サンディー・コーファックス
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サンディー・コーファックス(Sanford Braun "Sandy" Koufax, 1935年12月30日 - )はアメリカ合衆国の野球選手で、メジャーリーグの左腕投手。現役時代を通じてロサンゼルス・ドジャースに所属。
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[編集] 経歴
ニューヨーク州ブルックリンで、ユダヤ教の教徒の家庭に生まれる。姓の「コーファックス」は、幼年時代に実父が失踪したため、母親が再婚した義父アール・コーファックスのものである。彼は現役引退直後に出版した自伝の中で「私が父と呼ぶのは、アール・コーファックスのみである」と明言している。
少年時代から抜群の運動神経に恵まれ、当時はバスケットボールのほうが得意であった。シンシナティ大学よりバスケットボールでスポーツ奨学金を獲得する。大学時代に野球チームにも時々顔を出し、1955年に当時のブルックリン・ドジャースのスカウトの目にとまり、契約する。 当時の規定により、契約から2年間はメジャーに登録されなければならなかったため、マイナーリーグで腕を磨く機会を失う。皮肉にも、コーファックスの代わりにメジャーから外されたのは、後の名将トミー・ラソーダであった。
速球には光るものがありながら、コントロールの悪さから四球が多く、最初の6年間は鳴かず飛ばずで、計36勝をあげたのみだったが、捕手のノーム・シェリーから「もっと力を抜いて投げてみろ」という忠告を受け、与四球率を大幅に下げることに成功し、大きく成長する。1961年には18勝を挙げ、一躍チームの中心投手となる。
翌年にドジャースは本拠地を、典型的な投手有利の球場とされるドジャー・スタジアムに移し、そこで彼は一気に開花する。シーズン最初から3分の1を故障で棒に振るものの、復帰して間もない6月30日のニューヨーク・メッツ戦では自身初のノーヒッターを達成した。また、9月にはサンフランシスコ・ジャイアンツとの熾烈な首位争いを演じ、その中で彼も大車輪の活躍を見せる。この首位争いはプレーオフにもつれこみ、ジャイアンツに競り負けるが、シーズン防御率2.54でタイトルを獲得した。
1963年には投手の三冠王である最多勝(25)、最優秀防御率(1.88)、最多奪三振(306)を達成、名実ともにメジャーを代表する投手となる。同年にサイ・ヤング賞、MVPも獲得し、ウィリー・メイズやオーランド・セペダを擁するサンフランシスコ・ジャイアンツを相手に2度目のノーヒッターも達成する。またワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを4連勝で下し、ワールドシリーズのMVPも獲得。ヤンキースのヨギ・ベラは「何であの男が25勝できたのかは分かった。わからないのはなぜあの男が5敗したのかだ」とぼやいたと言われている。他にもピッツバーグ・パイレーツの主砲、ウィリー・スタージェルも「コーファックスの球を打つのはコーヒーをフォークですくって飲むようなものだ」と攻略の難しさを語っている。
1964年にも最優秀防御率のタイトルを獲得し、19勝5敗の成績を残すが、既に肩の故障に苦しみ始めていた。現在では常識となっている投手のアイシングを始めたのはコーファックスとチームメイトのドン・ドライスデール投手である。12試合の先発を回避しなければならなかったが、それでもフィラデルフィア・フィリーズを相手に3年連続となるノーヒッターを成し遂げる。
1965年9月9日のシカゴ・カブス戦では完全試合を達成し、4年連続でノーヒッターを記録した史上初の投手となる。同年のドジャースはワールドシリーズに駒を進め、2度目のサイ・ヤング賞を受賞する。同年のワールドシリーズ第1戦はユダヤ教最大の祭日であるヨム・キプルと重なったため、彼は安息日として先発を拒否し、特にユダヤ人コミュニティーの間で賞賛を浴びる。 第2戦では先発し、ミネソタ・ツインズに2-0のリードを許すものの、ドジャース打線が逆転し、シリーズは第7戦にもつれこむ。この時、コーファックスは第7戦に中2日で登板し、ツインズ打線を3安打完封に抑え、ワールドシリーズMVPを獲得する。シーズンでも26勝8敗、防御率2.04、当時のシーズン記録となった382奪三振を達成する。
1964年のシーズン前にドライスデールと共に大幅な年俸増をオーナーのウォルター・オマリーに要求し、初の代理人交渉を行う。この動きは後のフリーエージェント制度のきっかけとなる。
1966年にも27勝9敗、防御率1.73、317奪三振を記録するが、ワールドシリーズではボルチモア・オリオールズに敗れ、制覇を逃す。その直後に左腕の関節炎で31歳で引退を発表する。本人は「自分で自分の髪が梳けるうちに」と弁明した。引退後の5年間はNBCで解説者を務め、その後現在までドジャースの特別アドバイザーとして後進の指導を行っている。毎年キャンプ地、フロリダ州ベロビーチでのドジャースの春季キャンプにおいて現れ、野茂英雄や石井一久に指導したこともある。2006年現在も健在ではあるが、メディアへの露出を極端に嫌い、彼の伝記 "A Lefty's Legacy" がユダヤ系アメリカ人ライターのジェーン・リーヴィーによって書かれた時も、本人は取材を拒否している。なお、この伝記は彼の友人・知人が『コーファックスの許可のもと』著者のインタビューに応じて完成されたものである。
現役14年間の通算成績は165勝87敗、防御率2.76、2396奪三振、137完投、40完封である。1961年から1966年にかけて通算7回のオールスター出場を果たす。また、前述のシーズン奪三振382と通算ノーヒッター4回は、いずれもノーラン・ライアンに次ぐ記録である。
1972年には史上最年少(36歳)で野球殿堂入りを果たした。同年6月には彼の背番号「32」がドジャースの永久欠番に指定されている。
[編集] 獲得タイトル・表彰・記録
- シーズンMVP 1回:1963年
- ワールドシリーズMVP 2回:1963年、1965年
- 最優秀防御率 5回:1962年-1966年
- 最多勝利 3回:1963年、1965年-1966年
- 最多奪三振 4回:1961年、1963年、1965年-1966年
- サイ・ヤング賞 3回:1963年、1965年-1966年
- ベーブ・ルース賞 2回:1963年、1965年
- MLBオールスターゲーム選出 6回:1961年-1966年
- 完全試合 1回:1965年9月9日
- ノーヒットノーラン 4回:1962年-1965年
- 4シーズン連続ノーヒットノーラン達成:1962年-1965年
- 野球殿堂入り:1972年
- MLBオールセンチュリーチーム選出(左投手):1999年
[編集] 通算成績
年度 | チーム | 勝 | 負 | 防御率 | 試合 | 先発 | 完投 | 完封 | セーブ | 投球回 | 四球 | 三振 |
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1955 | BRO | 2 | 2 | 3.02 | 12 | 5 | 2 | 2 | 0 | 41.2 | 28 | 30 |
1956 | BRO | 2 | 4 | 4.91 | 16 | 10 | 0 | 0 | 0 | 58.2 | 29 | 30 |
1957 | BRO | 5 | 4 | 3.88 | 34 | 13 | 2 | 0 | 0 | 104.1 | 51 | 122 |
1958 | BRO | 11 | 11 | 4.48 | 40 | 26 | 5 | 0 | 1 | 158.2 | 105 | 131 |
1959 | LAD | 8 | 6 | 4.05 | 35 | 23 | 6 | 1 | 2 | 153.1 | 92 | 173 |
1960 | LAD | 8 | 13 | 3.91 | 37 | 26 | 7 | 2 | 1 | 175.0 | 100 | 197 |
1961 | LAD | 18 | 13 | 3.52 | 42 | 35 | 15 | 2 | 1 | 255.2 | 96 | 269 |
1962 | LAD | 14 | 7 | 2.54 | 28 | 26 | 11 | 2 | 1 | 184.1 | 57 | 216 |
1963 | LAD | 25 | 5 | 1.88 | 40 | 40 | 20 | 11 | 0 | 311.0 | 58 | 306 |
1964 | LAD | 19 | 5 | 1.74 | 29 | 28 | 15 | 7 | 1 | 223.0 | 53 | 223 |
1965 | LAD | 26 | 8 | 2.04 | 43 | 41 | 27 | 8 | 2 | 335.2 | 71 | 382 |
1966 | LAD | 27 | 9 | 1.73 | 41 | 41 | 27 | 5 | 0 | 323.0 | 77 | 317 |
通算 | 12年 | 165 | 87 | 2.76 | 397 | 314 | 137 | 40 | 9 | 2324.1 | 817 | 2396 |
[編集] 外部リンク
- baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、The Baseball Cube
獲得タイトル・記録 | |||||||||||||||||||||
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投 手 | ノーラン・ライアン · サンディー・コーファックス · サイ・ヤング · ロジャー・クレメンス · ボブ・ギブソン · ウォルター・ジョンソン · ウォーレン・スパーン · クリスティ・マシューソン · レフティ・グローブ |
捕 手 | ジョニー・ベンチ · ヨギ・ベラ |
内野手 | ルー・ゲーリッグ · マーク・マグワイア · ジャッキー・ロビンソン · ロジャース・ホーンスビー · マイク・シュミット · ブルックス・ロビンソン · カル・リプケン · アーニー・バンクス · ホーナス・ワグナー |
外野手 | ベーブ・ルース · ハンク・アーロン · テッド・ウィリアムズ · ウィリー・メイズ · ジョー・ディマジオ · ミッキー・マントル · タイ・カッブ · ケン・グリフィー・ジュニア · ピート・ローズ · スタン・ミュージアル |
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2 ドン・ディミータ / 4 デューク・スナイダー / 5 ノルム・ラーカー / 6 カール・フリロ / 8 ロン・フェアリー / 9 ウォーリー・ムーン / 14 ギル・ホッジス / 19 ジム・ギリアム / 20 リップ・レプルスキー / 22 ジョニー・ポドレス / 23 ドン・ジマー / 29 チャック・エッセジアン / 30 モーリー・ウィルス / 32 サンディー・コーファックス / 35 ジョニー・クリプスタイン / 38 ロジャー・クレイグ / 40 スタン・ウィリアムズ / 41 クレム・ラビーン / 43 チャーリー・ニール / 44 ジョニー・ローズボロ / 45 チャック・チャーン / 51 ラリー・シェリー / 53 ドン・ドライスデール / 58 ジョー・ピッグナターノ 監督 24 ウォルター・オルストン |
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12 トミー・デービス / 3 ウィリー・デービス / 53 ドン・ドライスデール / 6 ロン・フェアリー / 19 ジム・ギリアム / 25 フランク・ハワード / 32 サンディー・コーファックス / 16 ロン・ペラノスキー / 22 ジョニー・ポドレス / 8 ジョニー・ローズボロ / 14 ムース・スコーロン / 44 デック・トレースキー / 30 モーリー・ウィルス 監督 24 ウォルター・オルストン |
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21 ジム・ブリューワ / 43 ウィリー・クロフォード / 3 ウィリー・デービス / 53 ドン・ドライスデール / 6 ロン・フェアリー / 19 ジム・ギリアム / 41 ルー・ジョンソン / 11 ジョン・ケネディ / 32 サンディー・コーファックス / 5 ジム・ラフィーバー / 31 ドン・ルジョン / 15 ボブ・ミラー / 9 ウォーリー・ムーン / 23 クロード・オスティーン / 28 ウェス・パーカー / 16 ロン・ペラノスキー / 39 ハウィー・リード / 8 ジョニー・ローズボロ / 44 デック・トレースキー / 30 モーリー・ウィルス 監督 24 ウォルター・オルストン |