ドイツ領東アフリカ
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- ドイツ領東アフリカ
- Deutsch-Ostafrika
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赤がドイツ領東アフリカ、青がその他のドイツ植民地-
公用語 首都 バガモヨ (1885-1890)
ダルエスサラーム (1890-1918)通貨 ドイツ領東アフリカルピー
ドイツ領東アフリカ(どいつりょうひがしあふりか、独:Deutsch-Ostafrika)は東アフリカに存在した、後のブルンジ、ルワンダ、およびタンガニーカ(タンザニアの大陸部)の3地域を合わせたドイツ帝国の植民地。面積は994,996平方キロメートルでドイツ連邦共和国の3倍に近い。1880年代から第一次世界大戦にかけて存在し、戦後イギリス帝国とベルギーに占領された後、委任統治領となった。
目次 |
[編集] 設立から第一次世界大戦まで
1884年頃、探検家でドイツ植民協会の創設者カール・ペータースは、ザンジバルから海を隔てたアフリカ大陸東部に入り、原住民の首長らと契約をむすんだ。ベルリン会議終了後の1885年3月3日、ドイツ政府はドイツ保護領東アフリカを設立する意向であること、ペータースのドイツ植民地協会に(2月17日に密かに)ドイツ保護領東アフリカ統治を委託する勅許を与えたことを公表した。ペータースはその後、現地を縦断し南方ルフィジ川、および北方沿岸部ラム近くのヴィツ(en、スワヒリランド)へ展開する様々な専門家を募った。
ザンジバルのスルターン(自身アフリカ大陸インド洋沿岸部の支配者であると考えていた)が、ドイツの進出に対して抗議した際、ドイツ宰相ビスマルクは5隻の軍鑑(シュトッシュ、グナイゼナウ、プリンツ・アダルベルトなど)を派遣した。艦隊は8月7日に現地に到着し、砲口をスルターンの宮殿に向け威圧した。イギリス帝国(ザンジバルから支援を求められていたが、それに応えず自らも東アフリカに進出した)、ドイツおよびフランスが協議した結果、1986年に大陸部を分割してお互いの境界線(それに伴いザンジバルの支配地域も)を定めた[1]。イギリスの支援を得られなかったザンジバルは同意せざるを得なかった。
ドイツは速やかにバガモヨ、ダルエスサラームおよびキルワ地区を支配下に置いた。1888年アブシリの反乱が発生し、翌年に(イギリスの支援を受けて)鎮圧した。1890年、イギリスとドイツはヘルゴランド=ザンジバル条約を締結、北海のヘルゴランド島をドイツ領としドイツ領東アフリカの権限範囲を定めた(境界線は1910年まで不明確なままだった)。
1891年から1894年の間、首長ムクワワに率いられたへへ族がドイツの進出に抵抗したが、結局他の部族がドイツ側についたため敗北した。ゲリラ活動を続けた後、ムクワワは追い詰められ1898年に自害した。
1905年、マジマジ反乱が発生し、植民地総督グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン伯爵により鎮圧された。しかしその後まもなく腐敗と残虐行為の不祥事が明るみに出て、1907年ドイツ宰相ベルンハルト・フォン・ビューローはベルンハルト・デルンブルクに植民地統治の改善を命じた。それは植民地統治のモデルケースになり、第一次世界大戦中の原住民の驚異的な忠誠にその結果が現れた。
ドイツ人植民地管理官は秩序を保ち、徴税に関しては原住民部族の首長に厚い信頼をおいた。現地警察以外では駐留軍(独:Schutztruppe、防衛隊)が110名のドイツ人将校(42名の軍医を含む)、126名の下士官および2,472名の原住民兵(アスカリ[2])で編成され、ダルエスサラーム、モシ、イリンガおよびマヘンゲにに配置された[3]。
[編集] 経済開発
商業とその成長はドイツの指導の下で本格的に始まった。40,000ヘクタール以上に渡りサイザル麻が栽培されており、もっとも大きな収入源となっていた。大規模な綿花のプランテーションの他、2百万本のコーヒーの木と80,000ヘクタールに渡りゴムの木が植えられていた。
早くから経済の発展は信頼できる輸送手段に依存すると理解されており、これら農業生産品の市場への流通はタンガからモシへ至るウサンンバラ鉄道(北方鉄道)が開通した1888年に始まった。もっとも路線の長いタンザニア中央鉄道はダルエスサラームからモロゴロ、タボラを経由しキゴマに至る全長1,250キロメートルに及んだ。最終的にタンガニーカ湖東岸まで開通したのは1914年7月で、それを記念し大規模で賑やかな祝典とともに農産物の見本市と貿易博覧会が首都で開催された。
港湾施設は電気クレーン、鉄道敷設、倉庫などが建設あるいは拡充され、タンガ、バガモヨおよびリンディでは埠頭が改築された。1912年にはダルエスサラームおよびタンガに356隻の蒸気貨物船および旅客船と、1,000隻を超える湾岸船および域内貿易船が入港した[4]。
1914年までにダルエスサラームおよび周辺地域の人口は166,000人となった(1,050人のヨーロッパ人を含み、ドイツ人はそのうち1,000人)。東アフリカ保護領全域では3,579人のドイツ人がいた[5]。それ自体でダルエスサラームは全熱帯アフリカの模範的都市となった[6]。
これらすべての努力にもかかわらず、ドイツ領東アフリカは決して祖国のために利益を上げたというわけではなく、本国財務省からの助成金を必要とした。
[編集] 教育
他のアフリカ植民地所有者ベルギー、イギリス、フランスおよびポルトガルとは違って、ドイツは初等学校、中等学校および職業訓練学校の開設といったアフリカ人教育プログラムを施行した。
教師の採用条件、教育課程、教科書、教材、すべては他の熱帯アフリカのどこにも並ぶものがない水準に達した。[7] |
1924年、第一次世界大戦が勃発して10年後、そしてイギリスが支配してから6年後、現地を訪れたアメリカフェルプス=ストークス委員会は次のように報告している。
学校に関して、ドイツ人は驚くべきことを成し遂げた。教育をドイツ人が行った水準まで引き上げるには若干の時間を要する。[8] |
[編集] 第一次世界大戦
詳細はアフリカ戦線 (第一次世界大戦)を参照
第一次世界大戦勃発時、ドイツ領東アフリカ防衛隊は司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐(当時)に率いられ連合国軍と戦った。レットウ=フォルベックはこの戦争を、3,000名のヨーロッパ人将校と1,1000名の原住民アスカリおよびポーターとともにイギリス軍を繰り返し攻撃して釘付けすることに費やした。イギリス軍は30万名を擁する強力な部隊で、この時第二次ボーア戦争を指揮したヤン・スマッツに率いられていた。レットウ=フォルベックのもっとも大きな戦功はタンガの戦いにおける勝利で、彼は自軍の8倍以上のイギリス軍を打ち破った。
レットウ=フォルベックはゲリラおよび奇襲作戦を展開し、最終的にイギリス軍に大量の物資と少なくとも6万人以上の損失を強いた。それにもかかわらず、圧倒的な兵力差(特にベルギー領コンゴ軍が西から攻撃してきた後)と補給の減少はレットウ=フォルベックに撤退を余儀なくさせた。最終的にレットウ=フォルベックは配下の小規模な部隊とともにドイツ領東アフリカを出てポルトガル領東アフリカ(後のモザンビーク)に侵入し、その後北ローデシア(後のザンビア)に侵入し、ドイツの休戦協定署名から3日後に休戦の知らせを受けて戦闘停止に同意した。
戦後、レットウ=フォルベックと彼のドイツ領東アフリカ防衛隊は、第一次世界大戦において唯一敗北しなかった植民地軍(数で劣る敵に対してはしばしば退却したが)という、英雄として凱旋した。東アフリカでドイツ軍とともに戦ったアスカリにはのちにヴァイマル共和政および西ドイツから恩給が支給された。
ドイツ軍軽巡洋艦ケーニヒスベルクも東アフリカ沿岸で戦った。ケーニヒスベルクは燃料の石炭を使い果たし、1915年ルフィジ川河口で沈没した。乗組員はその後地上軍に参加した。
ヴェルサイユ条約によりドイツ領東アフリカは分割され、西側をルアンダ=ウルンディ(後のルワンダとブルンジ)としてベルギー領に、ロヴマ川以南のキオンガ三角地帯(後のモザンビークの一部)をポルトガル領に、残りをタンガニーカと名付けイギリス領とした。
[編集] 郵便切手
ドイツ領東アフリカで最初に郵便切手が発行されたのは1893年で、ドイツの切手に「Deutsch-Ostafrika」の銘とペサ(ドイツ領東アフリカの通貨)での値段が加刷されていた。1900年、ドイツはすべてのドイツ植民地で共通のデザイン(皇帝のヨット「ホーヘンゾーレン」の図柄)を採用した切手「ヨット」を発行した。ドイツ領東アフリカでは現地通貨のペサおよびルピー(64ペサで1ルピー)建てで「DEUTSCH-OSTAFRIKA」の銘がかかれていた。1905年、新しい切手は「ヘラー」で印刷された(100ヘラーで1ルピー)。ドイツは戦況が悪化しても切手を発行し続けた。
ベルギーおよびイギリスに占領された後もそれぞれ臨時郵便切手として発行された。1916年、ベルギー占領地ではベルギー領コンゴの切手にいくつかの表記でオーバープリントが施された。最初は「RUANDA」および「URUNDI」とされたが実際には使用されなかった。次に二つの言語で「EST AFRICAIN ALLEMAND / OCCUPATION BELGE / DUITSCH OOST AFRIKA / BELGISCHE BEZETTUNG」とオーバープリントされた。1922年、これらの切手は、いくらかの加刷を受けた。
1916年初頭、イギリスはニヤサランドの切手に「N.F.」(Nyasaland Force、ニヤサランド軍)のオーバープリントを施し、その後1917年に東アフリカとウガンダの切手のオーバープリントを「G.E.A.」に切り替えた。「East Africa and Uganda Protectorates」と銘の入った切手に同じオーバープリントが施されたが、これらはタンガニーカ設立後に発行され、タンガニーカの郵便史の一部とみなされている。
[編集] 歴代の植民地総督 1885年-1918年
- 1885年-1889年: カール・ペータース(Carl Peters) - ドイツ東アフリカ会社
- 1889年-1891年: ヘルマン・フォン・ヴィスマン(Hermann von Wissmann)
- 1891年-1893年: ユリウス・フォン・ゾーデン(Julius von Soden)
- 1893年-1895年: フリードリヒ・フォン・シェーレ(Friedrich von Scheele)
- 1895年-1896年: ヘルマン・フォン・ヴィスマン
- 1896年-1901年: エドゥアルト・フォン・リーベルト(Eduard von Liebert)
- 1901年-1906年: グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン
- 1906年-1912年: ゲオルク・アルブレヒト・フォン・レーヒェンベルク(Georg Albrecht von Rechenberg)
- 1912年-1918年: ハインリヒ・アルベルト・シュネー(Heinrich Albert Schnee)
[編集] 植民地時代の地名
- ビスマルクブルク(Bismarckburg) - カサンガ
- カイザー=ヴィルヘルム=シュピッツェ(Kaiser-Wilhelm-Spitze) - キリマンジャロ
- ヴァイトマンズハイル(Weidmannsheil) - タボラ
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- Schnee, Dr. Heinrich (1926). German Colonization, Past and Future - The Truth about the German Colonies. London: George Allen & Unwin.
- Bullock, A.L.C (1939). Germany's Colonial Demands. Oxford University Press.
- East, John William (1989). The German Administration in East Africa: A Select Annotated Bibliography of the German Colonial Administration in Tanganyika, Rwanda and Burundi from 1884 to 1918. 294丁、マイクロフィルム1巻。1987年11月、ロンドンにおいて図書館協会の研究奨学金のために提出された論文
- Farwell, Byron (1989). The Great War in Africa, 1914–1918. New York: W. W. Norton & Company. ISBN 0393305643.
- Miller, Charles (1974). Battle for the Bundu, The First World War in East Africa. New York: MacMillan Publishing Co., Inc. ISBN 0025849301.
- Haupt, Werner (1984). Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884-1918. Friedberg: Podzun-Pallas Verlag. ISBN 3790902047.
- Hahn, Sievers (1903). Afrika, 第2版, Leipzig: Bibliographisches Institut.
[編集] 外部リンク
- "The coins and bank notes of German East Africa" 2008-05-25閲覧.
- "German East Africa" 2008-05-25閲覧. ブリタニカ百科事典第11版に基づく
- The New Student's Reference Work/German East Africa (ウィキソース英語版)