フリッツ・ハーバー
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フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日 – 1934年1月29日)はポーランド(当時はドイツ)ヴロツワフ出身の物理化学者、電気化学者。ユダヤ人から改宗したプロテスタントである。塩素の合成に関する業績から「化学兵器の父」と呼ばれることもある。
ベルリン大学やハイデルベルク大学、イェーナ大学で修学した。1894年にカールスルーエ大学の助手となり、1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した。これは1912年にBASFで実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。
1906年に同大学教授となる。1909年にカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所(現在のマックス・プランク研究所)の所長となった。第一次世界大戦中は毒ガス開発に携わる。自身も科学者であった妻クララは夫が恐ろしい殺人兵器の開発に携わることに反対し、初めてそれが実戦で使われた1915年4月22日、自ら命を絶った。その頃ハーバーはこの塩素ガス作戦の指揮を執っていた[1][2][3]。そのため、終戦後は激しい非難に晒され、戦争犯罪人の候補に挙げられてしまう。
1918年にノーベル化学賞を受賞して名誉を回復。1919年にはボルン・ハーバーサイクルを提唱した。さらに1923年に西回りの世界一周の旅に出て、日本にも二ヶ月滞在。函館で叔父ルートヴィヒの遭難50周年追悼行事に参加した。なお、西回りで旅行したのは、ハーバー・ボッシュ法によりチリ硝石が売れなくなったことからチリへ行くのを避けるためだったという。また、1928年にドイツの賠償金返済のために海水から金を回収する実験を試みたが、これは失敗に終わる。
名声の絶頂にあったハーバーだが、1933年にその生涯は暗転する。ナチスによってユダヤ人公職追放令が出された。それを受け、ハーバーはアドルフ・ヒトラーに対し「ユダヤ人の学者を追放することは、ドイツから物理や化学を追放するのと同じことだ」と抗議。だが、ヒトラーは「それなら、これから百年はドイツでは物理や化学無しでやっていこうではないか」と放言。直後の4月30日にハーバーはマックス・プランク研究所所長を辞任し、病気療養を理由にスイスへ出国。一旦イギリスに行くが、毒ガスの件で風当たりが強く、気候の問題もあって再びスイスに渡る。
翌1934年、亡命先のバーゼルで冠状動脈硬化症により、睡眠中に死去した[4]。現在は、妻のクララとともにバーゼルのHornli Cemeteryに埋葬されている。
第一次大戦当時、彼は青酸化合物を用いたツィクロンBを開発。後に殺虫剤として販売された。皮肉なことに彼の親戚たちの多くはこのガスで命を奪われることになる。
[編集] 脚注
- ^ 世界の人口を養う“窒素”の光と影:日経サイエンス 1997年12月号
- ^ @nifty:ディフェンス・レビュー・フォーラム(FDR): フリッツ・ハーバー
- ^ マンガ「栄光なき天才たち」『フリッツ・ハーバー』
- ^ キューバ有機農業ブログ: 空気からパンを作った男
[編集] 伝記
- 宮田親平『毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者』(朝日選書、2007年) ISBN 978-4-02-259934-6
[編集] 関連項目
- マッドサイエンティスト
- ツィクロンB
- オットー・ハーン - 部下として化学兵器の開発に携わる。
- ルートヴィヒ・ハーバー(1843年-1874年) - ハーバーの叔父。開国後の日本に領事として派遣され、1874年8月11日に函館で尊皇攘夷派に暗殺された。彼についてはこちらを参照。
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