な商用車に用いられるのみであり、マイクロカーとバスを除き、リアエンジン車は非常に少ない。
後輪駆動の自動車では、エンジンの自重を駆動輪(軸)に掛けることができるため牽引力(トラクション)は向上するものの、運動性でミッドシップエンジン車やフロントエンジン車に、安定性ではフロントエンジン車に劣ること、また、排気管長やマフラー容量が十分に取れないため、出力の面でも不利となること等、大きなデメリットも生じる。
[編集] 歴史
[編集] 黎明期のリアエンジン車
ガソリン自動車が発明された初期には、動力伝達のための技術が未熟で、駆動輪である後輪至近にエンジンを搭載する必要から、リアエンジン方式にあたるレイアウトを採った自動車がほとんどであった。最初のガソリン車とされる1888年のダイムラー車、ベンツ車はいずれもリアエンジンであり、その後1900年頃までリアエンジンは自動車の主流であった。
ドイツで「ベテラン期」と時代分類されるこの頃のクラシックカーでは多くの場合、乗客たちは後車軸上に搭載されたエンジンの更に上に座席を設けて搭乗していたようなもので、当時の自動車の後輪の多くが大径車輪であった影響もあって、重心は高くなった。
これを克服するため、1891年にフランスのパナール・ルヴァッソールが車体前方にエンジンを搭載して後輪を駆動する「パナール・システム」と呼ばれるフロントエンジン・リアドライブ方式(FRと略される)を考案して低重心化と操縦安定性の向上を実現し、更に同じフランスのルノーが1898年にプロペラシャフトを介して効率よく後輪を駆動する「ダイレクト・ドライブ」を開発したことでFR方式の優位性が確立される。
この結果、市場の大勢は1900年代中期までにより高性能なFRへと移行し、重心が高く不安定なリアエンジン方式は一時忘れられた技術となった。
[編集] リアエンジン車への再認識
FR方式は構造的に無理のないシステムではあったが、1910年代以降の自動車の発達過程で、プロペラシャフトの重量やスペース、振動は顕著な問題として表面化してきた。また自動車の大衆化に伴う小型化の必要性から、効率の良いパッケージングの追求が模索され、ここから第一次世界大戦後、プロペラシャフトを廃した自動車を開発する機運が生まれる。フロントエンジン・フロントドライブ方式(FF、前輪駆動)やミドシップ方式(MR)の研究が始まったのもこの頃であるが、同様に「エンジン至近の車輪を駆動する方式」として、リアエンジン方式も再認識されるようになる。
当時、自動車シャーシの改良により、独立懸架機構であるスイングアクスル式サスペンションが実用化されたことで、トランスミッションとディファレンシャル・ギアを一体化した「トランスアクスル」の実用化により、従来の固定車軸車よりも低重心のリアエンジン車の設計が可能となった。前輪駆動で必須とされる、旋回時の駆動力をスムーズに伝えることのできる「等速ジョイント機構」が実用水準に至っていなかった当時、プロペラシャフトの省略を目指した技術者の多くは、より障壁の低かったリアエンジン方式での自動車開発を進めた。
1931年から翌1932年にかけてフェルディナント・ポルシェの設計になるツンダップのためのリアエンジン試作車「タイプ12」が3台製作され、これ以降、ドイツとチェコスロバキアでリアエンジン方式の量産乗用車が出現する。その嚆矢はタトラの主任技師となったハンス・レドヴィンカ(Hans Ledwinka)による1934年の「T77」であろう。そして1936年にはメルセデス・ベンツの「170H」( W28 )、1938年にはKdFヴァーゲン、のちのいわゆる「フォルクスワーゲン・タイプ1」が発表される。MB 170Hは試作の域を出ず、VWの本格量産は1945年からとなる。
自動車史上「ポスト・ヴィンテージ期」と呼ばれるこの時代に出現したリアエンジン車は、バックボーンフレーム構造などで合理化されたシャーシに、機能的な流線型ボディと、四輪独立懸架を携え、むしろ更に未来のモダン・エイジを象徴する存在であった。ベテラン期の原始的リアエンジン車とは完全に断絶した「新しい自動車」だったのである。
[編集] アメリカの大型車両におけるリアエンジン方式
ヨーロッパでリアエンジンの研究が進められていた1930年代当時、アメリカ合衆国では、一般的な乗用車の分野でリアエンジン方式が研究されることはほとんどなかった。
オランダ人技術者ジョン・ジャーダがアメリカで1931年に開発した大型リアエンジン試作車「スターケンバーグ」は、そのコンセプトがタトラに影響を与えた可能性があった(ジャーダが後に所属した車体メーカーのブリッグス社に、タトラの主任設計者ハンス・レドヴィンカの親戚が在籍しており、1934年発表のタトラ T77はスターケンバーグに極めて類似した流線型車であった)が、アメリカでスターケンバーグのコンセプトが活かされたのは流線型ボディの要素のみで、リアエンジンで追随する例はなかった。
一方アメリカでは、技術者ウィリアム・スタウト(William B. Stout)が1935年、別のアプローチからリアエンジン方式を応用し、まったく新しいコンセプトのモノスペース車を開発した。現代の「ミニバン」の始祖とも言うべき1ボックス型流線型試作車「スカラブ」Scarab である。航空機や鉄道車両のような発想を取り入れ、流線型のモノスペースボディを備えたこの車は、フォードのV型8気筒エンジンを車体後部に搭載することで、広い車内容積とレイアウトの自由度を得ていた。
ただしこの着想もすぐに活かされるまでには至らず、スカラブが量産化されることはなかった。ミニバンクラスのリアエンジン車両でこの種のアイデアを巧みに実現し、量産化して成功した最初は、1950年発表のフォルクスワーゲン・タイプ2が嚆矢と言える。以降も同種の手法はヨーロッパや日本の小型車での事例が主となった。
アメリカではむしろ更に大型のバスでリアエンジン方式が活かされることになった。大型バスは20世紀初頭以来、トラックの派生とも言うべきボンネット型が主流で、一部にエンジン上まで客室として利用したキャブオーバー型もあったものの、主流とは言えなかった。
それらに勝る優れた機能性――広い床面積と大きな車内容積、合理化された駆動システム――をリアエンジン方式で実現したのが、1940年にゼネラル・モーターズによって発表された新型バス「GMC・トランジット」である。フレームレスモノコック構造の軽量で床の低い車体、車体最後端に横置きされた、コンパクトながら強力なデトロイトディーゼル製ユニフロー掃気式ディーゼルエンジンと、車体中心線と45°に偏向搭載されたトランスミッションを介して後車軸を駆動する「アングルドライブ方式」という優れたパッケージングが、この全く新しいバスの成功の要因であった。
第二次世界大戦後の世界各国のバスに「トランジット」の発想は受け継がれ、リアエンジン方式は現代に至るまで大型バスにおける主流の駆動方式となっている[1]。
[編集] 戦後のリアエンジン乗用車普及
プロペラシャフトがなく、エンジンから駆動輪に至るまでのドライブトレーンが車体の一端に集中したリアエンジン車の構造は極めて合理的であり、重量を軽減しながら客室内に広い居住スペースを確保することができた。そのメリットは特に小型車で顕著であった。
タトラやフォルクスワーゲンでの技術的成果は各国の自動車技術者に刺激を与え、第二次世界大戦後になると1946年発表のルノー・4CVを皮切りに、ヨーロッパの多くのメーカーがリアエンジン方式の小型車を開発するようになる。日本のリアエンジン乗用車では、1958年のスバル・360が自国開発による最初の成功例と言えよう。ラジエータースペースの問題や軽量化対策のため、リアエンジン車には空冷エンジン車が多かったのも特徴的傾向である(ルノーのように水冷を用いた例も存在したが、概して簡易な空冷式への志向が強かった)。
小型車にリアエンジン方式が採用されたことは、スポーツカー分野にもリアエンジンを普及させる一因となった。もともと小型スポーツカーには、小型乗用車のシャーシやコンポーネントをベースにして製作される例が多く、車体形状の自由度が高くしかも軽量なリアエンジン方式のメリットが、スポーツモデルに活かしやすかったからである。その代表例は1948年のポルシェ・356(ベースはフォルクスワーゲン)に始まるポルシェ各車、そしてフィアット系リアエンジン大衆車をベースとした多くのイタリア製小型スポーツカーであろう。
なお、大型乗用車でリアエンジン方式を一貫して長期継続したのは、世界でもタトラのみである。同社は1934年の「T77」以来、東側ブロック崩壊による民主化・チェコスロバキア解体後の1998年に「T700」の製造中止で乗用車業界から撤退するまで、一貫してリアエンジン乗用車を製造した。そのモデルは1700cc級の「T97」(1937年)、2000cc級の「T600タトラプラン」(1947年)の2種の中型車を除くと、一貫して2.5Lから3.5L級の空冷V型8気筒大排気量車であった。これはチェコスロバキアが戦後共産圏に入って西側諸国のトレンドとの関係が希薄化したことと、計画経済下の国策で大型乗用車メーカーに指定されたタトラが、在来技術のキャリーオーバーで技術開発を進めたことによるもので、技術的ポリシーがガラパゴス諸島の生態系よろしく閉鎖化された中での「奇妙な進化」であった。
大型リアエンジン乗用車開発を企図した事例としては、他にアメリカ合衆国のタッカーが1948年に発表した5.5L級の特異な大型車「タッカー・トーピード」が挙げられるが、新規参入メーカーの無謀な挑戦というべきものであり、試行的に数十台を製造したのみで頓挫している(同社の破綻はデトロイトの既存メーカーによる新興メーカー潰しという俗説があるが、タッカー車は技術的にもリアエンジンを含めて現実味を欠く傾向が強く、勝算の薄い計画であったのは否めない)。
[編集] シボレー・コルベア事件――リアエンジンは危険?
1950年代中期以降、アメリカ合衆国にはヨーロッパ製の小型乗用車が多く輸入され、特にセカンド・カー需要の分野でアメリカのメーカーのシェアを蚕食し始めていた。これに対し、先行して小型車分野に転身していたアメリカン・モーターズ(AMC)に続き、大型車主力の「ビッグ3」(ゼネラル・モーターズ(GM)、フォード・モーター、クライスラー)も、1950年代末期からアメリカ車としては小型の3000ccクラス(世界的には十分大型車であるが、当時のアメリカでは「コンパクト・カー」とされた)の「小型車」開発に取り組むようになる。
このコンパクトカー開発に際して、ビッグ3の他2社とAMCは、水冷直列6気筒搭載のFRレイアウトという堅実で無難な設計を用いたが、GMだけは独自路線を採った。空冷水平対向6気筒のリアエンジン車「 シボレー・コルベア」を1959年に発表したのである。レイアウトからは当時アメリカでよく売れていたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)の影響が明白であった。
コルベアは洗練されたスタイルと斬新なメカニズムで市場にアピールし、その当初大きなヒット作となったが、サスペンション設計とそのセッティングに根本的問題を抱えており、横転事故を起こしやすいという危険性を内包していた。この欠陥を消費者運動家のラルフ・ネーダーが指摘し、「危険な欠陥車」として糾弾した。だがGMはコルベア問題に適切な対処を行わなかったばかりか、ネーダーの身辺を調査して彼の活動を抑えようとする姑息な対抗手段が露見し、かえってスキャンダルをこじらせて、大きく信用を損なった。コルベアは1968年に製造中止され、以後GMはリアエンジン乗用車を製造しなくなった。
コルベア騒動の過程で、リアエンジン車の操縦安定性に関する疑念が大きくクローズアップされた。もともと乗用車クラスのリアエンジン車はオーバーステア傾向が強く、フロントエンジン車に比して直進安定性に劣るきらいがあるため、重量配分やサスペンション・セッティングに配慮が必要である。この問題は小型リアエンジン車でも無視できないものであるが、大型になればなるほどさらに厳しくなる。1950年代以前には、ジャッキアップ現象を起こしやすい古典的スイングアクスル方式のサスペンションがリアエンジン車に多く用いられていたため、旋回時横転リスクの欠点は特に顕著となった。
コルベアはこれらの問題に関する配慮が足りなかったために「欠陥車」の悪評を被ることになったのであるが、その余波は他のリアエンジン車にも及んだ。アメリカ市場のリアエンジン車はコルベア以外、全てヨーロッパからの輸入車で、大型車は存在しなかった(当時のタトラはアメリカに輸出されていない)のであるが、それでもフォルクスワーゲンをはじめとするリアエンジン車の多くが「危険ではないか?」「横転しやすいのではないか?」と疑念を持たれるようになってしまったのである。
[編集] 退潮期――前輪駆動の台頭
またリアエンジン車には、操縦性以外にも多くの克服しがたい弱点があった。
実用上最大の問題は、フロントエンジン車ならトランクルームとなるはずの空間がエンジンに占領されているため、ラゲッジスペースが不足することである。客室とエンジンルームとの隔壁面積が大きく、遮音・遮熱面でも不利であった。リアエンジンのワゴンやヴァンではエンジン上空間をラゲッジスペースに活用する例もあったが、絶対的容積ではやはりフロントエンジン車に敵わず、また遮音・遮熱の問題を更に大きくした(熱くなるエンジンの上に鉄板と遮熱材を置いたぐらいでは、熱に弱い荷物を置けないことも多い)。
リアエンジンの場合、水冷エンジン車はエンジン冷却対策(ラジエーター配置とその冷却空気の流動)に問題を抱えていた。後部ラジエーターとすると走行風を有効活用できず、かといってフロントにラジエーターを置くと、冷却水の配管が長大になり過ぎる難があった。リアエンジン車に多い空冷エンジン車は、冷却面の制約はクリアできるにしても、今度は騒音過大とヒーター性能不足(水冷エンジンに比して廃熱ヒーターの性能が遙かに劣る)という別の難があった。
水冷式フロントエンジン車であれば上に挙げられたリアエンジン車特有の問題は生じず、車体後部の設計改変によるバリエーション展開も容易である。多くのリアエンジン車メーカー(それらはたいていの場合、小型車でもFR方式を墨守するメーカーに比べると先進的な傾向があった)が、将来的なフロントエンジン移行を考えるようになったのは無理もないことであった。
コルベアと相前後して、1959年に発売されたイギリス・BMC社のMiniが、小型前輪駆動車の普及の可能性を大きく広げた。前輪駆動車で常にネックとなっていたのは、等速ジョイントの精度と耐久性だったが、Miniで駆動輪用に本格導入された「バーフィールド・ツェッパ・ジョイント」がこれを解決したのである。しかもMiniは直列4気筒エンジンを横置きにするという合理的設計で、ドライブトレーンを極めてコンパクトなものに仕上げた。
それ以前からヨーロッパではシトロエンやアウトウニオンなどが前輪駆動への傾倒を見せていたが、性能の良い等速ジョイントの実現はそのまま前輪駆動方式の発達を意味していた。果たして1960年代に入ると、ヨーロッパの主要な自動車生産国(ドイツ、イギリス、フランス、イタリア)のメーカーで、前輪駆動方式の小型乗用車開発が急速に盛んとなったのである。
等速ジョイントの性能・品質改善は更に進んだ。バーフィールド社の原案によるディファレンシャル側向け等速ジョイントの「ダブルオフセット・ジョイント(DOJ)」は、バーフィールドと技術提携していた東洋ベアリング(現・NTN)の手で、1965年にスバル・1000用として実用化された。これによって、前輪駆動車に必要とされるデフ側・車輪側双方の等速ジョイントが完全に実用水準に達したのである。
この頃から、それまでリアエンジン車を作っていたメーカーの多くは、リアエンジンモデルの新規開発を控え、既存リアエンジン車の小改良かビッグマイナーチェンジで商品としての延命を図る程度になった。もはや軸足が前輪駆動車に移っていたのである。1969年にイタリアのフィアットから発売されたフィアット・128は、エンジンと変速機を直列に配置した「ジアコーザ式前輪駆動」を採用したが、低コストで前輪駆動を実現できることから以後の多くのメーカーがこのレイアウトに追随し、前輪駆動への流れは決定的となった。
[編集] 現代のリアエンジン
リアエンジン車の代表とも言えるフォルクスワーゲン・タイプ1が、前輪駆動車ゴルフ(1974年)発売に伴い、1978年にドイツ本国での生産を終了したのは、リアエンジンの時代の終焉を象徴していたと言えよう。
その他のヨーロッパや日本の主要メーカーも、旧式なリアエンジン車を延命するように生産していた事例が少数見られたが、いずれも1980年代前半までには生産を終えている。
21世紀初頭の現在、古くからのリアエンジン乗用車の系譜を維持し続けているメーカーは、スポーツカーメーカーであるポルシェぐらいである。かつてスバル・360に代表されるリアエンジン軽自動車を多く生産した富士重工も、現在生産しているリアエンジン車は軽トラック・バンの「サンバー」のみである。
新たなミニカー開発のアプローチ手段としてリアエンジンに取り組んでいる例に、 スマート(1998年-)の各モデルと、軽自動車の 三菱・i (2006年-)が挙げられるが、極めて特殊な例外と言うべきであろう。
一方でバスの分野では、トラックベース車や低床型の特殊車を除けば、世界的にリアエンジン方式が標準レイアウトとなっており、今後もこの状況は続くと思われる。
[編集] 現行生産中の主なリアエンジン車(バス等を除く)
★印は4WDの設定がある。
[編集] 航空機のリアエンジン
レシプロエンジン動力によるプロペラ機の時代には、胴体後部にエンジンを後ろ向きに搭載して後方向きプロペラを回転させる例が少なからず存在した。この種の「推進式」と呼ばれるレイアウトは単発機に見られたが、プロペラの回転スペースを確保するため後尾を双胴式にする必要があるなど、一般的な前方配置エンジンの「牽引式」に比べるとデメリットが多く、一般的ではなかった。第二次世界大戦後にはセスナ社の双発プロペラ機に後尾を双胴とした「直列型双発」の事例があるが、例外的なものである。
戦後のジェットエンジン時代になると、エンジン搭載の制約はプロペラの大直径から、エンジン本体の直径にまで縮まり、搭載位置の自由度が高まった。その気になれば胴体外面に直接ジェットエンジンを取り付けてしまうこともできるようになったのである。
このメリットを最初に生かしたのは、イギリスで開発されたデハビランド・コメットであった。コメットはジェットエンジンを主翼の中に搭載した、非常にスマートな外観を特徴としていた。しかし経験不足がもたらした不幸な事故の影響で、各国の航空会社はコメットの追加発注を見送らざるを得なくなった。
そんな中、フランス政府は自国での中型ジェット旅客機の開発を急ぎ、その結果、コメットの設計の一部を流用することで、シュド・カラベルを短期間で登場させることができた(1955年初飛行)。カラベルは客室後の胴体両側面にエンジンポッドを装備した初めてのジェット旅客機となった。エンジンを翼下にパイロンで吊り下げる手法に比べ主翼設計の自由度が向上し、また主脚を短くしつつエンジン搭載位置を高めに確保できるなど、中・小型機では多くのメリットがあった。
カラベルが技術的にも商業的にも成功すると追随者が現れた。その後1970年代にかけ、欧米やソ連の旅客機メーカー・製造者は、双発・3発のリアエンジン大型ジェット旅客機を多数開発した。1960年代にはイギリスのビッカース VC-10や、ソ連のイリューシン Il-62のような4発リアエンジンの機体まで出現している。
その後、ジェット旅客機の大型化が進み、エンジンも大型化・大出力化すると、必ずしもリアエンジン方式が有利とは言えなくなってきた。前後の重量バランスを取るための制約が増え、また胴体に近すぎるエンジンが騒音の原因になるという問題もあった。また、ボーイング737は当時の小型機はリアエンジンが一般的だったにも関わらず、エンジン搭載位置が高いことによる整備のしにくさを嫌って翼下直付け方式とした。しかしながら胴体に寄り添う形でエンジンが搭載され、エンジン自体の前面投影面積が見かけ上狭いことからバードストライクが比較的少ないというメリットもある。
1980年代以降、かつての3発機はおろか4発機をも代替できるほどの大型・大出力双発機が実用化されたが、それらターボファンエンジンはもはやかつての中型旅客機の胴体ほどにも太くなり、翼下吊り下げ方式でなければ搭載が困難なほどに巨大化した。このため、近年大型旅客機ではリアエンジン方式は過去のものとなりつつある。
一方、コミューター路線や企業・富豪向けの自家用機、リージョナルジェット・ビジネスジェットと呼ばれる小型ジェット機が1960年代以降に出現したが、それらは翼下地上高の小ささによるエンジンレイアウトの制約から、必然的にリアエンジン方式を使わざるを得ないことが多く、一般的なレイアウトとして定着している。この種の機体は一般に「リアジェット」と呼ばれている。
静的な重心位置が後寄りとなるため、ボーイング727の貨物型やダグラスDC-9では、駐機中に尻餅を着くことがあった。
なお、現在のリアエンジンの飛行機は、排気との干渉を避けるため、水平尾翼を高い位置に置いたT字尾翼となる。
[編集] 注釈
- ^ 日本の文献では、富士重工業の前身の一つである富士自動車工業が1949年に民生産業(後の日産ディーゼル工業)と共同開発したリアエンジンバス「ふじ号」について、日本でオリジナルの着想により開発された史上初のモノコック・リアエンジンバスであるように記述している例が少なくない。だが、「ふじ号」の車体設計は、進駐軍の持ちこんだGMのリアエンジンバスが先行例として参考にされているのは明白で、ボディ前面窓周囲の独特な凹みは、トランジットそのままである。UDエンジンとアングルドライブに付いては「ふじ号」の次世代の「民生・コンドル号」から採用されており、これはGMからのライセンス供与であることが公表されている。日本の実情に合わせた開発こそ富士・民生の自社技術によるものとはいえ、発想の根本自体は決してオリジナルとは言えない。「ふじ号」についての文献でGM製リアエンジンバスに触れていないものは、日本メーカー(多くの場合、バスボディメーカーとしての富士重工業)を賞揚するために、都合の悪いGMの存在を無視しているともとれる。
[編集] 参考文献
- 鈴木孝 『エンジンのロマン』