ジョゼ・モウリーニョ
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ジョゼ・モウリーニョ | ||
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名前 | ||
本名 | ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・ モウリーニョ・フェリックス |
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ラテン文字 | José Mario Santos MOURINHO Felix |
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基本情報 | ||
国籍 | ポルトガル | |
生年月日 | 1963年1月26日(45歳) | |
出身地 | セトゥーバル | |
身長 | 175cm | |
体重 | 不明
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監督歴 | ||
2000.8-.9 2001 2002.1-2004 2004-2007.9 2008- |
ベンフィカ ウニオン・レイリア FCポルト チェルシー インテル |
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ジョゼ・モウリーニョ(José Mourinho、本名:José Mário dos Santos Mourinho Félix、1963年1月26日 - )は、ポルトガル・セトゥーバル出身のサッカー指導者。2008-2009シーズンよりインテル監督。ポルトガル語での発音の正しい表記はジュゼ・モリーニョ。
目次 |
[編集] 来歴
父親のフェリックス・モウリーニョは元ポルトガル代表のゴールキーパーで、少年時代は父親にチームのスパイとして使われ、試合相手のチームの弱点などを探ってくる役目を与えられていたという。裕福な家庭の生まれで、使用人もいたようである。ポルトガルのユース代表に選出されたこともあるが、故障により、本人曰く「3流だった」選手生活を早々切り上げたため、プロとしてのキャリアはない。
[編集] 通訳・アシスタントコーチ時代
リスボンで一度、体育教師になるが、指導者の道を志してスコットランドで語学を勉強。ボビー・ロブソンがスポルティング・リスボンの監督に就任した際に通訳としてスタッフ入りし、以降厚い信頼を受けてロブソンとともにFCポルト、バルセロナといった名門クラブで通訳を務める。ロブソンがバルセロナを去った後、監督に就いたルイス・ファン・ハールのアシスタントコーチも経験した。
[編集] ポルトガル時代
そして、2000年/2001年シーズンにポルトガルの古豪ベンフィカの監督に就任した。不調だったクラブを建て直し、ライバルのスポルティングを3-0で破るなど順調なスタートを切った。しかし、会長交代劇などの内紛によりそのスポルティング戦までの8試合の指揮を執った後、自らリスボンを離れる。ちなみに、このシーズンのベンフィカは6位、クラブ史上最低の順位だった。
2001年/2002年シーズン、リーグ中位のウニオン・レイリアの監督に就任。クラブを19試合9勝7分3敗・リーグ4位の好成績に導く。
シーズン途中の2002年1月、当時不調にあえいでいた名門FCポルトに引き抜かれる。彼は残りの試合を15戦11勝2分2敗で乗り切り、低迷していた名門の順位を最終的に3位にまで上昇させた。ポルト監督就任時、彼は不遜にも「(中位に甘んじる)このクラブを来年チャンピオンにしてみせる」と宣言し、メディアの失笑を買ったが、彼はそれ以上の偉業を翌年以降成し遂げることとなる。
2002年/2003年シーズン、モウリーニョに率いられたポルトは快進撃を続け、スーペル・リーガ、ポルトガルカップのタイトルを獲得。さらにUEFAカップ決勝でもグラスゴー・セルティックを延長の末に下し、三冠を達成。指導者として国際的に注目され始めた。
さらに2003年/2004年シーズンには、圧倒的な強さでリーグ二連覇を成し遂げる。また、UEFAチャンピオンズリーグでも、決勝でASモナコを3-0で下し制覇。ポルトを17年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導き、より一層評価を上げた。
[編集] イングランド時代
2004-05シーズンからはプレミアリーグのチェルシーで指揮を執った。ここでも就任一年目から創立百周年の記念の年を迎えたチェルシーに50年ぶりのリーグ制覇をもたらし、リーグカップとともに二冠を達成。名将としての評価を不動のものとした。2005年/2006年シーズンも独走でプレミアリーグ連覇を成し遂げるが、優勝決定後のセレモニーで優勝メダルを惜しげもなく観客席に投げ入れるなど、ここでも物議を醸している。とはいえファンは大喜び。
2006-7シーズンはFAカップ、リーグカップの2冠を達成するが、DF陣の相次ぐ故障で冬の移籍市場でDFの補強を要求するモウリーニョと、補強をしようとしない経営陣との対立が表面化。「報道を忘れる必要がある」と否定する姿勢を見せず、同シーズン限りでチームの監督を辞するのではという憶測が流れた。モウリーニョ自身は「2010年の契約満了まで自分から辞める事はない」と明言。だが、クラブオーナーであるロマン・アブラモビッチの態度は不明瞭であり解任の噂が絶えなかった。そして2007年9月20日、チェルシーとの契約解除が公式ホームページ上で発表された。モウリーニョとクラブ側双方合意の上でのものだったが、事実上の解任であった。
[編集] チェルシー退団後
チェルシーを退団してフリーの身となった現在も各クラブから監督就任の打診を受けているが、モウリーニョが要求する高額な年俸がネックになっているとされている。2007年11月、イングランド代表がユーロ2008を予選敗退したことによって解任されたスティーブ・マクラーレンの後任候補としてモウリーニョが最有力候補であると報道された。
モウリーニョの代理人とFA幹部が接触した後、モウリーニョ、FAのバーウィック会長、FA幹部の3者が会談。モウリーニョは会談後、代理人を介して「素晴らしい仕事だとは思うが、熟考の末、イングランド代表監督候補になっても身を引くことにした。」と声明を発表し、代表監督就任を辞退した(なお、イングランド代表監督の後任にはファビオ・カペッロが就任した)。
2008年6月2日、解任されたロベルト・マンチーニの後任としてイタリア・セリエAのインテル監督就任が発表された。
[編集] 指導者経歴
- スポルティング・リスボン: 通訳 1992-1993
- FCポルト: 通訳 1994-1996
- FCバルセロナ: 通訳 1996-1997
- FCバルセロナ: アシスタントコーチ 1997-2000
- ベンフィカ: 監督 2000.8-2000.9
- ウニオン・レイリア: 監督 2001.8-2001.12
- FCポルト: 監督 2002.1-2004
- チェルシー: 監督 2004-2007.9
- インテル: 監督 2008-
[編集] 獲得タイトル
FCポルト
- スーペル・リーガ優勝 2回(2002-2003、2003-2004)
- ポルトガルカップ優勝 1回(2002-2003)
- UEFAカップ優勝 1回(2002-2003)
- UEFAチャンピオンズリーグ 1回(2003-2004)
チェルシー
- プレミアリーグ優勝 2回(2004-2005、2005-2006)
- FAカップ優勝 1回 (2006-2007)
- リーグカップ優勝 2回(2004-2005、2006-2007)
- コミュニティーシールド優勝 1回(2005)
[編集] 人物
家庭では二児の父で、夫人はドイツW杯出場国のアンゴラ出身。FCポルトでのチャンピオンズリーグ決勝試合直前、彼のチェルシーFC移籍が決定的となっていたことに起因し、ポルトの一部のサポーターから家族ぐるみで脅迫を受けるという災難に見舞われている。試合後、優勝セレモニーに加わらず足早にピッチを後にしたのは、その脅迫に対しての抗議行動であり、何より家族を案じていたからだというエピソードがある。
通訳業の経験から、五言語(ポルトガル語、スペイン語、カタルーニャ語、英語、フランス語)を操る。そのため、主要なサッカー圏において、言語上のコミュニケーションをとれない選手はほとんどいない。また、現在はイタリア語も修得しつつある。
地元クラブのヴィトリア・セトゥバルのファンである。
将来は、ポルトガル代表の監督に就任したいという。
元日本代表監督のジーコのファンであり、部屋に彼の写真が飾ってあるらしい。
[編集] 監督として
今ヨーロッパで最も注目を集める監督の一人。人心掌握術に長け、マネージメント能力は高い。研究熱心な戦術家であり、相手チームの弱点を執拗に攻め続け勝利をもぎ取ることを得意とする。報酬は年900万ポンド(約14億円)とも言われ、世界で最も給料の高いサッカー監督の一人である。その尊大な態度や挑発的な言動は賛否両論様々な物議を醸しているが、メディアによる興味や批判の矛先を自分に向けさせることで、選手を守るための一種のパフォーマンスではないかとの指摘がある。選手やファンからの信頼は非常に厚い。
記者会見時の傲慢な発言や挑発的な態度で、他チームのファンやイギリスのメディアには徹底的に嫌われているモウリーニョであるが、普段の姿はまったく違うらしく、スター選手が揃うチーム内からは厚い信頼を寄せられていると言われる。サッカーに対する姿勢は熱心で、ポルト時代から指導を受けているカルヴァーリョ、フェレイラはもちろん、キャプテンのテリー、ランパードら、その人柄を慕う選手も多い。伸び悩んでいたジョー・コールはウイングとして活路を切り開き、モウリーニョから多大な影響を受けたと語っている。
選手を大事にすることでも知られ、2006-2007シーズンの優勝を逃したアーセナル戦では、試合終了と同時にサポーター席の前に駆け寄って選手たちを何度も指さし、賞賛の拍手を促した。サポーターを大切にする一面もあり、2005-2006シーズンの優勝メダルは受け取ってすぐにサポーター席に投げ込んでいる。チェルシーのサポーターからは、クラブを退団してもなお根強い人気を得ている。
その反面、審判への執拗な批判発言が多く、ホームでも審判から贔屓されていないのはその為だと噂されている。元UEFA会長のヨハンソン氏は「駄々をこねる子供のようだ」と苦言を呈したことがある。
チェルシーでの攻撃スタイルである、中盤を省略して素早く前線にボールを送るカウンター寄りの戦術は、実は彼の好みではなかったという。
自分のチームが試合の土壇場などでゴールを決めた後には、大袈裟とも見えるほどの大きなガッツポーズやリアクションを見せ、喜びを爆発させる。
[編集] 語録
モウリーニョが何かを語る際は、その尊大な態度や挑発的な発言でメディアを敵に回すことが多いが、良い意味でも悪い意味でも注目の的になっている。
- 「我々チェルシーには最高の選手たちがいる。そして今、傲慢に聞こえたら許して欲しいが、最高の監督を手に入れた」
- 「私はヨーロッパチャンピオンである。私は特別な存在だ」 ―チェルシー監督就任記者会見で
- 「彼の言うとおりだ。現に昨シーズン、私の指揮するポルトがその10倍もの予算のマンUを破ったのだから」 ―資金が潤沢だからといって勝てるとは限らない、というマンU監督ファーガソンの挑発を受けて
- 「FCバルセロナは100年もの歴史の中でまだ1回しかヨーロッパチャンピオンになったことが無い。私はそれをたった1年で成し遂げた。さて、ライカールト監督は?」 ―04-05シーズン、古巣バルセロナとの対戦を前に
- 「私は常に勉強している。あなた方はいつも時代遅れだ」 ―英国メディアに対して
- 「相手チームの感情など知ったことではない。私はチェルシーを勝たせるためにやってきた」
- 「ベンゲルはチェルシーの覗き魔だ」 ―アーセナル監督、アーセン・ベンゲルとの舌戦。なお後日「流石に言い過ぎた」と謝罪
- 「教えは請うがCL(UEFAチャンピオンズリーグ)の決勝を0-4で負ける方法は知りたくない」 ―ヨハン・クライフが05-06シーズンのチェルシーを「結果主義」と批判したことに対して述べたもの。クライフが93-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝で0-4の大敗を喫した事を絡めた皮肉
- 「まずクラブに大事なのは、メンバーをできるだけ自国の選手で賄う事。その国の選手で賄えない時に他の選択肢を考えるべきだ。だから今クラブに必要だとされる自国出身の選手がいれば、その選手を是が非でも獲得しなければならない」 ―自身の「クラブ強化の理想」を問われて
- 「優勝した昨シーズンよりも選手たちを誇りに思っている。彼らは素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたヒーローだからだ。」 ―06-07シーズンの三連覇を逃したアーセナル戦の後に
- 「勝ち点90以上と言っておこうか(笑)」 ―監督就任初年度、「チェルシーを指揮するにあたっての目標は?」との記者の質問に対して。プレミアリーグの新米監督として見られていたモウリーニョはこの会見で失笑を買ってしまうが、ふたを開けてみれば勝ち点93という数字でリーグ優勝。
- 「来シーズンのチャンピオンズ・リーグで是非ともチェルシーと対戦したい。もし実現したら、何としてでも倒してみせるよ」 ―07-08シーズン。事実上解任された古巣チェルシーへ復讐ともとれるコメント
- 「私は特別なクラブに来た。偉大な監督になる目標を忘れることはないが、特別な人間にはなりたくない。私はジョセ・モウリーニョになりたいだけであって、いつも同じように情熱を持って、モチベーション高くやりたいだけだよ」 ―インテル・ミラノ監督就任会見にて。
[編集] 著書
- 『ジョゼ・モウリーニョ』講談社(2006)
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