辻知恵
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名前 | ||
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ラテン文字 | TSUJI Chie | |
コートネーム | チエ | |
選手情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1969年8月9日 | |
ポジション | セッター | |
身長 | 177cm | |
体重 | 67kg | |
血液型 | O型 | |
利き手 | 右 | |
最高 到達点 |
スパイク | 288cm |
ブロック | 282cm |
辻 知恵(つじ ちえ、旧姓:名取 1969年8月9日 - )は、日本の元バレーボール選手である。山梨県甲府市出身。血液型O型。夫は元茂原アルカス監督の辻智之。
目次 |
[編集] 来歴
増穂商業高校時代、高校生で唯一、ブロード攻撃の出来るセンタープレイヤーとして注目され、春高バレー(3位)・インターハイ等で活躍した。 1988年、当時のダイエー米田一典監督の薦めで、セッターとして入社。2年目からレギュラーとして活躍する。
1995年、ダイエー退社。その後、1994年度全日本代表時に知り合った辻智之コーチと結婚、富士通(長野)でのプレーを経て、1998年4月より夫婦で茂原アルカス(日立茂原)の指導(選手兼任)に当たり、チームをVリーグ(プレミアリーグ)昇格へ導いた。
1990年、全日本代表初選出。2004年、史上最年長(35歳)でアテネオリンピック代表に選ばれる。試合出場機会は無かったが、史上初の全日本代表ママさん選手としてチームを内面から支えた。
2005年、現役引退。
2007年4月、女子9人制の山梨中央銀行バレーボール部総監督に就任。[1]
[編集] エピソード
- 吉原知子がキャプテンになった全日本は意識が大きく変わり、チーム力もアップした。その為に吉原が費やした労力も少なくはなかった。柳本晶一監督は第1次候補リストに入りながら一旦辞退していた辻に再度代表入りを依頼した。当時第2セッターだった内田役子が怪我で離脱したこともあるが、柳本は「吉原を支える精神的支柱」と「竹下のバックアップ的存在」として適任と判断したのが理由である。
- 試合への出場は少なかったが、辻が裏方としてレギュラー選手の洗濯を黙々としている姿を見て佐々木みきや大山加奈など若手選手は、決して腐らずに戦うことができた。そういう意味でも辻がチームに与えた影響は大きかったと言える。
- 反面コートに入ると消極的なプレイになると柳本から指摘され涙したこともある。しかし自分が第2セッターであることを重々承知していた辻は「普通なら誰でも正セッターの竹下とコンビプレーの練習をしたいはずだから、私の方からは言えなかった」と苦悩を明かしている。
[編集] 球歴・受賞歴
- 所属チーム履歴
- 全日本代表 - 1990年、1994年、2003-2004年
- 全日本代表としての主な国際大会出場歴
[編集] 脚注
- ^ 『産経新聞・山梨版』2007年6月1日