ユニチカ・フェニックス
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ユニチカ・フェニックスは、ユニチカの女子バレーボールチームである。
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[編集] 歴史
1954年、ユニチカの前身である大日本紡績は3つの工場のバレーボール部を大阪府・貝塚工場に統合して創設。(ニチボー貝塚・監督大松博文)。1959年から1966年にかけて258連勝を記録し、1961年のヨーロッパ遠征では24戦全勝の戦績を残し『東洋の魔女』と呼ばれた。1962年の世界選手権にはニチボー貝塚単独チームによる日本代表で参加し優勝している。1964年の東京オリンピックでもほとんどの日本代表を輩出し金メダル獲得に大きな貢献をした。 1969年、チーム名をユニチカ貝塚に変更。1977年ユニチカ、1994年に日本リーグがVリーグにリニューアルされてからはチームの愛称をユニチカ・フェニックスにした。
日本リーグに参加後も同大会や全日本選手権、国民体育大会といった国内大会で主要タイトルを数々獲得し、女子リーグでは日立ベルフィーユなどと並ぶ強豪の地位を不動のものとした。
しかし長期不況が災いしユニチカは2000年の全日本選手権を最後にバレー部の休止を発表。選手全員の完全移籍を目指し交渉を行った結果、同年9月に東レ滋賀工場が選手全員の受け入れを発表し東レ・アローズにチーム全体の移籍となった。
現在、練習場はJVA貝塚トレーニングセンターとして全日本女子代表チームの合宿などに活用されている。また、「フェニックス」は2005年からユニチカラグビー部(トップウェストA1所属)の愛称として再び使用されている。
[編集] 主な成績
- 優勝6回(1969年度、1970年度、1971年度、1979年度、1980年度、1996年度)
- 優勝19回(1953年、1956年、1957年、1958年、1959年、1961年、1962年、1963年、1964年、1965年、1966年、1967年、1969年、1971年、1981年、1989年、1991年、1995年、2000年)
[編集] 在籍していた主な選手
- 河西昌枝
- 姫田睦子
- 宮本恵美子
- 増尾光枝
- 中島澄子
- 西原篤子
- 谷田絹子
- 半田百合子
- 松村好子
- 青木洋子
- 山田暉子
- 松村勝美
- 本田憲子
- 磯部サダ
- 松村勝美
- 篠崎洋子
- 佐々木節子
- 藤本佑子
- 横山樹理
- 広瀬美代子
- 中西千枝子
- 中村和美
- 佐伯美香
- 熊前知加子
- 清家ちえ
- 佐野優子