中田久美
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名前 | ||
ラテン文字 | NAKADA Kumi | |
コートネーム | クミ | |
選手情報 | ||
国籍 | 日本 | |
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生年月日 | 1965年9月3日 | |
血液型 | A型 | |
ポジション | セッター | |
身長 | 177cm | |
股下 | 88cm | |
利き手 | 左 | |
獲得メダル | ||
オリンピック | ||
女子 バレーボール | ||
銅 | 1984 | バレーボール |
中田 久美(なかだ くみ、1965年9月3日 - )は、タレント、スポーツキャスター。(元全日本女子バレーボール代表選手)。東京都練馬区出身。NHK学園高校卒業。ブルーミングエージェンシー所属。
目次 |
[編集] 来歴
中学からバレーボールを始め、中学2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。その後才能を開花させ1980年に15歳で全日本代表に選出される。翌1981年には日立に進み、日本リーグ新人賞を獲得。1984年のロス五輪での銅メダルを皮切りに、1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場し、天才セッターと呼ばれた。
1986年11月、ブロックの練習中に右膝前十字じん帯断裂。再起不能ともいわれた大ケガだったが、厳しいリハビリを乗り越え10ヶ月後には再び試合に復帰した。
1988年2月、再び右膝を手術した。しかし右膝は完治せず、試合の時は、痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪出場。
1992年バルセロナ五輪に出場。日本女子バレー史上初となる三度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退するも1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチ就任。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。最近では、日本オリンピアンズ協会のHP上で森田淳悟とのインタビューも実現している。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会強化委員を務めた。
[編集] 人物・エピソード
- 名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。
- 日本リーグ、プレミアリーグ(Vリーグ)時代を通じて女子最多4度の最高殊勲選手賞受賞者である。
[編集] てめーら、コノヤロー!事件
2004年、フジテレビ「すぽると!」生放送において、アテネオリンピック出場権を獲得した全日本代表メンバーが出演した際、選手達の行きすぎた浮かれ具合とはしゃぎ振りに、中田は業を煮やしていた。その後、画面が試合映像に切り替わった途端、中田は「てめーら、コノヤロー!」と一喝し、選手達の気を引き締めると同時に、スタジオ全体を静まり返らせた。しかしこの時、マイクがオフになっておらず、その怒鳴り声が全国に流れてしまった(当時スタジオには全日本女子監督柳本晶一の他、フジテレビ幹部もいた)。容赦ない怒声が放送された事で、中田本人は発言後に今後フジテレビへの出入り禁止を覚悟したほどであったが、翌日日本バレーボール協会から「色々とご指導ありがとうございました。」と感謝の言葉が返ってきたという。
[編集] 球歴・受賞歴
- 所属チーム履歴
- 練馬東中→日立(1981-1992年、1995-1996年)
- 全日本代表 - 1980-1986年、1988-1989年、1991-1992年
- 全日本代表としての主な国際大会出場歴
- 受賞歴
[編集] 著書等
- 夢を信じて(中田久美著、日本文化出版、1993年3月、ISBN 9784931033931)
- バレーボール〈上巻〉基礎編(中田久美、てしろぎたかし、松下佳正共著、集英社、1995年1月、ISBN 9784082880330)
- バレーボール(中田久美、てしろぎたかし共著、集英社、1995年2月、ISBN 9784082880347)
- N.93―中田久美写真集 (森川昇撮影、新潮社、1998年10月、ISBN 9784104261017)
- 天才セッター中田久美の頭脳(タクティクス)(二宮清純著、新潮社、2003年3月、ISBN 9784104590018)
[編集] 外部リンク
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