ハンス・フォン・オハイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハイン(Hans Joachim Pabst von Ohain、1911年12月14日 - 1998年3月13日)は、ドイツ出身の航空技術者。ジェットエンジンの開発に大きく貢献した先駆者である。
オハインは自律駆動できるジェットエンジンを世界に先駆けて設計し、純粋にジェット推進のみで飛行できる航空機を開発した。ただし彼の設計したエンジンは、開発には成功したにもかかわらず、大量生産されることはなかった。それゆえ、彼の大きな業績は、ドイツにおけるジェットエンジン開発の道筋を創ったことであると評価されている。
戦後彼は英国におけるジェットエンジンの先駆者であるフランク・ホイットルと会見し、彼らは互いの業績を認め合い、良き友人になった。
[編集] 初期の経歴とジェットエンジン
ドイツのデッサウに生まれた彼はゲッティンゲン大学で物理学及び航空力学で博士号を取り航空研究所に勤務した。それ以前の1933年に“プロペラを持たないエンジン”を考案していた彼は1935年に学位を取得し、同大学の物理学科でロバート・ポールの助手となっていた。
1936年、ポールの元で働いている時、オハインは彼の考案したジェットエンジンの特許を取得した。そのエンジンはホイットルの設計とは異なる形式で、遠心式圧縮機とタービンが背中合わせに配置され、その周りに燃焼室が設置されていた。結果的に彼の考案したジェットエンジンは、同時期にホイットルの考案したジェットエンジンよりも直径が大きくかつ回転軸方向の長さは短いものになった。
[編集] ハインケル社での業績
1936年2月、ポールはエルンスト・ハインケルに宛ててオハインのアイディアとその可能性について紹介文を書いた。
そのことをきっかけにハインケルの元で働くようになったオハインは、水素ガスを燃料とするHeS1を開発した。HeS 1は単純で大きな板金から職人の手で手作業で造られた。製造は1936年晩夏に開始され1937年3月に完成した。2週間後、水素で作動したが、高温の排気で金属が燃えた。9月には燃焼室を交換してガソリンを燃料として運転した。
HeS1は改良を重ねたが、実用には程遠い状況だった。実験は継続されたが。チームは既に実用機であるハインケル HeS 3の設計に移った。最大の違いは板金製から機械加工された圧縮機とタービンを持つことだった。圧縮機とタービンの間に燃焼室を配置する事により、断面積を減らした。
元の設計ではタービ部分の効率が低すぎた。新設計では燃焼室を外側に移動し、圧縮機の外周に配置した。3b型では圧縮空気が燃焼室へ管で送られ、高温の空気がタービン入り口へ送られる。3b型は(諸説あるが)1939年7月に初めて運転された。空中試験はHe118急降下爆撃機に搭載されて行われた。 3b型エンジンの原型はまもなく焼失したが、2号機が空中試験に供され、開発者達の努力が実を結び、1939年8月27日、改良型「HeS3b」を搭載した「He 178」は純粋なジェットエンジンの推進力のみでの飛行に成功した。
ハインケル HeS 8はHe 280戦闘機に搭載する為に開発が進められたが、機体の開発が順調に進んだのとは裏腹にエンジンの開発は難航した。実用可能な域に達したHeS 8は1941年3月末に搭載された。初飛行は4月2日だった。3日後、ナチスと航空省の面々に公開された。
同時期、ドイツでは複数のターボジェットエンジンの開発が進められていた。ハインケルはユンカース出身のアドルフ・ミューラーが開発中の軸流式圧縮式ジェットエンジンの概念を高く評価していた。ハインケル HeS 30に改名する。ミューラーはユンカース発動機会社が買収された後ユンカースを離れた。当時、同社は水面下でユモ 004として知られる独自の計画を進めていた。BMWは進歩的なBMW 003を製造していた。
HeS 8の性能は不十分だったので開発は終了させられ、航空省のヘルムート・シェルプ (Helmut Schelp) はハインケル社に対して新しい私的な計画を要求した。それはハインケル HeS 011になる。 最初であるにもかかわらず、シェルプの"クラスⅡ"エンジンは良い滑り出しをみせたが戦争が終結して生産は間に合わなかった。HeS 8の作業は続けられたが1943年春に断念された。
戦後、彼はペーパークリップ作戦によりアメリカへ渡った。