マツダ・センティア
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センティア(SENTIA)は、ルーチェの後継車として1991年から2000年まで製造・販売されていたマツダのフラグシップサルーンで、2500cc(初代のみ)と3000ccのV型6気筒エンジンを搭載していた。
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[編集] 車名の由来
仏語のSentirとラテン語の場所を表わす接尾語iaを合体した造語。
[編集] 歴史
[編集] 初代(1991年~1995年)
ルーチェの後継車として1991年から2000年まで製造・販売されていたマツダのフラグシップサルーン。エクステリアは、ルーチェの直線を基調としたボクシーなフォルムから一転、伸びやかな躍動感あふれモダーンかつエモーショナルなフォルムを纏うこととなった。ボディは4ドアハードトップを採用し、当時マツダが奨めていた多チャンネルブランドの1つアンフィニからバッヂやフロント・グリル、アルミホイールなどの形状が異なったマツダ・MS-9という姉妹車も並売された。
エンジンは先代のルーチェのものを改良したV6の2500ccと3000ccのレシプロDOHCを搭載し、ルーチェにあった13B型ロータリーターボの設定はされなかった。このV6エンジンにはファジィ制御の4段オートマチックのみが組み合わせれた。プラットフォームはマツダ・HDプラットフォームを採用。先代のルーチェの良好なハンドリングは、新しいセンティアにも受け継がれ、4輪マルチリンクによるシャシーはルーチェを遥かに凌駕していた。また、ルーフに内蔵していたソーラ電池により室内を換気するベンチレーター機能を備えたソーラールーフが装備され注目を集めた。 ロングホイールベース化による難があると指摘された小回り性能も逆相式4WSが全車に装着された。そのため2850mmのホイールベースであるにもかかわらず4.9mの最小回転半径を実現した。
数多く生まれた多チャンネル化時代のモデルのなかで当初はバブル時代を反映して健闘したものの、同年のクラウンとセドリックのフルモデルチェンジとバブル崩壊で次第に売れ行きは低迷。また、クロノスの失敗によって受けたマツダの経営悪化は、センティアの改良に少なからず影響を与えた。
もともとはフォードに売り込む予定でつくられた新開発したエンジンなど、意欲的な多くの新しいメカニズムを載せる予定だった2代目センティアの開発は、これによって、初代の正常進化版に取って代われることになってしまった。
1994年1月のマイナーチェンジではMS-9を統合。フロントグリルをブラックアウト化とマツダスピード製16インチアルミホイールの採用でスポーティ感を向上。同時に4WSの運転感覚を嫌う人向けの2WS車も追加した。地味でもあった装備群もようやくCCS(カーコミュニケーションシステム)がライバル達に挑んで設定された。
初代が生産終了した後、一部ではVIPカーのベースとしてジャガーのような伸びやかなボディラインと安価な中古車価格に加え、若者たちに人気が出た。東京オートサロンでも披露されることがあった。
[編集] 2代目(1995年~2000年)
1995年11月 2代目を発売。4ドアハードトップを継承しながらも初代に比べ押出し感を強調させたスタイリングとなっている。これにより、初代にて不評だった後席居住性やトランク容量が改善された。また韓国の起亜自動車はこれをベースにしたモデルをポテンシャの後継として「エンタープライズ」という名称で生産した。またインパネも初代の曲面が強いものと比べると直線基調になった。
コストダウンの嵐が吹き荒れる最中のデビューだった事もあり、開発費の都合上従来型の改良版とせざるを得ず、インテリアもコストダウンがすぐに分かってしまうほど品質が低下してしまったことや、高級サルーン市場全体の縮小化、更にはマツダの販売チャネルの整理・経営見直しの真っ只中という悪条件が重なり、販売は苦戦した。
プラットフォームはマツダ・HEプラットフォームを採用。エンジンは全車3Lのみで2.5Lは廃止された。センティアからの3000ccV6DOHC(205馬力)とMPVと共通のSOHC(160馬力)の2種類が用意された。初代に続き、車速感応型4WS装着機種も用意された。
1997年9月 マイナーチェンジでフロントグリルの桟を横から縦に変更と同時にマツダのCIマークも変更した。目に余るコストダウン志向で不評だった前期型の反省を踏まえ、若干ではあるが質感が向上した。
2000年 生産中止。マツダの上級セダンはミレー二アとなったがそのミレー二アも2004年に生産中止され現在はアテンザとなった。2代目センティアの総生産台数は約18200台。