マツダ・コスモ
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マツダ・コスモは1967年(昭和42年)5月から1997年(平成9年)にかけてマツダが生産・発売していた乗用車である。1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)までモデルネームが中断したが、1975年に復活。1989年(平成元年)に再び中断(生産中止)した後1990年(平成2年)に再び復活し、ユーノス・コスモとして作られた。1996年の生産終了以降、コスモの名は途絶えている。
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[編集] 歴史
[編集] コスモスポーツ(1967-1972年)
コスモスポーツは、昭和42年(1967年)に世界初の実用・量産ロータリーエンジン搭載の2シータークーペモデルとして発売された。
世界初の単一ロータリーエンジン搭載車は旧NSUヴァンケル社(現アウディ)のスパイダーであったが、量産へ向けたロータリーエンジン特有の多くのトラブル克服がまだされていなかった中での見切り発売であったことから、それらを克服して量産に耐えうる状況にした上で発売されたコスモスポーツは、世界初の実用・量産ロータリーエンジン搭載車といえ、また多気筒ロータリーエンジンとしては世界初であった。また、そこまで100年以上各種のロータリーピストンエンジン理論では証明されていたことが、歴史上初めて実用化された動くクルマとなる快挙を遂げた記念するスポーツカーであった。 昭和43年(1968年)8月には、mazda110Sの名でニュルブルクリンクで行われた84時間耐久レース「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦。生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、ポルシェ・ランチア・BMW・SAAB・オペル・シムカ・ダットサンなどと激戦を展開。ポルシェ・ランチアに次ぐ堂々4位入賞の快挙となった。参加59台中完走はわずか26台であった。
コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それ以降ファミリアロータリークーペ・サバンナRX-3などに搭載された。10A型エンジンは5枚のハウジング構成から出来ており、開発目的がスポーツカーである為、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジング迄含み全て総アルミニウム合金であった。コスモスポーツ以後の量産モデルはサイドハウジング(F・インターミディエイト・R)が鋳鉄に変更される。コスモスポーツは炭素鋼を溶射するという高価かつ手の込んだものであるのに対し、以降は特殊鋳鉄を高周波焼入れ加工したものとされ、量産化・低コスト化がはかられた。また加工法もコスモスポーツの砂型鋳造に対し、金型鋳造とされ大量生産された。 前期型(L10A)が昭和42年に343台販売されたのを皮切りに、昭和47年(1972年)までに後期型(L10B)の最終販売車までの累計で1176台売られた。後進のロータリーエンジン搭載車の礎となった、まさに記念すべきモデルである。
昭和50年(1975年)のコスモAPの登場まで一旦コスモの名はここで途絶える。
発売までのロータリーエンジン開発経緯は、ロータリーエンジンを参照。
[編集] 前期型
前期型L10Aには、10A型ロータリーエンジン(491cc×2)が搭載された。9.4の高圧縮比とツインプラグによって110ps/7000rpm・13.3kg/3500rpmを発生した。車重は940kgと比較的軽量であった。サスペンションは、フロントがウィッシュボーン・コイルの独立懸架、リアにはバネ下重量の軽減に効果的なド・ディオン式のリーフスプリングサスペンションが奢られた。ステアリングにはクイックなラック&ピニオン形式を採用。トランスミッションは4速フルシンクロで、ブレーキは前輪がダンロップ型ディスク、後輪はアルフィン・ドラムであった。なお油圧系統は前後独立のタンデム式。どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に配され、のちのマツダのアイデンティティともなるフロント・ミッドシップの発想が既に生かされていた。重量物であるバッテリーも前期型ではトランクに、後期型では室内の助手席後部にBoxで蓋があり回すつまみ式の開閉のタイプだった。
[編集] ボディ
ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミモノコック方式であった。ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルカー然としていた。全ての開口部は来たるべき高速時代を見越して、車両進行方向に対し後ろ開きとされた。デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。当時の松田恒次社長から「売り出すつもりのないイメージカーだ」といわれたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともいわれる。全高は1165mmと異様に低かった。「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインをという学芸大卒業のマツダ初のデザイナー小林平治の意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・オーバーハング、ボディー中央を走るプレスラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。ボンネット・フードの小ささ、低さはロータリーエンジンの小ささを暗示する。また、バンパーを境に上下に分けたテールランプも特徴的である。
[編集] 内装
アルミのダッシュパネルは黒で統一艶消し塗装で、無反射ガラスの7連メーター(時計・燃料計・電流計・速度計・回転計・油温計・水温計の順)が整然と並ぶ。フルパッド室内は体の通気性を考慮してあたる部分のみを白と黒の千鳥格子柄のウールを使用。前期はヘッドレストがない。前後に調節可能な3本スポークのウッドステアリング(一部昭和45~46年車:ナルディ社製Φ380ステアリング)が標準。車内は真っ赤な絨毯で風格があり、シフトノブは自然に手を下ろした位置で操作できるショートストローク。クラリオン製オートラジオ、トングルスイッチの上下に作動させるタイプのセミオート・アンテナ、メーター照度調整、ホーン音質切り替え(市街地用・高速用)、2スピードワイパー(途中で切っても自動的に原点復帰するタイプ。高速時の浮き上がりを防止するフィンも付いていた)、さらにマップ・足元(ドア開閉連動)・グローブボックス・トランクの各ランプなども標準で装備されていた。ドアは二段チェッカーであり、スマートに乗り降りできるように考えられていた。座席の後ろには手荷物を置くためのスペースが設けられ、固定用ベルトもついていた。リアガラスには非常に曲率の大きなものが用いられて、室内の開放感を高めた(現行RX-8およびRX-7のリアガラスはこのオマージュとされる)。助手席側サンバイザー裏面には鏡、足元にはフットレスト、前方のグローブボックス脇にはアシスト・グリップも装備され、まさに二人のための贅を尽くした空間が演出されていた。コスモスポーツひいてはロータリーエンジンにかける東洋工業の意気込みの高さが伺える。
[編集] 販売価格
価格は148万円でフェアレディ2000の88万円、スカイライン2000GT-Bの94万円と比べても高価であり、スポーツカーというより二人の乗員のための高級グランドツーリングスポーツの趣きであった。当時の大卒初任給を基準に現在の価格に換算すると、1000万円を優に超える。東洋工業のイメージリーダーであり、「夢の車」であった。
[編集] 走行性能
ロータリーエンジンの走りは、レシプロエンジンとはまさに異次元的な感覚をもたらした。当時、ほとんどのレシプロ国産車は4000rpmを過ぎたあたりから騒音・振動がひどくなり、100km/hを超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴りあうようにしなければならぬこともままあった。しかしロータリーエンジンはレッドゾーンの7000rpmまで静粛かつスムーズにためらいなく吹けあがり、さらにその上までも回るかのように思われた。コスモスポーツの加速フィーリングは「走るというより飛ぶ感じ」と表現され、「モーターのようだ」と評された。
2002年7月号でも三本和彦氏が「私の好きなマツダ車」としてコスモスポーツを取り上げ、「初めて乗った場所は首都高速。有楽町から羽田までやっとつながったころだったかな。マツダの広報の人を助手席に乗せていたんだけど、初めて乗るんだからちょっとブン回してやろうと思ってね、120km/hくらい出したの。走り出しは急激な感じではなかったんだけど、アクセルを踏めば踏むほどエンジンが気持ちよくブン回る。3000~6000rpmくらいまではいいトルク感でした。」と語っている
昭和43年(1968年)7月には早くもマイナーチェンジ(L10AからL10Bに形式変更)が行われ、ラジエーターグリル形状の変更、ブレーキ冷却口の新設、ホイールベース・全長・トレッドの拡大、トランスミッション5速化、前後ブレーキへのハイドロマスターが装着される。ラジアルタイヤ標準化(155HR15)、ポートタイミングの変更にともなう吸入効率向上によるパワーアップ(110ps/13.3kg→128ps/14.2kg)等を施す。この結果、最高速は185km/h→200km/h、0-400m加速も16.3秒→15.8秒となった。
マイナーチェンジによって、当時としては高級品であったヂーゼル機器製のクーラーがオプションで装着可能となった。このヂーゼル機器製クーラーの価格は40万円を超えたという。ホンダN360のフル装備グレードである、ツーリングSサン・ルーフ仕様の価格が42.2万円であった時代である。ユニットは座席後ろの手荷物スペースに置かれたため、冷風は後方から吹き出す形であった。同様な方式はトヨタ2000GT。コスモスポーツ専用設計のクーラーであったため効きは悪くなかったが、発熱量の多いロータリーのためオーバーヒート気味となることもままあった。当時の取扱説明書にも「クーラ装着車はクーラ作動時、シフトをTOPおよびO・Tにし、エンジン回転1500rpm以下の低回転でノロノロ運転している場合オーバ・ヒート気味になることがありますので、このような場合はシフトを2速か3速にして運転してください。」(原文ママ)との記載がある。
また室内のウォッシャー・ワイパー・ディマー・ウィンカーの4スイッチが、1本のコンビネーション・レバーにまとめられた。3点式シートベルト、調整可能なヘッドレスト後期より装備された。パーキング(エンジン始動時自動消灯)や非常灯も装備され、名実共に充実した最高級グランド・ツーリングスポーツに相応しい仕様となる。
この後期型(L10B)の価格は158万円であった。なお車両形式名はL10Bとなったが、エンジンの排気量は変わらず形式も10A型のままであったがエンジンの仕様はポートやキャブレター、マフラーなど数回変更された。この変更はあまり知られていない。
[編集] その他
バッテリーが上がりやすかったとの風評がある。コスモスポーツはキーを抜いてもシガーソケットが通電しており、このためではないかと思われる。マツダ・コスモを一時期所有していた漫画家の秋本治もこれに悩まされ、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』にはその記述が見られる。また石原慎太郎が参議院議員として初登院の際に、国会に乗りつけたことでも知られている。
『帰ってきたウルトラマン』の劇中ではMATの専用車・マットビハイクル(MAT VEHICLE)のベース車両ともなった。昭和42年(1967年)には、調布-八王子間が開通した中央高速に高速パトロールカーとして警視庁第八方面交通機動隊に配備された。
2007年に劇場公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』にはコスモスポーツが停車しているシーンがワンシーンだけある。
[編集] 2代目・コスモAP(1975-1981年)
[編集] コスモAP
コスモスポーツ製造中止より3年後の1975年(昭和50年)にコスモAPとして復活した。
APとはアンチ ポリューション・公害対策の意味。オイルショック後、マツダが初めて発表したモデルで、コスモスポーツと異なりスペシャルティカーとなった裏側には、北米市場の要求があった。このモデルから現在の「mazda」ロゴが使用されている。
排気ガス対策で、スポーツモデルが次々と消えていこうとしている時期に登場し、未対策車にも負けない走り、オイルショックで落ち込んだ世相を吹き飛ばすような派手な赤いボディカラーなど、話題になった。内装、装備に至っても高級感・豪華さを押し出したものとなっており、スポーツカーというよりはラグジュアリーなグランドツーリングカーといった趣であった。
エンジンは135PSの13B、125PSの12A、レシプロの2000、1800の4タイプのバリエーションがあった。前期型は丸型4灯のヘッドランプとL字型のテールランプが特徴であった。1979年のマイナーチェンジで角形2灯のヘッドランプに変更されラジエターグリルも変更され雰囲気を一変した。CMソングにはしばたはつみの「マイ・ラグジュアリー・ナイト」が使われた。そのCMのモデルは宇佐美恵子を起用。この年は広島東洋カープがセントラル・リーグで初優勝を果たし、中国放送の日本シリーズ(相手は阪急ブレーブス)中継等で同車のCMが流れた。
コスモの登場により、各車のスポーツモデル開発に火がつき、様々な名車が生まれた。また、ドラマや映画では「探偵物語」や「太陽を盗んだ男」などで活躍し、派手なカースタントシーンもあった。
余談だが、第五代民主党代表である前原誠司の学生時代の愛車だったらしい(2007年4月26日付日本経済新聞夕刊「心の玉手箱」より)。
[編集] コスモL
コスモAPから遅れること2年、1977年にバリエーションモデルとして追加された。”L”はランドウトップの頭文字で、高級馬車の屋根の形式からきている名前である。最大の特徴は、その名のとおりランドウトップにある。コスモAPではファーストバックであったが、コスモLではノッチバック+ハーフレザーのトップとなっていた。これも北米市場からの強い要求によるもので、フォード・マスタングをはじめトヨタ・カローラおよびトヨタ・セリカなども2種類のバックスタイルのクーペボディをそろえている。
ランドウトップのコスモLはリアシートのヘッドルームに余裕があり、居住性が良いことと、クオーターウインドウが小さく、プライバシーが守れることで、コスモAPとの性能、装備の違いは無くとも、やや高い年齢層に向けた高級モデルとしての位置づけであった。
市場での評価とは別に、工場内での評価は全く異なるものがあった。プレスしたボディパネルを溶接する際、Cピラーは溶接部分が表に出てしまうので、通常は半田で表面を埋めてなだらかに仕上げる行程があった。ランドウトップでは、この行程を省略できたので鉛公害も発生せず、その意味で高い評価を得ることになった。
[編集] 3代目・コスモ(1981-1990年)
1981年(昭和56年)に登場した、3代目コスモは4代目ルーチェと姉妹車になった。ボディバリエーションも4ドア・セダン、4ドア・ハードトップ、2ドア・ハードトップの3種類を揃えた。空力に配慮されたデザインが特徴であり、ハードトップは4灯式のリトラクタブル・ヘッドライトを持つ。中でも2ドアのCd値は当時としては世界トップクラスの0.32を記録していた。エンジンは当初、従来型と同じMA型4気筒2Lレシプロエンジン(EGIおよびキャブレター仕様)のみが先行発売されたが、2.2Lディーゼルエンジン(セダンのみ)、12A型ロータリーエンジン(573cc×2)もすぐに追加された。
12A型ロータリーエンジンは新たに6PI(シックス ピー アイ)と名付けられた、6ポート・インダクションを採用、これは従来1ローターあたりプライマリーポート、セカンダリーポートと吸気ポートを2つ設けていたものを、新たにセカンダリーポートをメインポート、補助ポートと分割し、1ローター毎3ポート(2ローターで計6ポート)としていた。これにより燃費や出力の向上を謳っていた。
プラットフォームの型式から、「HBコスモ」と呼ばれ、区別されるが、それほど低くないノーズに、リトラクタブルヘッドライトを組み合わせたことから、「ゲンコツ・コスモ」なるあだ名を付けられてしまった。
1982年10月、12A型ロータリー・ターボ車を発売(ルーチェとともに世界初)。耐久性の関係から6PIの採用は見送られた。「全域・全速ターボ」と名付けられたこのエンジンは82年当時の国産車の中ではトップクラスの性能を誇り、80年代に行われる高性能戦争へ先鞭をつけた。
インテリアでは、デジタルながら、面積変化で情報を伝えるスピードメーター、サテライトスイッチの影響が見られる、メーターナセル両端に配した、エアコン、灯火類、ワイパーなどのスイッチ、カセットテープを見せるデザインの正立型カーオーディオ、シートバックの中折れ機構などに特徴がある。
自動車ジャーナリスト三本和彦は、1982年9月にコスモ・ロータリー・ターボを自動車ジャーナリスト3人で茨城県谷田部の日本自動車研究所で谷田部24時間耐久テストを行い、非公式ながら平均時速は211.7km/hに達し、しかもノントラブルだったと述べている。高速耐久トライアルとしてはトヨタ・2000GTによるものが有名であるが、6時間時点でのトヨタ2000GTの新国際記録210.42km/hを上回っている。(最終的にトヨタ・2000GTは72時間で平均206.02km/h)コスモが24時間でのタイムであること、メカニックなどの体制が十分ではなかったこと、暑さの残る9月、しかも昼12時から行われたテストであることなどを合わせ考えると、この数字は驚きに値する。
1983年10月、マイナーチェンジ。個性的なデザインからかルーチェともども販売が芳しくなく、4ドア・ハードトップのフロントマスクを一般的な固定式ヘッドライトへと変更する。このフロントデザインは翌年デビューするトヨタ・チェイサー(X70系)と酷似していた。同時に4ドア系に13B型ロータリー・スーパーインジェクション(SI)車を設定する。なお、2ドア・ハードトップは従来のリトラクタブル・ヘッドライトを継承した。
1984年9月、2ドア・ハードトップをマイナーチェンジ。「GT」以外のフェイスリフトを行い、4ドア同様の固定式ヘッドライトに替えられる。
1985年5月、モデル末期のグレード整理と、テコ入れとしてレシプロエンジン車に「ジェンティール」シリーズを投入。
ルーチェは1986年(昭和61年)にモデルチェンジされたが、コスモはハードトップのみが残り1990年(平成2年)まで継続製造された。
キャッチコピーは初期が「疾走する知性」「予感、ロマン。」 12Aターボ追加後が「全域全速ターボ。」 83年以降のマイナーチェンジ後が「咲いてるオトコのビッグラン(BIG RUN)」であった。
[編集] 4代目・ユーノスコスモ(1990-1996年)
1990年(平成2年)のユーノスチャンネル発足に合わせて、ユーノスコスモは量産車初の3ローターのロータリーエンジンを搭載した自動車として登場した。ボディは2ドアクーペのみ。当時マツダは販売チャンネルのディビジョン(多チャンネル化。GMでいうシボレーやポンティアックのような展開)にはマツダ、ユーノス、アンフィニ、オートザム、オートラマがあり、ユーノスブランドのフラグシップであった。なお、この車に使用されたユーノスのエンブレムは初代・コスモスポーツのようなローターを象ったものであった。時代はちょうどバブル経済末期で、世界で初めて「CCS」と呼ばれるGPSカーナビ(三菱電機と共同開発)を標準搭載したグレードがあったなど、豪華絢爛であった。エンジンは13B REWと20B REWの二種。いずれもシーケンシャル・ツインターボ。これは日本車としては初の採用であった。20Bは3ローター車。タイプはTYPE-ECCS・TYPE-E・TYPE-S(前期・中期型)・TYPE-SX(後期型のみ)。1996年(平成8年)まで生産された。プラットフォームはマツダ・JCプラットフォームが採用された。3ローターエンジン搭載車は非常に高出力で、当時の280馬力の自主規制枠内に収める為に、意図的に小さなタービンや狭い吸気ポートが採用されている。またエキセントリックシャフトや真ん中のローターの冷却性に難があった。燃費も非常に悪く所有するには相応の覚悟が必要な車である。TYPE-SXはハードサスペンションを装着したモデル。シーケンシャルツインターボはRX-7(FD3S)と違って、プライマリー側とセカンダリー側で異なったサイズのタービンが採用されたが、3ローター搭載ともあいまって、エンジントラブルがかなり多く発生する原因となってしまった。マフラーは高回転域で経路が変更されるデュアルモードを搭載していた。AT車のみでMT車の設定はない。外観では3ローター搭載車はマフラーが4本出しなので、容易に鑑別ができる。(2ローターは2本出し)
1992年にTBS系で放送されたテレビドラマ「俺たちルーキーコップ」では覆面パトカーとして使われた。