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チェスキー・クルムロフ - Wikipedia

チェスキー・クルムロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

チェスキー・クルムロフ
チェスキー・クルムロフの市旗
チェスキー・クルムロフの市章
市旗 市章
位置
チェスキー・クルムロフの位置の位置図
チェスキー・クルムロフの位置
座標: 48°48′39.27″N, 14°18′54.75″E
歴史
1253年
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旧名 {{{旧名}}}
創設者 {{{創設者}}}
行政
チェスキー・クルムロフ
町長 Luboš Jedlička
地理
面積  
  市域 22.16 km²
    陸上
    水面   {{{水面面積(平方キロ)}}} km²
      水面面積比率
  市街地
  都市圏
標高
人口動態
人口 (2007年現在)
  市域 14,056人 人
    人口密度   634 人/km²
  市街地
    市街地人口密度
  都市圏
    都市圏人口密度
  備考
その他
等時帯
  夏時間
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市外局番 {{{市外局番}}}
ナンバープレート {{{ナンバープレート}}}
ISO 3166-2 {{{ISOコード}}}
公式ウェブサイト: www.ckrumlov.info

チェスキー・クルムロフチェコ語Český Krumlovドイツ語:Krumau (Krummau) an der Moldau、またはBöhmisch Krumau (Krummau)、ラテン語表記:Crumlaw)は、チェコ南ボヘミア州の小さな都市。クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、ドイツ語のKrumme Aueをその語源とする。チェスキーは、チェコ語で「ボヘミアの」という意味であり、これによりモラヴィアにあるモラヴスキー・クルムロフ(Moravský Krumlov)と区別される。1920年以前はクルマウ・アン・デア・モルダウという名称で知られ、古い地図には単にクルマウ(Krumau)と記載されていることが多い[1]

目次

[編集] 歴史

クルムロフ城内劇場の舞台
クルムロフ城内劇場の舞台

[編集] 神聖ローマ帝国領邦ボヘミア王国の時代

町と城の建設は、ボヘミアの重要な通商路であるモルダウ川(ヴルタヴァ川)沿いに13世紀後半に始まった。

1302年、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)の町と城は、ボヘミアの有力貴族であったローゼンべルク(ロジェンベルク)家のものとなる。14世紀以降、町では手工業と交易が盛んになった。16世紀、特に領主ウィルヘルム・フォン・ローゼンベルクの時代には、ルネサンス様式の建物が数多く建築され、町は色彩鮮やかな華麗なるルネサンス都市へと変貌を遂げた。

しかし、町の華やかな装いとは裏腹に、ローゼンベルク家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられたクルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡る[2]。その後、1622年、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、当時、神聖ローマ帝国全土を巻き込んでいた三十年戦争において、財政面を含む貢献のあったエッゲンベルク家にこの町を与えた。この時代に、町にはバロック様式の建築物が加わった。

1719年、エッゲンベルク家は断絶し、町と城は同家を相続したシュヴァルツェンベルク家の手にわたった。領主ヨーゼフ・アダム・シュヴァルツェンベルクの時代に、城はバロック様式に改築され、後に有名となる城内劇場(バロック劇場)が完成する。

クルマウ(チェスキー・クルムロフ)では、その地理的条件もあり、ドイツ語が有力な時代が長かったが[3]、ドイツ系住民とチェコ系住民はうまく共存しており、19世紀に至るまでは、民族意識が政治的緊張をもたらすことはなかった。

[編集] オーストリア=ハンガリーからチェコスロバキアへ

19世紀に入り、シュヴァルツェンベルク家は、新たに英国風のネオ・ゴシック様式に改築されたフルボカー城に居城を移した。また、産業革命期にあって、この町は、主要な鉄道網から外れ、大規模な工業化もみられなかった。町は緩やかな衰退へと向かう。

1867年、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、オーストリア=ハンガリー帝国の一部となった。次第に、民族主義が、帝国全土を揺るがすようになり、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)もその例外ではなかった。学校教育や図書館などが、次第にドイツ系とチェコ系に分離するようになった。1910年時点における町の人口は8,662人であったが、そのうち、ドイツ系が7,367人、チェコ系が1,295人であった。

第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となり[4]、1920年4月、チェコスロバキア内務省令により、町の公式名称もクルマウからチェスキー・クルムロフとなった[5]

[編集] ドイツ系住民の追放

戦間期のチェコスロバキアでは、民族自決が認められず、少数民族の立場におかれたドイツ系住民(約300万人)の政治的不満が高まっていたが、1938年、ナチス・ドイツは、これに乗じ、チェコスロバキア領内のドイツ系住民の権利が侵害されているとして、いわゆるズデーテン地方の併合を強行した。これにより、チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となった[6]

1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北し、チェスキー・クルムロフは、独立を回復したチェコスロバキアに復帰した。しかし、ドイツ系住民については、ベネシュ大統領の指令(ベネシュ布告)により、チェコスロバキアの市民権と私有財産を剥奪、没収することが決定された(無慈悲政策)[7]

チェスキー・クルムロフの住民の多くはドイツ系であったため、ベネシュ布告により、多くの住民は市民権と私有財産を剥奪、没収され、故郷から追放する処分が下された[8]。神聖ローマ帝国の時代から続くドイツ系住民とチェコ系住民の共存の時代はこうして幕を閉じた。

[編集] 荒廃の時代

1945年以降、チェスキー・クルムロフは荒廃状態にあった。町の伝統的な住民の多くを追放したことは、チェスキー・クルムロフのコミュニティーにとって大きな打撃となっていた。町の住居の多くは、その主を失い、一時、無人となった。1948年の共産主義化により、城郭などの歴史的建造物が「封建時代の遺構」とみなされ、価値を否定されたことも、その荒廃に拍車をかけた。ようやく歴史的建造物が徐々に補修されるようになったのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降のことであった。

なお、1945年以降、観光地化が急速に進んだ1990年代前半までのあいだ、チェスキー・クルムロフの中心部は、ロマの人々が多く居住する地区となっていた。近年はチェコ人との同化も進んでいるが、現在も、チェスキー・クルムロフにおいて、ロマはチェコ人に次ぐ第二のエスニック・グループとなっている[9]

[編集] 歴史的景観の再評価

1989年のビロード革命以降、町の景観の歴史的価値が再認識されるに至り、建造物の修復が急速に進められ、町はかつての美しさを取り戻した。1992年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。現在はドイツ・オーストリアを主とする観光客に人気のある観光地となっている。

現在も、クルムロフ城の内部の修復などが進められている。1990年以降、毎年6月には、中世の領主であるロジェンベルク(ローゼンベルク)家の紋章にちなんだ「五弁のバラの祭典」が開催されるようになった。

2002年8月、町はヴルタヴァ川の大氾濫に見舞われた。


[編集] 見どころ

logo

チェスキー・クルムロフ歴史地区
チェコ

(英名) Historic Centre of Český Krumlov
(仏名) Centre historique de Český Krumlov
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(4)
登録年 1992年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
世界遺産テンプレートを使用しています
  • クルムロフ城 - 小さな町であるクルムロフの大きさに不釣り合いな大きさの城である。城内には1766年完成のバロック様式の劇場が保存されている。機械仕掛けの舞台装置を備える。こういった宮廷劇場が今も存在する[10] 。建設当時、劇場は年に三回だけ利用された(年に二度のみ、バロック音楽が一般公開されロウソク灯りの中でオペラが演じられた)。
  • 聖ヴィトゥス教会(Kostel Sv. Víta) - 15世紀のフレスコ画を持つ教会
  • かつて町に住んでいたことのある、20世紀初頭の表現主義の画家エゴン・シーレにちなんだ美術館がある。[11]

ボヘミアでも有数の古い修道院、ズラター・コルナ修道院がクルムロフから10キロの地点にある。クルムロフから30キロ離れた場所には12世紀に建てられたフルボカー城(後世にウィンザー城を真似て再建された)がある。

クルムロフはチェコ最大の国立公園シュマヴァ国立公園に近い。シュマヴァ山地はオーストリア・ドイツ国境沿いにある。

チェスキー・クルムロフのパノラマ
チェスキー・クルムロフのパノラマ

[編集] 文化

チェスキー・クルムロフは、重要な文化の中心地である。いくつものフェスティヴァルやイベントが毎年開催される。最もよく知られているのは、6月の夏至の週末に開催される五弁のバラの祭典(the Five-Petalled Rose Festival)[12]である。この際には、下町は歩行者天国になり、職人、芸術家、音楽家、地元の人々が中世の扮装をして、中世の町に模様替えした街頭へ繰り出す。ジョストフェンシング、伝統ある民俗舞踊などの多種な催しがされ、城、地元の公園、河岸などで民俗劇が上演される。フェスティヴァルの最後を締めくくるのは、城で打ち上げられる花火大会である。

1989年ビロード革命以後、一帯に80軒を超える飲食店ができた。多くのレストランは川沿いと城周辺に集中している。

[編集] 登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

[編集] 脚注

  1. ^ 通常、チェスキー・クルムロフの歴史が紹介される際には、現在、チェスキー・クルムロフが属するチェコの立場が反映される。そのため、この町が長く「クルマウ」と呼ばれていたことや、かつて住民の多数がドイツ系であったことは、あまり言及されない。また、この町が「荒廃の危機」に直面したことについても、(広い意味で)ナチス・ドイツ共産主義が責任を負うべきこととされ、1945年に共産革命前のチェコスロバキア政府により住民追放が行われた事実はあまり述べられない。例えば、NHKの世界遺産関連の番組のサイトは、クルムロフ城が荒廃した原因として「ナチスによる町の占領」と「共産党支配のもとでの伝統文化の否定」を挙げ[1]、ドイツ系住民の存在については指摘することなく「ドイツの占領と第二次世界大戦の終結を経て、一時期無人となった」[2]と解説している。現実には、ドイツ系住民を追放し、旧来のコミュニティーの大半を失ったことは、町の荒廃に決定的な影響を及ぼした。さらに、オーストリアの画家エゴン・シーレが、すでに20世紀初頭の段階において、この町を「死の街」と形容していたことも無視できない。すなわち、産業革命の波に取り残され、城主からも見放されていたこの町は、民族主義、ナチズム、共産主義の到来のはるか以前から、打ち捨てられる運命にあったのである(それゆえ歴史的景観がそのまま残るのであるが)。いずれにせよ、町の歴史におけるドイツ的要素に言及せず、受難の歴史をナチズムと共産主義に帰責する説明は、史実のすべてを語っていない点で正確でない。
  2. ^ ルドルフ2世は、町に自らの婚外子であるユリウスを住まわせた。なお、ユリウスには精神障害があったといわれている。詳細につき[3]を参照。
  3. ^ 中世のボヘミア王国における公用語は、第一公用語がチェコ語、第二公用語がドイツ語であった。その後、フスの宗教改革の時代に、ドイツ語及びドイツ人排斥の動きが強まるが、1618年の白山の戦いで新教勢力が破れ、チェコ人貴族が没落すると、ハプスブルグ家の支配の強化とともに、ドイツ語の影響力が強まった。現代のチェコでは、これ以降、19世紀の民族意識覚醒の時期までを「暗黒時代」と呼んでいる。もっとも、ボヘミアの山岳地帯(チェスキー・クルムロフを含む)については、民族大移動の時代(4世紀~8世紀)に東方から来たスラブ人(西スラブ族、のちのチェコ人)が山岳地帯にはあまり定住しなかったこと、中世になって、地元領主が町の開拓のため、多くのドイツ人移住者を招いていること、などから、歴史的にドイツ語及びドイツ人の影響が強かった。
  4. ^ 帝国が崩壊すると、1918年10月、プラハではチェコスロバキアが独立を宣言する一方、ウィーンでは、オーストリア共和国(当初の名称はドイツ・オーストリア共和国)建国のための会合が開かれた。チェコスロバキアはボヘミア全土を当然に自国の国土と考える一方で、ウィーンの計画によれば、クルマウはオーバーエスターライヒ州に含まれるはずであった。クルマウのドイツ系住民は、オーストリアへの帰属を宣言するが、翌月にはチェコスロバキア軍が町を占領するに至った。その後、1919年9月のサン=ジェルマン条約により、クルマウを含むボヘミアのドイツ語圏地域がチェコスロバキア領となることが確定した。
  5. ^ 同時期に、町の通りの名称の多くがドイツ語名からチェコ語名に改称された。通りの名称の変更の詳細につき[4]を参照。
  6. ^ いわゆる「ズデーテン地方」は、ズデーテン山地の周辺の地方にとどまらず、ドイツ系住民の多いボヘミアの山岳地帯を指す言葉として用いられてきたが、チェスキー・クルムロフは、広義の意味に用いられる場合においても、それに含まれないとされてきた。しかし、1938年のズデーテン地方の併合の際に、アドルフ・ヒトラーは、ブルノ(ブリュン)など、言語島を構成している地域を除き、チェコスロバキアのドイツ語圏のほぼすべてをドイツへ併合した。
  7. ^ チェスキー・クルムロフ以外に、大規模なドイツ系住民の追放が行われた都市としては、カルロヴィ・ヴァリブルノなどがある。チェコスロバキア政府が300万人を超える領内のドイツ系住民を追放することを決定した理由として、彼らの多くがドイツ併合を支持したこと、その存在が再びチェコスロバキアの安全保障上の脅威になりかねないこと、ポツダム協定が東ヨーロッパ地域のドイツ系住民の移送(ドイツ人追放)を容認したこと、などが挙げられる。もっとも、ベネシュは戦時中の在ロンドン亡命政権の時代から、戦後のドイツ系住民の追放を計画していた。ドイツ系住民追放の国内法的根拠となった1945年のベネシュ布告は、現在も法的に有効であるとされ、チェコ政府はこれを見直すことを拒絶しているが、チェコにおいても、ベネシュに対する評価は必ずしも肯定的なものではない。2004年3月25日、チェコ上院は、ベネシュ元大統領を顕彰する法案を圧倒的多数で否決している。
  8. ^ ドイツへの移送に先立ち、チェスキー・クルムロフを含むチェコスロバキア全土で、ドイツ系住民に対する暴力、即時退去命令、強制収容等の非人道的な措置がとられたとの証言がある。チェスキー・クルムロフにおける、暴力、強制収容等の証言につき、詳しくは [5]を参照。なお、ベネシュはドイツ系住民の追放に伴う暴力につき、これを罪に問わないとする大統領令を発している。もっとも、チェコ人によるドイツ人一般(チェコスロバキアのドイツ系住民を含む)に対する暴力的な対応の背景には、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの支配が過酷を極めたことがある(リディツェレジャーキにおける虐殺など)。また、住民の強制追放、被差別民族の強制収容などは、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる被支配地域では日常的な光景であったことも影響した。この点につき、1990年、ハヴェル大統領は、演説において、6年間に及ぶナチスの支配により、私たちも「病原菌」に感染した、と表現している。
  9. ^ チェコスロバキア政府は、ドイツ系住民を250万人以上追放したことにより、ボヘミアの旧ドイツ語圏地域の人口が希薄化していたことに対し、地政学的観点から人口の回復を図ろうとしていた。その一環として、この地域にロマの定住を奨励する政策が採られ、チェスキー・クロムロフにもロマの人々が多数定住した(1947年時点で約150人、1990年時点で約1300人)。多くの場合、移住者には、無人となっていた旧ドイツ系住民の住居が提供された。なお、もともとボヘミアには多数のロマが生活していたが、その大半がナチス・ドイツの民族政策の犠牲となり、戦後、ボヘミアに定住したロマは、主にスロバキア東部方面からの移住者である。1958年には、チェコスロバキア全土のロマの人々を対象に、馬車による移動生活を禁止する法律が制定され、以後、定住の強制が行われた。1945年以降のチェスキー・クルムロフへのロマの定住と現状については [6]を参照。
  10. ^ その他にスウェーデンドロットニングホルム宮殿グリプスホルム城にある。
  11. ^ シーレの絵画には「クルマウの風景(Krumauer Landschaft)」などクルムロフの情景を描いたものが多数あるが、本美術館は、シーレがクルムロフの景観を描いた絵画は所蔵していない。
  12. ^ 1968年に第1回の祭典を開催、その後中断を経て、1990年より毎年開催されている

[編集] 外部リンク


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