バレーボール全日本女子
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国または地域 | 日本 |
---|---|
協会 | 日本バレーボール協会 |
監督 | 柳本晶一 |
オリンピック出場回数 | 9回 |
初出場 | 東京 1964 |
最高成績 | 金メダル(1964、1976) |
世界選手権出場回数 | 13回 |
初出場 | 1960世界選手権 |
最高成績 | 金メダル(1962、1967、1974) |
FIVBランキング | 8位(2007年11月16日版) |
バレーボール全日本女子(バレーボールぜんにほんじょし)とは、夏季オリンピック等の国際大会出場時に編成される、日本の女子バレーボール代表チームの名称。通称全日本。
目次 |
[編集] 概要と特徴
- ユニフォーム
- 1990年ごろまでは日の丸を連想する赤と白のユニフォームが定着していたが、1991年には赤、青、深緑、黒を基調にした4パターンのユニフォームが登場した。1995年にこれまで定番であったブルマーに変わりスパッツタイプが登場した。2003年にはノースリーブ型が登場し、2006年にはシャツの着丈とパンツの股上が短くなりよりセクシーになった。
- プレイスタイル
- 守備力重視のユニチカ仕込みのバレー。アトランタ五輪敗退後、高さ重視のバレーで戦っていたが、主力選手の度重なる怪我・首脳陣の知識不足(守備力重視のスタッフぞろい)などあり方向転換した。現在は守備力+スピードである。
- チーム概観
- 長らく世界のトップに君臨していたが、現在ではFIVBランキング8位の位置につけている。韓国よりは幾分強い。最近の日韓戦では日本が連勝している。
- 監督の所属チームに在籍する選手、気に入られた選手は全日本に入ることができるが、監督に嫌われている選手は全日本に入ることができない傾向が一部見られる。前監督吉川正博は世界選手権13位タイというワースト記録を更新。現在の監督柳本晶一になりベテラン吉原や佐々木を復帰させるなどしてアテネオリンピックに出場するが、依然として古い日本バレーの体質が変わらず世界のデータバレーから置いていかれる厳しい状況が続いている。
[編集] 歴史
日本が初めて世界大会に挑戦したのは、1960年の第3回世界選手権である。日本は予選リーグを全勝で通過し、決勝リーグに進出した。決勝リーグも強豪国を撃破し、ソ連からは1セットを奪い初出場ながら銀メダルを獲得した。
1962年の世界選手権は日紡貝塚による単独チームによる出場で金メダルを獲得。1964年の東京五輪も日紡貝塚を中心としたメンバーで金メダルを獲得した。大松博文監督が率いる同チームは東洋の魔女と呼ばれた。これ以後、日本とソ連が優勝を争う日ソ2強時代がしばらく続いた。
1968年メキシコシティ五輪、1972年ミュンヘン五輪はいずれもソ連に敗れて銀メダルであったが、1976年モントリオール五輪では12年ぶりに金メダルを獲得した。山田重雄が率いる全日本は守りの粘り、攻撃の速さで他を圧倒し、ソ連との決勝戦は15-7,15-8,15-2と一方的な展開で試合は終了した。大会史上初の失セット0の完全勝利の快挙であった。
1976年のモントリオール五輪優勝により1980年モスクワ五輪出場権を獲得していた。選手強化も順調に進み、モスクワ五輪前年のプレオリンピックでは優勝し、金メダルを獲得できる確率ははかなり高いと言われていた。しかし1979年に開催国のソビエトがアフガニスタンに侵攻。アメリカ政府が提案したモスクワ五輪のボイコットに日本政府が同調、その結果不参加となった。
1984年のロサンゼルス五輪はソ連がボイコットした。準決勝で中国に破れたが、3位決定戦でペルーに勝って銅メダルを獲得した。
ロサンゼルス五輪で銅メダルという不本意な結果に終わると『単独チーム方式』では限界があるという声がしだいに大きくなった。1986年世界選手権では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める『純粋選抜方式』で挑んだが結果は7位と沈んだ。
1988年のソウル五輪では、山田重雄監督の下、日立中心のチーム構成で挑んだ。準決勝の対ペルー戦はフルセットの接戦となった。決勝進出まであと2ポイントというところまで迫ったが、ペルーの粘りで敗れてしまった。3位決定戦の対中国戦も敗れ、初めてオリンピックでメダルなしに終わった。
1992年のバルセロナ五輪は5位、1996年のアトランタ五輪は9位と成績は下降を続けた。2000年のシドニー五輪最終予選では3連勝の後、中国、イタリア、クロアチア、韓国に4連敗をして、初めて五輪出場権を逃した。日本女子バレーの人気も実力もどん底となった。
2002年世界選手権は史上最悪の13位で終わり、直後の釜山アジア大会でも中国、韓国から1セットも取れずに3位で終わった。これらの責任を取る形で吉川正博監督を含む強化委員全員が辞任した。
2003年に柳本晶一が監督に就任。吉原知子がキャプテンとして全日本に復帰し、大山加奈、栗原恵などの若手選手が積極的に起用された。2004年5月のオリンピック世界最終予選では開幕から6連勝を果たし、最終戦では、ロシアに敗れたものの、2大会振りの出場権を獲得した。同年8月のアテネ五輪ではなんとか決勝トーナメントに駒を進めたが準々決勝で中国に敗れベスト8の成績に留まった。
2007年には木村沙織や荒木絵里香など若き才能が活躍、第14回アジア選手権で24年ぶりに金メダルを獲得。
[編集] 過去の成績
[編集] オリンピックの成績
- 1964年 - 金メダル
- 1968年 - 銀メダル
- 1972年 - 銀メダル
- 1976年 - 金メダル
- 1980年 - 不参加
- 1984年 - 銅メダル
- 1988年 - 4位
- 1992年 - 5位
- 1996年 - 9位
- 2000年 - 予選敗退
- 2004年 - 5位
- 2008年 -
- 2012年 -
[編集] 世界選手権の成績
- 1952年 - 不参加
- 1956年 - 不参加
- 1960年 - 銀メダル
- 1962年 - 金メダル
- 1967年 - 金メダル
- 1970年 - 銀メダル
- 1974年 - 金メダル
- 1978年 - 銀メダル
- 1982年 - 4位
- 1986年 - 7位
- 1990年 - 8位
- 1994年 - 7位
- 1998年 - 8位
- 2002年 - 13位
- 2006年 - 6位
- 2010年 - (開催国のため出場)
[編集] ワールドカップの成績
- 1973年 - 準優勝
- 1977年 - 優勝
- 1981年 - 準優勝
- 1985年 - 4位
- 1989年 - 4位
- 1991年 - 7位
- 1995年 - 6位
- 1999年 - 6位
- 2003年 - 5位
- 2007年 - 7位
- 2011年 -
[編集] 代表メンバー
[編集] 歴代監督の一覧
国籍 | 年 | |
---|---|---|
前田豊 | 日本 | 1960年 |
大松博文 | 日本 | 1961年 - 1964年 |
船山浩志 | 日本 | 1966年 - 1967年 |
山田重雄 | 日本 | 1967年 - 1968年 |
小島孝治 | 日本 | 1970年 - 1972年 |
船山浩志注 | 日本 | 1973年 |
山田重雄 | 日本 | 1973年 - 1978年 |
小島孝治 | 日本 | 1978年 - 1982年 |
生沼スミエ | 日本 | 1982年 |
米田一典 | 日本 | 1983年 - 1984年 |
小島孝治 | 日本 | 1985年 - 1986年 |
岩本洋 | 日本 | 1987年 |
山田重雄 | 日本 | 1988年 |
宗内徳行 | 日本 | 1989年 |
米田一典 | 日本 | 1990年 - 1993年 |
横田忠義 | 日本 | 1994年 |
小島孝治 | 日本 | 1995年 |
吉田国昭 | 日本 | 1996年 |
葛和伸元 | 日本 | 1997年 - 2000年 |
吉川正博 | 日本 | 2001年 - 2002年 |
柳本晶一 | 日本 | 2003年 - |
注1973年ワールドカップにヤシカによる単独チームの監督として出場。同時期に山田重雄が監督を務めるもうひとつの全日本が存在する。