エルンスト・バルクマン
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エルンスト・バルクマン(Ernst Barkmann、1919年8月25日 - )、第二次世界大戦中のドイツ第三帝国の親衛隊員。最終階級はSS曹長(SS-Oberscharführer)。
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[編集] 生い立ち
1919年8月25日、バルクマンはドイツ北部のホルシュタイン州のキスドルフ (Kisdorf) の農家に生まれた。学校を卒業すると、家業を手伝うようになった。1936年4月1日、バルクマンは親衛隊特務部隊のSS連隊ゲルマーニアに入隊した。数ヶ月間の基礎訓練の後、バルクマンはSS一等兵(SS-Sturmmann)となり第3大隊へ配属された。
[編集] 第二次世界大戦
[編集] ポーランド戦からフランス戦
1939年9月、バルクマンはポーランド侵攻で、第14軍第VIII軍団の隷下におかれたSSゲルマーニア連隊の第3大隊第9中隊の機関銃手として従軍。いくつかの戦功を上げたバルクマンは、SS上等兵(SS-Rottenführer)に昇進したが、負傷により戦傷章(黒色)も授与されている。翌1940年のフランス侵攻にも従軍し、歩兵突撃章を授与された。
[編集] 東部戦線
1941年6月22日、ソ連への奇襲攻撃バルバロッサ作戦に従軍し、7月のドニエプルペトロヴスク付近での戦闘で2度目の戦傷を受け軍病院に入院するが、二級鉄十字章と戦傷章(銀色)を授与される。傷が癒えたバルクマンは、ネーデルラント義勇兵の訓練教官を務めた。1942年3月、バルクマンは本国で再編中であった第2SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒ第2装甲連隊第2中隊に異動し、III号戦車の照準手(砲手)となった。1943年、第三次ハリコフ攻防戦と呼ばれる一連の戦いの中で、バルクマンは多数の敵戦車を撃破し、照準手として有能であることを証明した。バルクマンはSS軍曹(SS-Unterscharführer)に昇進し、戦車長へと抜擢された。7月4日からのクルスクの戦いでは、後衛戦の最中に多数の敵戦車を撃破し、8月1日付けで一級鉄十字章が授与された。同月、バルクマンは第2装甲連隊第4中隊に転属、同時に新型戦車パンターD型を受領した。車体番号は221号車である。ダス・ライヒ師団は1944年1月まで東部戦線で戦闘した。この間にバルクマンはSS上級軍曹(SS-charführer)に昇進した。
[編集] 西部戦線 ~ノルマンディーの戦い~
1944年2月、ダス・ライヒ師団は補充再編のためにフランスのボルドーへ移動された。G軍集団の隷下におかれた師団は、予想される連合軍の上陸に対する貴重な装甲戦力として軍集団予備の扱いで再編を進めた。この際に、バルクマンはD型の問題点を改良されたパンターA型を受領した。車体番号は424号車である。1944年6月6日、連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始されると、ダス・ライヒ師団は7月初頭サン=ロー付近の戦闘に投入された。7月中の戦闘を通じて、バルクマンと第4中隊は多数のシャーマン戦車やスチュアート戦車、対戦車砲を撃破した。
1944年7月27日、バルクマンのパンターは、前日からエンジンの不調のために中隊から離れて単独だった。この日の早朝に修理は完了し、中隊と合流するために移動している途中、友軍の歩兵から、ラ・ロレー近郊にアメリカ軍戦車部隊が存在するとの情報を受け取った。[1]バルクマンはこの戦車部隊の前進を阻止することを決意し、サン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角を戦場に選び、そこから100メートルほど離れた道路脇のオークの木の下にパンターを隠した。[2]なお、この時の照準手はポーゲンドルフSS上等兵である。
やがてバルクマンから見て左手側から戦車部隊が前進してきた。先頭のシャーマン戦車が曲がり角に入ったところで、バルクマンのパンターは攻撃を開始、2両を立て続けに撃破した。損傷車両によって曲がり角の出口をふさがれたアメリカ軍は立ち往生した。混乱をついてパンターは砲撃を続行し、輸送車両やジープを次々と撃破した。その中には燃料輸送車も含まれていたため、街道上は炎と黒煙に包まれた。アメリカ軍戦車部隊は、攻撃を避けるために街道から外れて戦闘態勢をとり、一方で上空の攻撃機に支援を要請した。パンターが接近してきた2両のシャーマン戦車を撃破したところで、アメリカ軍機の爆撃が始まった。パンターは爆撃に耐えながら、さらに2両のシャーマン戦車を撃破、うち1両は炎上しつつも逃走した。しかし、間もなく敵戦車の砲弾が命中し、パンターの転輪の一部と空調装置が損傷、乗員2名が負傷した。バルクマンはさらに1両のシャーマン戦車を撃破したところでパンターを後退させ、後方の農家のかげに車体を納めると、急いで修理にとりかかった。幸いアメリカ軍がパンターを警戒して突っ込んでこなかったため、転輪を修理することが出来た。パンターは再び前進し、シャーマン戦車2両を撃破した。充分な損害を与えたと判断したバルクマンは後退を決定し、去り際にさらにもう1両のシャーマン戦車を撃破した。その後、バルクマンとパンターは中隊の2両のパンターと合流しクータンセへ向かった。
後にバルクマンの曲がり角と称されるこの戦闘で、バルクマンのパンターは、シャーマン戦車9両を撃破、1両を中破させ、さらに多数の車両を撃破し、アメリカ軍の前進を停止させた。7月28日、バルクマンはクータンセに突入、市街を占拠していたアメリカ軍部隊と交戦し、29日から30日にかけて敵戦車14両を撃破した。しかし、強力な連合軍の攻勢により、バルクマンのパンター以外2両が失われた上、バルクマン小隊は敵中に孤立する。31日、バルクマンはみずからのパンター424号車を爆破処分し、小隊員と共に敵中7キロメートルを徒歩で突破、8月5日にアヴランシェに到着して中隊と合流した。8月27日、ノルマンディーでのバルクマンの奮戦に対し騎士鉄十字章(Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes)の授与が決定された。[3]又、騎士鉄十字章授賞と合わせてSS曹長(SS-Oberscharführer)に昇進したバルクマンは、第2装甲連隊第4中隊の小隊長に抜擢された。この時の車体番号は401号車である。
[編集] バルジの戦い から 終戦まで
1944年12月16日からのバルジの戦いで、バルクマンは多数の敵戦車を撃破していたが、12月25日の戦闘で重傷を負い後送され、1945年1月25日に負傷章(金色)を授与された。1945年3月6日、東部戦線における最後の反攻作戦となる春の目覚め作戦に従軍したバルクマンは、セーケシュフェヘールヴァール近郊で4両のT-34戦車を撃破し、ダス・ライヒ師団として通算3,000両目の敵戦車撃破を達成した。しかしながら、作戦自体は無残な失敗に終わった。作戦開始時点でバルクマンの中隊は師団の中で唯一、定数である9両のパンターを装備していたが、ソ連軍のスターリン戦車によって3両が撃破された。わずか6両とはいえ貴重な装甲戦力であることに変わりはなく、同じ作戦に従軍していた第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラーのヨアヒム・パイパーSS大佐から、バルクマンに第1装甲連隊に合流するよう命令され、4月初頭にはオーストリアのウィーン南方まで後退する。4月12日、バルクマンのパンターは移動中に友軍の誤射を浴びた。[4]バルクマンと乗員は負傷し、パンターも損傷した。さらにこの日の夜、パンターは爆撃跡にはまり込み、牽引する余裕もなかったために爆破処分された。以降、バルクマンと乗員は歩兵として戦い、途上で第4中隊と合流して再びパンターを受け取ると、ドイツ降伏まで後衛戦闘を行った。5月8日、バルクマン達はバイエルンでイギリス軍の捕虜となった。大戦における最終的な戦果は、戦車82両(+α)、各種車両132台、対戦車砲43門であった。
[編集] 戦後
1947年12月18日、バルクマンは解放された。故郷のキスドルフに帰ると、エルンスト・シュムック・バルクマン(Ernst Schmuck Barkmann)と名を変え、消防署に勤務して署長まで昇進し、町の名士となる。現在、バルクマンはいまだその地で健在である。
[編集] 脚注
- ^ クータンセ攻略を担ったアメリカ軍第3機甲師団の部隊と推測される。
- ^ 現在の国道174号線、ないし172号線と推測される。また曲がり角からの距離は200メートルとの説もある。
- ^ 実際にバルクマンが騎士鉄十字章を受け取ったのは9月5日。
- ^ 歩兵のパンツァーファウストによるという。
[編集] 文献
- カール・アルマン『パンツァー・フォー』富岡吉勝(訳)、大日本絵画、1988年、ISBN 4-49920519-0
[編集] 外部リンク
- http://www.geocities.com/alkantolga/
- http://www.ritterkreuztraeger-1939-45.de/Waffen-SS/B/Barkmann-Ernst.htm
- http://www.ww2awards.com/person/28211