ホバークラフト
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ホバークラフト(Hovercraft)は平坦な面であれば地上・水上・雪上を区別無く進むことの出来る乗り物である。正式にはAir-Cushion Vehicle(ACV=エアクッション艇)と呼ばれ、工学上は航空機に分類されるが、日本の法律では主に水上走行することから船舶に分類されている。
日本では従来「ホーバー」と呼ばれることが多かったが、原語の発音では「ホバー」の方が近い。
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[編集] 仕組み
ホバークラフトは上から吸い込んだ大量の空気を艇体の下に吹き込み続けることで浮力を得ている。艇体下部はスカートと呼ばれる合成ゴム製のエアクッション用側壁が四方に垂れ下げられており、吹き込まれた空気を十分な高さで保持している。この側壁下部と水面または地面との隙間から常に空気が漏れる出ることで完全に艇体の全てが空中に浮かぶため、平坦な面上では接触抵抗が全く発生しない。この隙間より大きな凹凸でもスカート部によって作られたエアクッションの高さまでは、金属製の艇体に接触することが避けられる。
スカート部への空気の圧縮を止めれば、エアクッションが失われて艇体の底部がそのまま水面または地面と接触する。水上でそのような事態が起きても水中へ沈まないように、艇体は船と同様の水密構造を備えている。
ほぼ全ての機種では飛行機のように空気を押すことで推進力を得るためのプロペラを備えるが、水中にスクリュー・プロペラをもつ機種もある。浮上しているため水面や地面の抵抗を受けずに高速に航行できる。平坦な場所であれば陸上でも使用できるが沼地以外では凹凸が障害となるために、実際には水上で利用されることが多く、ほとんどは船舶としての扱いを受けている。ゼロ速度飛行機の一種である。
[編集] 短所
- 波浪や強風など悪天候に弱く英仏海峡では大きな事故を経験している。
- 浮上と推進に大量の空気を圧縮・加速し続けるために、多くのエネルギーを消費して燃費が悪く騒音と振動も大きい。
- エアクッションによって船体を支えるため、2乗3乗の法則による制約を受けて大型化が難しい。
- スカートの破損によってエアクッションが失われると、浮揚に障害を生じる。半消耗品であるスカートの維持交換コストも運用費を押し上げる。
- 操縦に特殊な技能が要求される。
- 陸上ではわずかな斜面でも直進性が失われる。
[編集] 商標
「Hovercraft」は、イギリスのブリティッシュ・ホバークラフト社の商標であるが、同社が一般名称としての使用を認めているため、正式名称である「Air-Cushion Vehicle」(ACV=エアクッション艇)よりも「Hovercraft」や「ホバークラフト」と呼ばれる方が普通になっている。
[編集] 各国での使用状況
日本では、下記のとおり宇高連絡船を始めいくつか採用例があったが、短所が目立つがゆえに高速船への置き換えが進み、現在では大分ホーバーフェリーが唯一の存在となっている。これは空港アクセスの一つとして大分空港から別府湾をはさんだ大分市内までを結ぶものだが、同社がホーバークラフトを使用し続ける大きな理由は、上陸させることで陸路より移動時間を大幅に短縮させる狙いによる。
ベトナム戦争中には米海軍が水陸両用の新兵器として、一種の哨戒艇として実戦に投入した。しかし、騒音が大きく敵に事前に察知されやすいこと、艇体が脆弱であること、さらには陸上運用も可能である事が米陸軍との確執を生んで評価は芳しくなかった。
このため、軍用においては現在は揚陸任務及び輸送任務に当たる事が大半であり、海上自衛隊や米海軍では、輸送艦や強襲揚陸艦に搭載し、上陸用舟艇として利用している。LCACと呼ばれるこの機種の場合、50tを超える主力戦車を一両運搬するだけの能力を持つ。
ロシアは独自の戦略に基づき、輸送用大型ホバークラフトをカスピ海等で運用している。これらはLCACのケースとは異なり独立して揚陸輸送を行なうものであり、内海で既存の揚陸艦を用いるよりも、上陸可能なホバークラフトを用いる方がコストに見合うという考え方からで、一部はギリシャにも輸出されている。ロシアの「ホバークラフト」はロシア語の「Экраноплан」に基づき「エクラノプラン」と書かれることが多い。
この他に、イギリス製のホバークラフトが革命前のイランに輸出され、イラン海軍に配備された。革命後は支援途絶により非稼動とも考えられていたが、一部はイラン・イラク戦争当時から現在に至るまで、ペルシャ湾沿岸における同軍の哨戒・兵員輸送に活用されているという。
[編集] 歴史
1870年代半ばにイギリスの技術者ジョン・ソルニクロフト(John Isaac Thornycroft)が地面効果を応用した試作モデルを多数考案していた。
最初の完全に動作した硬質な船底を持つホバークラフトは、オーストリアのDagobert Müller von Thomamühl[1]が設計し、オーストリア=ハンガリー帝国海軍(KaiserlicheでありKönigliche Kriegsmarineでもある)によって建造された"Seearsenal" である。1915年に完成した。全長13m、全幅4m、5人乗りで32ノットだった。初期のホバークラフトの研究、開発はオーストリア=ハンガリー帝国で進められたが、財政難で中止された。
コンスタンチン・ツィオルコフスキー(Konstantin Tsiolkovsky)による論文 "Air Resistance and the Express Train".[1][2](1927年)では、初めて科学的見地から地面効果と空気浮上の計算について執筆されていて、 それをもとにソ連の技術者であるウラジミール・レフコフ(Vladimir Levkov)は空気浮上艇の開発を始め、1930年代半ばには約20隻の空気浮上による実験的な攻撃・魚雷艇を建造した。最初の試作機であるL-1はとても単純で双胴型で3機のエンジンを搭載していた。2基の空冷式M-11航空機エンジンは水平に内蔵され、3基目は推進に用いられた。実験では130km/hを記録した。当時の水上を航行する船舶では最も速い部類に入る。
現在主流となっている軟質のエアスカートが付いているタイプのホバークラフトを発明したのは、イギリスのクリストファー・コッカレルで、1952年にワイト島で1号艇が造られた。
[編集] 日本における歴史
荒天に弱いという性質から、外洋に囲まれた日本では活躍の場が限られていたが、昭和40年代から、三井造船が建造した艇を利用して各地で定期便運航が行われていた。 そのうち、MV-PP5型やMV-PP15型のエンジンには、ヘリコプター用を改良した石川島播磨重工業製の軽量、高出力のガスタービンエンジンが使用されていたが、現在のMV-PP10型では経済性に優れるディーゼルエンジンが搭載されるようになった。
[編集] MV-PP5
おもちゃのトミカやプラモデルとしても発売されていたため、日本でホバークラフトと言えばこの形を想像する人が多い。 建造元の資料によると、PP5型は計19艇作られた。一部は海外へ輸出。 建造当初は50名程度の定員だったが、後に船体延長し70名程度の定員になった艇もある。延長型はMV-PP5mk2と呼ばれた
- はくちょう(国鉄予備艇→岡山県の玉野海洋博物館で屋外展示)1988年解体
- はくちょう2号(名鉄海上観光船)
- はくちょう3号(名鉄海上観光船→大分ホーバーフェリー)途中からmk2へ改造 1995年解体
- ほびー1号(大分ホーバーフェリー)途中からmk2へ改造 1991年解体
- ほびー2号(大分ホーバーフェリー)1976年解体
- ほびー3号(大分ホーバーフェリー)途中からmk2へ改造 1989年解体
- かもめ(国鉄の初代)1991年解体
- 蛟龍(八重山観光フェリー→竹富島で屋外展示)
- エンゼル1号(空港ホーバークラフト)
- エンゼル2号(空港ホーバークラフト→大分ホーバーフェリー)
- 赤とんぼ51号→ほびー6号(日本ホーバーライン→大分ホーバーフェリー)途中からmk2へ改造 2003年解体
- 赤とんぼ52号→ほびー7号(日本ホーバーライン→大分ホーバーフェリー) 船籍登録した後も運行には使用せず幻のほびー7号となる
- エンゼル3号(空港ホーバークラフト)
- エンゼル4号(空港ホーバークラフト)
- エンゼル5号(空港ホーバークラフト→大分ホーバーフェリー)途中からmk2へ改造 2002年解体
- Hangchang No.1 輸出型30名乗り
- Hangchang No.2 輸出型30名乗り
- とびうお(国鉄の2代目=JR四国へ引継ぎ)建造時からmk2 1991年解体
- Hangchang No.3 輸出型30名乗り
かつては次の各地でMV-PP5による旅客輸送があった。
* 鹿児島ではかつて、空港ホーバークラフトが「エンゼル」という名で運航。
- 指宿市から鹿児島市、又は桜島港を経由して錦江湾を北上、加治木(旧鹿児島空港)へのアクセスとしていた。ここでは運行をフライトと称していた。
- 機体色は黄色一色であり、指宿での客の乗降は、干満に応じて桟橋に接岸したり砂浜に乗り上げたりしていた。
- 1977年に廃止。
- 大阪・徳島間をかつて、日本ホーバーラインが「赤とんぼ」という名で運航(すでに廃止)。
- 沖縄が1972年に米国から日本へ返還された後、離島の振興開発を目指し、10年間にわたって八重山観光フェリーが「蛟龍」という名で、石垣島・小浜島・竹富島・西表島間で運航(現在も航路は残るが、ウォータージェット船に移行)。
- 国鉄~JR四国がかつて、宇高連絡船の急行便として運航していた。連絡船が1時間かかって本州と四国を結んでいたのに対し、わずか23分の所要時間で人気を博していた。使用艇は初代の「かもめ」と2代目の「とびうお」。特に宇野駅では、列車からの乗り継ぎに便利なよう駅ホームの先端からそのまま乗船できた。高松駅では駅の構造上、改札を一旦出て、駅舎すぐ脇の乗り場から乗降していた。どちらの駅も当時は瀬戸内海に面して建っていたので、こうした利便性が実現した。就航当時はテレビの「まんがはじめて物語」やNHK教育の理科番組に登場したこともあった。瀬戸大橋開通により列車で海を渡れるようになった1988年に廃止。現在では、港の埋め立てと再開発、両駅の内陸移転により、その跡を辿ることは全くできない。
PP5型はかつて、日本の代表的なホバークラフトだったが、最後まで残っていた大分でも、新しいPP10型に交代が進み、2003年を以て、全艇リタイアした。
[編集] MV-PP15
MV-PP5の大型化を目指し、1970年代に以下の4隻が建造された。旅客定員155名。操縦席が2階にあり、客室にはトイレもあった。1980年代に入って全艇リタイア。解体され現存しない。
- しぐなす
- しぐなす1号
- しぐなす2号
- しぐなす3号
1975年の沖縄国際海洋博覧会で期間中、会場と那覇の間の連絡船として就航し、有名になった。また、70年代の別の時期には、日本海観光フェリーが能登半島と佐渡ヶ島の間で運航していた(現在は廃止)。試験航行で東京港に来たこともあり、建造元の三井造船本社に近い竹芝桟橋のあたりを走行する雄姿を見ることができた。
[編集] MV-PP10
下記の4隻が国内で現存する艇で、大分ホーバーフェリーに就航しているもので、全艇三井造船玉野事業所製である。旅客定員100〜105名。
- ドリームアクアマリン
- ドリームエメラルド
- ドリームルビー
- ドリームサファイア
[編集] ソ連の「エクラノプラン」
ソ連では、カスピ海において運用する「エクラノプラン」(ロシア語でホバークラフトのこと)が、軍民合わせて多数製作された。軍用のカスピ海の怪物に代表されるように「エクラノプラン」は奇妙な形をしたものが多かったが、それらは西側のものと違い、地面の近くは上空より揚力が強く働く地面効果を利用するために航空機に近い形状をもつという共通点があった。それは、ホバークラフトというよりは「飛び上がれない飛行機」という印象を与えるものであった。
[編集] 脚注
- ^ Charles Coulston Gillispie, Dictionary of Scientific Biography, Published 1980 by Charles Scribner's Sons, ISBN 0684129256, p.484
- ^ (ロシア語) Air cushion vehicle history