クールラント
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クールラント(英語Courland, ドイツ語Kurland)は現在のラトビア西部地方の旧名。
この地方は古来よりバルト語族のラトビア人(リヴォニア)の住地であったが、13世紀始めにドイツ系のリヴォニア帯剣騎士団に征服され、1237年にはドイツ騎士団領となった。このような状態が中世を通じて続いたため、支配者はドイツ人(とくにバルト・ドイツ人という)、被支配者はラトビア人という社会構造になった。クールラントは、近世、バルト帝国を形成していたスウェーデンと、ポーランド・リトアニア連合の盟主ポーランド王国間の緩衝国となった。大北方戦争では、スウェーデンに占領されたが、後にロシア帝国の影響下に入った。
1560年にドイツ騎士団がリヴォニア戦争によって解体すると、クールラントの地方長官であったケトラー家がクールラント公となり、ポーランド・リトアニア連合王国に臣従した。ポーランド王国の宗主権下で、この地域最大の都市ミタウ(現在のイェルガヴァ)に都を置いたケトラー家のクールラント公国は18世紀まで続いたが、クールラント公フリードリッヒ・ヴィルヘルム(在位1698年~1711年)はロシア帝国イヴァン5世(ピョートル1世の異母弟)の娘アンナ・イヴァーノブナと結婚、1711年に急死した。このためアンナはケトラー家の一族であるフリードリッヒを摂政として実質的な公国の主権者となった。しかも1728年ロシアではピョートル2世の急死によってロマノフ王朝男系は断絶したため、イヴァン5世の娘であるクールラント公妃アンナ・イヴァーノブナを女帝に推戴することとなった。アンナは公国をフェルディナント(在位1731年~1737年)に任せてペテルスブルクに赴いた。
クールラントは名目上、ポーランド王の宗主権下にあるとはいえ、ほとんどロシア帝国と同体となり、多くのバルト・ドイツ人がロシア帝国の顕官に昇った。その後、ケトラー家が断絶し、アンナ女帝の寵臣であるバルト・ドイツ人エルンスト・ビロンがクールラント公になったり、ポーランド王の一族が公位に就いたりしたが、1795年のポーランド分割によりクールラントはロシア帝国に併合され、公国は消滅した。その後、ロシア革命によって1920年ラトビアが独立し、クールラントはラトビアの一部となった。
スウェーデンの伝承・サガでは、エストニアと共にクールラント(リヴォニア地方)は、ヴァイキングの族王エリクによって支配され、9世紀にそれを失ったとあるが定かでない。