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ウリナリ!!過去の企画一覧 - Wikipedia

ウリナリ!!過去の企画一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウリナリ!!過去の企画一覧(ウリナリ・かこのきかくいちらん)は、日本テレビ系全国ネットで1996年4月~2002年3月まで放送されていた『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』の過去の企画である。

目次

[編集] ポケビ・ブラビシリーズ

1990年代後半、この番組からポケットビスケッツブラックビスケッツの2大ユニットが生まれ話題になった。両ユニットの成長や、お互いの進退を賭けた直接対決など、数々の企画は番組黄金期の人気を支えた。なお、ユニットの特徴やディスコグラフィーなどの詳細はそれぞれのリンク先を参照のこと。

[編集] 歴史

「ウリナリ!!」がまだ前身の「ウリウリ!ナリナリ!!」だった頃の1995年、音楽プロデューサー・南々見一也(南原)の企画でMckeeという女性ボーカルユニットを立ち上げる。そのメンバー選考に唯一漏れた千秋に内村テル(内村)は独活野(ウド)と3人でロックバンドを作ろうという話を持ちかける。ポケットビスケッツ(以下ポケビ)の始まりである。アジア進出を目指すMckeeのフィリピンライブにポケビも参加の了承を受けるが、あくまでもおまけという扱いを受ける。後にMackeeとポケビは東芝EMIを通して日本・フィリピン両国でのCDデビューを果たしたが、売り上げでは日本・フィリピンともにポケビ『Rapturous Blue』がMckeeに競い勝ち、Mckee企画はいつの間にか自然消滅する。

1996年、ポケビの2ndシングル『YELLOW YELLOW HAPPY』が発売された直後、突如として彼らの目の前に南々見が現れた。南々見はポケビ3人に対し「利き酒」「利き寿司」「利き麺」など次々と課題を課し、「できれば○○(ライブ、新曲発売など)、できなければ即解散(即解散は流行語にすると南々見は言っていた)」という条件で試練を与え続けていた。いくつもの課題の中で「利き酒」は特に困難な課題となった。しかしポケビは苦心しながらも次々と試練をクリアしていき、ポケビ3rdシングル『Red Angel』の発売にこぎつける。

1997年、Red Angelがヒットすると、それを見た一也の兄、南々見狂也(南原)がポケビを消滅させるためビビアン・天山(天野)を率いて登場する。この悪役3人がブラックビスケッツ(以下ブラビ)である。両者の歴史はブラビがブレイク中のポケビとエンディングテーマを賭けて対決したことに始まる。ポケビが勝てばポケビの曲が、ブラビが勝てばブラビ3人のカラオケ(デビュー後は新曲)がエンディングとなる。当初はブラビが連戦連勝して勢いがあり、ポケビはエンディングで曲の前奏しか流れないなど悲惨な目に会うことが増える。遂にはメンバー引き抜きを賭けたミニ四駆対決にも惨敗し、ポケビが千秋1人という状態にまでなった。追い詰められた千秋はメンバー復活を賭けた「綱渡り対決」に勝利するため木下大サーカスに頼み綱渡りの猛特訓をする。その努力の結果千秋は5人相手に勝利し、ポケビは劇的な復活を遂げる。これらブラビによる一連の流れが一部の視聴者の反感を買ってしまい、逆にポケビの人気を上げた。当然ブラビというユニットやメンバーに対する批判や苦情が殺到し、この2グループのファンも対立したのである。

そのブラビにも大きな問題があった。ポケビグッズに対抗して製作した木彫り像(売価5万円)20体である。これを売りさばくために飛込みでの販売等々苦労の日々(あまりの過酷さにビビアンは号泣し、南々見は「悪魔の木彫り像だ!」と叫んでいた)が続いた。やっとの思いで売りさばいた一行はビビアンの故郷・台湾でのデビューを決意するが南々見、天山の知名度は当時台湾では全く無いに等しく、ビビアンが懸命に台湾のレコード会社を回るも断られ続け、(ビビアンのソロでなら出してもいい等というところが多かった)涙を流す場面が多かった。そしてようやく決まったのがBMG JAPANである。ポケビが課した「利き酒」の課題を見事にクリアし、12月ブラビも『STAMINA』で念願のデビューを果たす。解散が懸かった売り上げのノルマも無事達成した。

1997年の暮れ、ポケビ・ブラビは同じ日に日本武道館ライブを行うことを決定。対立する両ユニットはこの武道館ライブを賭けて対決が行われた。「CDセールスの旅対決(築上神戸)」「綱渡り対決(浜名湖)」「ガソリンすごろく対決(浜松→東京)」の3つで争った。激闘の末、先にゴールにたどり着いたのはポケビ。一方、武道館の観客たちは自分の支持するグループの登場を願っていた。ポケビのファンはポケビの登場で大喜び、と同時にブラビファンはポケビにブーイングを送っていた。

1998年になると戦いはさらにエスカレート。様々な条件を付けて争われ、次第に争う内容も大きくなる。春先、両ユニットは新曲を製作し、その発売を懸けて「ガソリンすごろく対決(白馬御殿場)」が行われる。結果、接戦でブラビが勝利し、ブラビは『Timing』発売決定、一方のポケビは活動停止を迫られた上、完成していた『My Diamond』のマスターテープが6トンの鉄球に潰される屈辱を味わった。夏、ポケビは活動再開と失われた曲を復活するため全国で署名活動を行い(ポケビ100万人署名)、またガソリンすごろくで勝利したブラビも発売枚数にノルマが課せられるなど、それぞれの試練と戦っていた。1998年暮れ、両者が奇跡的に仲直り(という設定)し、第49回NHK紅白歌合戦に出場を果たしたのと同時にさらに人気が高まった。歌う6人の他に、よゐこ濱口有野)、K2(勝俣堀部)、藤崎奈々子の5人は応援団として紅白歌合戦に出場。内村は歌の後半に「ホワイティ」として再登場した。

1999年夏、ポケビは署名が集まったにもかかわらず実現に至らなかったMy Diamondを復活させるため、散々制約を課され苦しめられたウリナリ審査委員会(勝俣・堀部・河村アナ)とトライアスロンリレーでの全面対決を決意。ポケビは見事勝利し審査委員会は陥落、My Diamondは7thとして悲願の発売が決まる。ちなみに審査委員会への罰として「勝俣が萩本欽一に貰った服」と当時新婚である「堀部・河村の結婚指輪」が6トンの鉄球で破壊されかけたが内村の恩赦で放免となった。一方ブラックビスケッツは4th『Bye-Bye』でケディを加入させるものの、ノルマ(『STAMINA』の73万枚)を達成できず、南々見とケディが脱退。ブラビとしての活動が不可能な状態となる。その後ウリナリ通して大活躍したビビアンが番組を降りる。ブラビは南々見組ブランニュービスケッツとリニューアルを重ねるも以前に比べて全く振るわず自然消滅。またポケビも2000年に千秋がソロデビューしたのを期に活動を停止した。

2002年3月、ウリナリ最終回である「ウリナリ祭り」でポケビとブラビはウリナリの最終回だけあり、特別スペシャル復活ライブを行った。この時、ポケビはテル(内村)が、ブラビも狂也(南原)がその後の復活をうかがわせるような意味深な発言をして会場を去っていったが、その後はいっさいライブはしていない。現在でもインターネット上等では復活を願う当時のウリナリファンは多い。

[編集] キーワード

[編集] ポケビVSブラビ利き酒対決

1997年1月の初対決以来、ポケビとブラビのそれ以降の対決の原点となった。

[編集] ポケビVSブラビガソリンすごろく対決

1997年12月1998年3月の計2回開催。1回目は年末の日本武道館ライブをかけての対決、2回目は1998年4月22日にシングルを発売するための対決をした。

ルールは車が用意され、途中ガソリンが切れた場合、サイコロを振って「出た目の数×1リットル」しか給油できない、という条件で目的地を目指すというもの。前者は浜名湖から日本武道館まで、後者は白馬から御殿場東芝EMIの工場所在地)まで。

[編集] ポケビ100万人署名

上記のCD発売を賭けたガソリンすごろく対決にブラビに敗れ、『My Diamond』のマスターテープ処分を受け傷心していたポケビが、激励の葉書をくれる視聴者の為にも何とかしようとして始めたのがこのポケビ100万人署名である。

企画の開始から全国のポケビファンが自主的に署名を集める運動を起こし、ポケビもそのファンの所へ行き共に活動を行っていった。

そしてウリナリ審査委員が定めた期限日に、「最終日の集い」としてライブを慣行。そこで最終的な署名人数が発表され、結果見事178万4892人の署名を集めて新曲『POWER」』の発売へと繋がった。なお、集まった署名用紙は『Power』のプロモーションビデオの初放送の際に個人情報保護の観点を理由に番組側が処分した事がテロップで報告された。

又、この「最終日の集い」にはブラビも駆けつけ「ライバルが消えたら面白くないだろ」とブラビが台湾で集めた署名+南々見・ビビアン・天山の3名分を手渡し、この行動には会場のポケビファンも惜しみない声援を送っていた。

[編集] ポケビVSウリナリ委員会

トライアスロンで対決、ただし敗者は宝物をつぶされる。 ウリナリ委員会は、負け宝物をつぶされそうになったが、ポケビの思いで宝物はつぶされずにすんだ。

[編集] ブラビ深夜歌謡ショー

[編集] 芸能界サークル活動宣言!

ウリナリ初期は1コーナーとして、ウンナンの二人が毎回交互にサークル活動を展開していき、それについてスタジオトークを行うという内容であった。当時司会を高山理衣が担当していたが、その仕切りの下手さから毎回ウンナンにどつかれていた。その後企画の一本だった芸能人社交ダンス部が独立し、コーナー自体は自然消滅した。しかし消滅後もサークル活動をメインにした企画が数多く作られた。

[編集] ウリナリ芸能人社交ダンス部

1996年4月12日のウリナリの初回からすでに登場。

レギュラー番組時代の放送回数は全54回。現在でも日本テレビ系全国ネットで特番の『新・ウリナリ芸能人社交ダンス部』として年に1~2回程度不定期にスペシャル版で放送されており、現在までの特番も数えるとすでに放送回数はもうすぐ70回を超える。

歴代メンバー・種目などの詳しい紹介はウリナリ芸能人社交ダンス部を参照。

  • 黒田幕太郎のビバ!サルサ(休部中の社交ダンス部に変わるダンスチャレンジ)

[編集] ドーバー海峡横断部

1997年7月25日初登場以来、約2年にもわたってドーバー海峡のリレー横断を目的に行なわれていた。放送回数全43回。

1997年、内村、ウド、勝俣、有野の4人をメンバーとしてスタート。リレーに必要な人数(6人)を満たすため、濱口、藤崎を勧誘、入部させた。堀部は「鬼コーチ」として見守っていた。専用練習場で実力を高め、国内の大会出場・予行演習などを繰り広げたが、あまりに過酷な活動に勝俣、有野、藤崎が脱落。参加メンバーが足りず出場が危ぶまれたが、堀部が「鬼部員」に転身、さらに元テニスプレイヤーの神尾米、日本テレビアナウンサーの藤井貴彦が参加した。なお、一時元プロ野球選手の宮本和知も参加を表明していたが、相次ぐ故障で結局参加できなかった。

最終的に1999年8月31日「内村、濱口、神尾、藤井、堀部、ウド」(横断時のリレー順)の6人(+マネージャー千秋)で16時間37分を掛けドーバー海峡の横断に成功しチャネルスイマーとなる(England/France - One Way 260組目)。 横断達成記念に堀部圭亮デザインのオリジナルリングを作成。内村は滅多にアクセサリーを付けないがこのリングだけは左薬指に付けており、ファンに混乱を呼んだ。2年越しの企画だった。

ウリナリ最終回である「ウリナリ祭り」において「ウリジェクトX(プロジェクトXのパロディの先駆けであった)」としてその歴史が紹介された。ウリジェクトXのタイトルコール・司会担当は内村光良。 なお、最後の出番が終わったときに内村が発した「もう泳げない!何度やめようかと思った!」という魂がこもった発言は、他の企画でもしばしば話題に上がり、そのたびに内村は赤面していた。

この時の専用練習場は、放映時に秘密とされていたが、現在の日本テレビ汐留新社屋の予定地に建てられていた。建物自体も、近くを通る首都高速道路からわずかだが見えていた。同時期にやっていた電波少年の企画物もその隣で行われていた。
ドーバー海峡横断部
the Channel Swimming Association(CSA) ドーバー海峡横断公認団体

[編集] マッターホルン(→赤岳)登頂部

2000年に放送。全17回。ドーバー海峡横断部のメンバーで今度はマッターホルンの登頂を目標とし山岳登山の訓練を行っていた。しかし退部を賭けたテストとして行った赤岳を誰も時間内に登りきることなく棄権。登山への挫折感の中、新たに赤岳登頂部を結成。目標を赤岳に定め無事達成できたものの、それ以後マッターホルンへの夢を再び持つことはなく終了した。
マッターホルン登頂部

[編集] 芸能人お見合いサークル

[編集] 勝俣・本上愛の行方

1996年、当時はもてないキャラの上、結婚もしていなかった勝俣による本上まなみとのお見合い企画。「手をつなごう」「シチューをプレゼント」「名前を呼ぼう」「完結編」の4つ含め、5回にわたり放送された。各回のデートの最後には勝俣がポエムを贈っていた。テーマ曲はスピッツチェリー』。

[編集] お見合い濱口編

1997年に2回放送。藤崎奈々子が初登場。出川哲朗、濱口優と藤崎がお見合いを行い、藤崎が選んだのは濱口だった。よゐこがラジオ放送の仕事のため福岡へ移動する際、濱口と藤崎は2人でヒッチハイク岡山ラブホテルに宿泊付き)をしながら移動した。が、その後、結局進展はなかったとのこと。藤崎はその後レギュラーとなり活躍する。

[編集] 内村コーラス部

[編集] 芸能人カヌーサークル

[編集] カヌー部

1999年放送。メンバーは内村・ウドの2人のみ。すべてが失敗に終わり、1回限りで終了。

[編集] 芸能人ダイビングサークル

[編集] 芸能人アイスホッケー部

96年10月18日O.A。割と本格的で、実戦形式で練習も行った…が、小学生チームにまったく歯が立たず、無様な姿をさらしたことが影響してか視聴率が極端に悪く、1度きりの放送で終了となった。しかし重要なのはここでホワイティが初登場したということ。そして、「ホワイティが入った部は短期で終了」「コーナー潰しのホワイティ」というジンクスが始まるきっかけとなった企画でもある。

[編集] 南原宇宙ロケット研究部(NANSA)

ペットボトルロケットを作り、大会に出場したが、無残な結果となってしまった。

[編集] ウド部

その名の通りウドを中心にした部…というのはウソで、正式名称は「ウド実験部」。その名の通り(?)ほかのメンバーがウドで遊び倒す部だった。寝たらなかなか起きないウドが起きるかどうかを試すため、寝ている隙にキムチを飲ませたり、プールの上にウドを置いたりした。この企画は1997年7月4日放送の1回だけで終了。

[編集] ポエム部

が得意な勝俣を中心にした企画で、詩集を作ることが目的。だが1998年2月13日の放送の1回だけで終了。

[編集] まぐろ部

よゐこの初の部長となった企画だったが、2002年1月、1回だけで終了。

[編集] 南原写真部

1997年初登場。放送回数は2回。クリオネの撮影に成功し、観光ポスターに採用されたこともある。最も良い写真に勝俣が詩を加えていた。

[編集] ウリナリ声優部

誰もが認めるいい声の天野が部長となった。練習の後、金曜ロードショーで放送された『マーヴェリック』に部員全員で出演。なかなかの盛り上がりだったが、ホワイティが入部してしまったのが運のツキ。「ホワイティが入った部は短期で終了」というジンクスがまたも現実のものになってしまった。

[編集] ウリナリマーチングバンド部

2000年に3回放送された部。マーチングバンドに挑戦し、横浜ドリームランドでのマーチに加わって披露した。小倉久寛もマルチタムとして参加した。
ウリナリマーチングバンド部

[編集] 男子シンクロ挑戦部

末期新男性レギュラー陣の最初の企画。2001年10月から3回放送された。例えかたによっては、旧男性レギュラー陣の最後の企画であった「ウリナリ7」に代わる企画ともいえる。

[編集] 女子柔道部

2001年1月19日から5回放送。当初はウンナン2人のサークルだったのだが、内村が途中で裏切り「虎の穴」を設立、南原が率いる女子柔道部と対戦した。「虎の穴」のメンバーは神戸みゆき三津谷葉子小野愛。ちなみに、神戸が登場したときはセーラームーンも披露された。(ウンナン2人以外の男性陣は悪役扱い?)

[編集] カラーガード

2001年11月から5回放送。グラチャンバレーの開会式演目として準備された。苦労した練習の成果で本番では誰一人、失敗したレギュラーはいなかった。

[編集] 狂言

かなり末期の企画。部長は南原、講師は野村万蔵が担当。2002年1月25日から7回にわたり放送された。当時まだ無名だった北陽が、ゴールデン初レギュラーという触れ込みで登場した。なお、参加した南原と小池栄子は後に、野村万之丞が芸能考証を務めた大河ドラマ義経」に出演している。

[編集] 南原エキストラ部

南原と原田芳雄が日テレのドラマ「透明人間」にエキストラとして出演した。1996年5月に1回だけ放送。

[編集] ウリナリカラオケサークル

[編集] スポーツ実況部

1997年放送。滑舌の悪い南原のための企画で、スポーツ実況小川光明アナに学んだ。最初に藤井恒久アナと実況対決をすることになり、部員たちは若手でバラエティ担当だった藤井を完全に侮っていたが見事に惨敗する。グラチャンバレー放送の副音声を担当。何度か名前を間違えるなどのミスはあったものの、一時主音声で流されるなどまずまずの成果を残した。

[編集] ギャグ部

1996年放送。南原が千秋とよゐこに新ギャグを教えた。千秋には「も~う!一生懸命やったのに!!」というギャグを教え、よゐこには「すべってごめんね」「はいはいはいはいすべりましたよ」を伝授。大学入試の合格発表会場へ向かい、不合格だった学生に対して励ましを込めてこれらのギャグを実践した。

[編集] その他

[編集] 千秋 VS ビビアン三本勝負

1996年9月6日放送。当時、ポケットビスケッツのメインボーカルだったのと同時にウリナリ!!のレギュラーで、まだ20代前半で幼いキャラだった千秋、ウリナリ!!の第一期レギュラーで千秋と同じくまだ20代前半で後にブラックビスケッツのメインボーカルとなるビビアン・スーとがどちらがウリナリのヒロインとしてふさわしいかということでさまざまな対決をした。

内容は衣装、ピアノ、料理の3部門で行われた。衣装対決では千秋のファッションセンスは当時早すぎた感が否めなく、普通にドレスアップしたビビアンに惨敗。ピアノ対決では千秋はピアノを得意としていて自分の腕前を惜しみなく披露するも、ビビアンが片手で弾いた季節はずれの『ジングルベル』にあっさり完敗。料理対決では千秋はその独特の料理センスでシチューに大量のチョコレートを投入、当然味は激マズで審査員たちの不評を買い、無難に作り上げたビビアンに負ける。内村が審判役で勝敗を決めるのだが必ずビビアンに軍配を上げていた。以後これはパターン化する。

また後日「千秋VSビビアン花嫁修業対決」も行なわれた。この対決シリーズは千秋をメインとするポケビに対抗し、ビビアンをメインとするブラビというグループを作り上げる布石となった。

ちなみにポケビのプロデューサーであったパッパラー河合もビビアンのファンであり、千秋よりビビアンのほうがかわいいとぼやいてそのたびに千秋の怒りを買っていた。

[編集] もてないブラザーズ

1997年、内村と勝俣の2人は当時結婚していなく、「もてよう!」ということで結成された。2人でピアノを習い、女性にもて結婚することを目指す。松任谷由実のライブに参加し大ヒット曲の『春よ、来い』を(片手で)キーボードで演奏する(1997年)。また、リサイタルコンサートを開きビートルズの『Let It Be』をオーケストラをバックに演奏した(1998年)。1999年12月31日~2000年1月1日「ウリナリ年越しライブ」で「元もてないブラザーズ」として、ピアノを(両手で)演奏。二人での演奏はこれが最後となる。内村は現在もたまにバラエティでピアノ伴奏が必要な場面で弾くことがあるが、この企画で覚え始めたものである。

一方勝俣はかなり苦手意識を持っていたらしく、「目の奥が膿んだ」という名言を残したり、練習中に逃亡を図ったこともある。その時に勝俣を引き止めるべく内村が発した「辞めんな!」という言葉が、後に「ランキングキャラクターライブ」で登場する「辞めんなマン」へと繋がっていった。

[編集] 天然ブラザーズ

南原・濱口によるサックス演奏。もてないブラザーズの成功を受け、また2人の親交を深める企画の一環として始められた。実際に岐阜県明宝村(現郡上市)で開催されたイベント、めいほう高原音楽祭でアンコールを担当しジャズナンバー『テキーラ』を演奏。憧れの日野皓正との共演を果たした。

[編集] 濱口改造計画

地味なキャラクターだった濱口をどうにかしようと、自己啓発セミナーに参加させるなどした。その結果、アグレッシブなキャラに変化すると同時に、南原に苦手意識を持っていることが明らかになった。

[編集] 南原濱口なかよしの旅

仲が悪い(らしい)南原と濱口が手錠で繋がれ、旅をするという企画。そして、二人の絆は深まった…はずが、結局は南原の「生理的に嫌い」の叫びで幕を閉じたのだった。

[編集] 鈴木任紀結婚への道

1999年2月12日放送。コーナー題字は南原。ポケビでの「まごころ」のギター練習で訪れた軽井沢で出会った「順子さん」にウドが一目ぼれして、順子さんを探しに行く。順子さんの友人を通じて連絡をとって、待ち合わせし、 21:30に合う約束。時間を過ぎて列車出発の時間を迎えてしまう。列車が出発、駅ホームに駆け込んでくる順子さんの姿を発見!しかし、残念ながら「ごめんなさい」とふられる。

[編集] ウリナリしりとり/もってこいしりとり

ウリウリナリナリからの企画。内村チームと南原チームに分かれ、団地や商店街などを舞台にした「借り物しりとり」。

[編集] TOP of THE URIナリキリ

毎回1人のレギュラーがモノマネで他の有名人に扮し、観客の判定で合否が決められる。合格ラインに達するとグランドチャンピオン大会への出場権が与えられた。5人ノミネートされたうち、4人がグランドチャンピオン大会に進出した。司会は内村(本人挑戦の回では南原、グランドチャンピオン大会では天野)と巴千草。

なおノミネートされたネタは、広瀬香美(南原、歌声は千秋)、広末涼子(内村、当時のNTTドコモのCMのパロディ)、牧瀬里穂(高山理衣、当時の味の素のCMのパロディ)、尾崎豊(天野)、華原朋美(千秋)の5つ。

[編集] 新世紀ナヴァンゲリオン

南原メインの新しいギャグを生み出そうというコーナー。形態としては『新世紀エヴァンゲリオン』のパロディーという形をとっていた。テーマソングは本家の主題歌『残酷な天使のテーゼ』に引っ掛けて『残酷な笑いのテーゼ』。インストラクターとして、上島竜兵がゲスト出演した。

[編集] ウリナリ厄払い

[編集] ホワイティのX'mas'98ザッツ・ウリナリテイメント!!

1998年の年末スペシャル。勝俣のフルマラソン・ウドのギター披露・全員合唱などが開催された。

[編集] 濱口VS神様五番勝負

[編集] ウリナリ王子決定戦

[編集] 神様VSウリナリ王子

[編集] よゐこリストラ対決

番組では一番影が薄い(?)よゐこのうち、負けた方がレギュラーから追放されるというコーナー。結果は濱口の勝利、そして有野がレギュラーから追放されてしまった。しかしその後、有野は女装して番組に引き続き出演、女装はしばらくの間続けられるはめに。

[編集] ウリナリブライダルプロデュースカンパニー・メモリーブライダルプロデュース

2000年10月27日11月3日11月17日11月24日、2001年1月26日2月2日2月16日放送。結婚評論家・メモリー南原(南原清隆・ナンチャン)、独身営業マン・内村光良(ウッチャン)が司会のコーナー。結婚式をまだ行っていない一般人夫婦の結婚式を番組に募集してきた一般人の夫婦をメモリーがプロデュース。ちなみに、このメモリーは後にメモリーキャッツとして活動する。

[編集] もてない王対決

[編集] AランチVSBランチ対決

単発コーナー、ウンナンの二人がそれぞれの大好物を作り、某食堂に発売し人気を競う。

[編集] ウリナリ遊ぼっちゃゲーム

[編集] ウリナリ新女王決定戦

1997年秋、1998年春と2回行われた企画。当時の女性レギュラー陣である千秋、ビビアン、藤崎奈々子の3名によって争われた。対戦形式やルール、審査方法は「千秋vsビビアン三番勝負」を踏襲した内容になっていた。結果は2回とも藤崎の優勝に終わっている。

[編集] ウリナリ昇級会

[編集] グラチャンプロデュース

日本で開催し、日本テレビが中継するバレーボール世界大会、グラチャンのプログラムを同局ウリナリが企画するモノ。もし失敗したら、さらに半年早く番組が打ち切られるかもしれなかった。

[編集] グラチャンクイーン決定戦

そのバレーボール世界大会のキャンペーンキャラクターの選考会でもある。女王決定戦にも似ている。

[編集] ウリナリ肉体年齢対決

[編集] ウリナリ大走査線

[編集] ウリナリ決死の食材探し対決

[編集] ウリナリ泥ダンゴ王

[編集] ウリナリ真実の部屋

[編集] ウリナリオールスターズ

[編集] ウリナリ7

旧男性陣レギュラーとしての最後のコーナー。旧男性陣レギュラーの内村・南原(ウンナン)、天野・ウド(キャイ~ン)、勝俣・堀部(K2)、有野・浜口(よゐこ)の8人のうち、1人のみ補欠となって、のこりの7人のみでさまざまなことに挑戦するという企画。男性陣のみのコーナーは新レギュラーに変わった後も「ウリナリ男子シンクロ部」と変えた上で行われた。

[編集] 公約実現ショー

ウリナリ解散総選挙後、当選した方が公約を実現するコーナー。

[編集] 奪三振王への道

1999年8月27日放送。スポーツ好きの南原が立ち上げた野球企画。メンバーは南原のほかに、勝俣、有野、藤崎。

[編集] 黒幕&愛人「東京LOVE」

黒幕に扮する内村光良・愛人に扮する藤崎奈々子のデュエット。

実はこのコンビは最初に登場した時は内村と藤崎のコンビではなかったが、いつの間にか愛人役は藤崎に交代。

[編集] ウリナリ消防団

'96. 11. 15O.A。ホワイティがリーダー。実際に消防団に一日入団して消防技術を学んだが、ジンクス通り一回で終了。

[編集] ソルジャーEPISODE1

2000年2月18日に放送。1回で終了。

[編集] ウリナリ!! マドンナ募集

「三十路を迎えいまだ彼女のいないウド鈴木。そんなウドに愛の手を!」ということで、18才以上の女性のマドンナを紹介してあげる、ウド鈴木の恋愛を応援する企画だった。2000年ごろ放送。

[編集] ナンチャンエンジェルウッチャンデビル

子供が大好きな天使・ナンチャンエンジェルがとしていたずら好きな悪魔・ウッチャンデビルの妨害に遭いながらも子供の親探しを手伝う。

[編集] 南原愛犬同好会

[編集] ルアーフィッシング同好会

発破釣太郎(内村)登場。

[編集] 魚雷ゲーム

[編集] 街角クイズ

[編集] アトランタオリンピック特別企画 世界に挑戦

[編集] ウォン・フェイフェン

[編集] 内村インラインスケートでマラソン

[編集] めざせパーフェクトボウリング

内村とビビアンがプロボウラー・中山律子の助けを借りながらパーフェクトボウリングに挑んだが、結局達成はされなかった。

[編集] キャイ~ンマイカー購入おめでとう企画 春の交通安全ラリー大会

[編集] ウリナリ!!三年目突入レギュラーコンビ実力試し大会(1997年)

[編集] 仲間を救え!!心を一つに大会

[編集] 有野よおれを越えてみろ!!

[編集] ビビアン&ウドの日本語上達計画

[編集] グリーンマンスペシャル・占い・ドームでキャンペーン・キャデラックを緑に

[編集] 水を飲まない対決

[編集] ウリナリが始まって4年と3ヶ月記念 芸人だってもらいたい!ボーナス争奪!新コンビお笑い大会

1999年8月放送。深夜2時からの生放送だった。女性陣以外はルーレットの結果、以下の期間限定コンビに。最高視聴率をとったコンビには特典が!・・・そして、最低視聴率をとったコンビには罰ゲームとなった。

  • ナツミカン「僕達の叫び」(南原・堀部)
  • 全部阪神巨人「超能力」(天野・有野)
  • うんこふんじゃったーズ「うんこふんじゃった事件!!」勝俣・濱口
  • ちビふ「OL無駄話」千秋・ビビアン・藤崎
  • タバスコ兄弟「スチュワーデスって大変だあ」内村・ウド

[編集] ウリナリゼミナール

2000年~2001年放送。ゼミナール理事長はホワイティ、アシスタント松本志のぶ(日本テレビアナウンサー)授業内容は、平成教育委員会とほぼ同じ。旧レギュラー陣末期のコーナーでもあった。

[編集] 他のナンチャン(南原)企画

[編集] 南原再生工場

1999年2月26日9月10日、計4回放送。南原がウリナリメンバーになんとか輝きを与える為に立ち上げた企画。メンバーは南原の他に、勝俣、有野、藤崎。

[編集] 南々見組 DANCE TENJIKU

[編集] 他のウッチャン(内村)企画

[編集] 内村スーパーイリュージョンデート

[編集] ニラ・バラレンタル ~仕事クダサイ~

[編集] ウリナリ維進軍

内村が番組を一新させたいと、新たに2人の女性タレントを連れて反旗を揚げ、南原が率いる「正規軍」と対戦したが惨敗、ちなみに濱口も維新軍に寝返っていた。

[編集] ウリナリ大会議

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1998年から毎年、年1~2回開会されていた(全9回)。その後、ウリナリの恒例単発企画となった。その他のことはこちらを参照。コントライブコーナー以外はロケ収録が中心のウリナリではめずらしい麹町(当時)日本テレビ本社屋スタジオからの企画であった。「URINARI SAMMIT」という英字サブタイトルもついていた。議長は全て河村アナウンサーが担当。

[編集] 1998年1月30日放送

記念すべき(?)第1回目の出席者はウッチャンナンチャン(内村・南原)、キャイーン(天野・ウド)、K2(勝俣・堀部)、よゐこ(有野・浜口)、千秋、藤崎奈々子の10名だった(この当時、まだビビアン・スーはウリナリのレギュラーであったが、スケジュールの関係で出演していなかった)。議長は河村アナ。第1回の議題は「レギュラーが多すぎる」。「タバスコ・ロシアンルーレット」が初登場。トマトジュースのなかの1つにタバスコ入りが混じっており、そのタバスコを選んでしまった人がしばらくレギュラー補欠扱いとなるルール。初回のレギュラー補欠はウッチャンナンチャンの内村。その後、内村は大半の回で何度やっても補欠となるはめになる。内村は補欠期間は番組タイトルから名前が消えた上に(ウッチャンナンチャンのウリナリ!!→ナンチャンのナリ!!)、出演料も無しとなっていた(もちろん内村が補欠になった時はこの次の回以降も毎回そうなった)。

[編集] 1998年4月24日放送「四年目突入記念春のウリナリ大会議」

メンバーは前回の出席者にビビアン・スーを加えた11名。やはり同じく「レギュラーが多すぎる」という議題で行なわれた。恒例の「タバスコ・ロシアンルーレット」。やはり、敗者はウンナン内村。

[編集] 1998年10月23日放送「ウリナリ秋の大会議」

第3回ウリナリ会議。年末特番「ザッツ・ウリナリテイメント」の開催がここで発表され、そこで行う演目について話し合われた。また、この会議の前に放送された社交ダンス部特番における堀部、濱口、有野の成績不振が議題に上がり、3人の運気を試そうという名目で、いつもの「タバスコロシアンルーレット」が行われた。このロシアンルーレットには堀部、濱口、有野の3人と、タバスコロシアンルーレット2連敗中だった内村が参加。有野がタバスコジュースを飲んでしまい、後日厄払いとして滝に打たれる羽目になった。

[編集] 1999年1月22日放送「新春ウリナリ大会議」

この回は「レギュラーメンバーの向上を考える」「年末年始の番組について反省」というのが主な議題で行なわれた。タバスコロシアンルーレットでは、この回ではよゐこの濱口が初めて敗北した。罰ゲームとして濱口は、この会議において年末特番企画進行中での怠慢が発覚したウド(ギターの練習をさぼってキャバクラで遊んでいた)と共に滝に打たれる羽目になった。なお、ウリナリ大会議でのビビアンの出演はこれが最後となった。

[編集] 2000年1月28日放送

五回目もやっぱりいつもの「レギュラーが異常に多すぎる」(当時は、南原・内村・天野・ウド・有野・浜口・勝俣・堀部・千秋・藤崎・神尾・山川・ケディの13名だった)という議題。当時、正式にレギュラーとして認められていたのはウンナンのみ。13人のレギュラーは番組への貢献度を一人一人がアピールした。そして結局、やっぱりいつもの「タバスコロシアンルーレット」を行ったが(「負けたらADに降格」という罰ゲーム付き)、この回は全員がジュースを飲み干し平静を装ったため、誰がタバスコ入りジュースを引いたか分からなかった(が、その後、勝俣が凄まじい量の汗をかき、勝俣のグラスもタバスコ臭かったため、タバスコジュースを飲んだのは勝俣であったことが判明。しかし「全部飲み干せばOK」というルールだったため、AD降格は免れた)。

[編集] 2000年4月28日放送「ウリナリ!! 5年の奇跡」

この回はいつもの「タバスコ・ロシアンルーレット」はやらず、当時のレギュラー全員でウリナリの過去の5年間を振り返った。

[編集] 2001年4月20日放送「『ウリナリ解散総選挙』について」

この回の議題は「ウリナリ解散総選挙」について。この回はいつもの「タバスコ・ロシアンルーレット」はやらず、いつもよりは若干まじめに行われ、時折、いつも通り笑いを交えながら行われた。当時メンバーは内村、南原(ウンナン)・天野、ウド(キャイ~ン)・勝俣、堀部(K2)・有野、濱口(よゐこ)・千秋・藤崎・山川の11人。そもそもの発端はこの年3月23日放送のウリナリ7(セブン)。ウリナリ男性レギュラー陣が8人→7人・1人補欠になっていろんな相手とさまざまな対決をする企画だったが、その事実上の最後の対決で旧男性レギュラー陣7人(+補欠1人)が負けて敗北、ウリナリセブン解散。これが “ウリナリ解散総選挙” 実施となってしまうきっかけであった。男性レギュラー陣の存続をかけた解散総選挙はまずインターネット(当時すでにウリナリの公式サイトはあった)投票で上位8組を抜粋し(旧男性レギュラー陣は4組全組この時点ではまだ残っていた。旧男性レギュラー陣4組 + 新たにウリナリ男性レギュラー陣になりたがっていた男性お笑いコンビ4組)、その後約1ヶ月間の間、上位となった8組(全16人)がウリナリが放送されている地域のそれぞれ全国各地に選挙活動をしに行き、必死に(旧男性レギュラーは残りたい!、男性レギュラー候補は入りたい!と)アピールするというものであった(その他投票結果等についてはウリナリ解散総選挙参照されたし)。レギュラーはポケビとブラビをはじめ、スペシャル・未公開etc...映像、過去のなつかしのお宝映像も見ながら振り返り、旧男性レギュラー陣8人はついに出馬を表明、各自レギュラー出演番組が1本なくなるか、継続出演するかの運命を決めた。

ウリナリ全盛期を支えた1人でもあり、ポケビの活躍で視聴率に貢献した開始当初からの初代出演者である千秋がウリナリにレギュラー出演した最後の回となった(次週の総選挙以降は千秋どころか藤崎もレギュラー出演しなくなり、特に千秋は最終回・ウリナリ祭りでのポケビとしてのゲスト出演以外、いっさいウリナリに出演しなくなった。当時のウリナリ公式サイトには「なんで総選挙以降、千秋が出てないの?千秋が出てないなんてウリナリじゃない」「千秋がいなくなるとポケビ復活はどうなっちゃうの?」等の視聴者からの解散総選挙・事実上の番組のリニューアルに踏み切った番組への批判が多く投稿されていた)。結果的にこの2001年4月20日放送が(藤崎・山川除く)開始当初・さらにさかのぼれば「ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!」時代からの(ビビアン・スー除く)初代レギュラー陣が男女全員ウリナリにそろって出演した最後の回となってしまった。河村アナが「そういう事で、皆さんが揃うのは、最悪の結果、これが最後になるかもしれない」と発言し、まさかこの発言が翌々月以降、現実になってしまうことを当時の旧レギュラー陣は思いもしなかっただろう。このうち、旧男性レギュラーについてはこの翌週以降は5月までウリナリ解散総選挙の選挙活動に専念することになった。

余談だが、この会議までに南原と千秋は番組自体には共にほぼ毎週出ていたにもかかわらず、冒頭に南原が「あれ!?千秋久しぶりだな!!」と発言していた為、実は千秋は暫くの間は内村のロケしか参加していなかった事にようやく気付いた視聴者も大勢いた。

[編集] 2001年10月19日放送

ウリナリ!!がグラチャンをプロデュース。恒例の「タバスコ・ロシアンルーレット」は行われていない。

[編集] 2002年2月15日放送

事実上の最後のウリナリ大会議。この回でウリナリ!!がその年の2002年3月で番組終了が発表され、レギュラー陣が終了に向けてなにをやりたいか、なにかやり残したことなどはないかなどを語り合い、ここでウリナリ最終回「ウリナリ祭り~7年間の総決算~」の開催が決定し、あとにそれが3月11日に東京国際フォーラムで開催され、その模様は2002年3月22日最終回で放送された。ちなみに、ウリナリ大会議恒例となっていた「タバスコ・ロシアンルーレット」もあったが、この回は、いつものように補欠になるのではなく、最終日にレギュラーでウリナリ最後の写真を撮ることになったのだが、タバスコ入りトマトジュースを選んでしまった人がカメラで撮る側に回されてしまうというルールだった。やっぱり敗者はウンナン・内村。

[編集] ウリナリコントライブ

1996年9月~1999年9月には「ランキングキャラクターライブ」として、1999年10月~2000年9月までは「スーパーフライデーナイトライブ」として、2001年6月~2002年2月には「ウリナリライブ 2001」「ウリナリライブ 2002」として番組の最後にエンディングテーマの直前にウリナリレギュラー陣のコントライブを一週に2本行なっていた。

コーナーナレーターはバッキー木場
スーパーフライデーナイトライブ時代で最初はMC制度があり、バッキーの出番はコーナーのタイトルでMCを紹介するのみとなっていた。
しかし、MC制度の後期からMC制度廃止後、バッキーによるユニット紹介が復活した。
ウリナリ祭りでは、番組の全メンバーを紹介するDJを勤めた。

[編集] 外部リンク


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