ウジェニー・ド・モンティジョ
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ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo, 1826年5月5日 - 1920年7月11日)はフランス皇帝ナポレオン3世の皇后。
彼女はテバ伯爵令嬢マリア・エウへニア・イグナティア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック(スペイン語: Doña María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba)として生まれ、結婚にともない、フランス皇后ウジェニー(フランス語: Eugénie, Impératrice des Française)となった。
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[編集] 生涯
[編集] 少女期
ウジェニーはスペイン・グラナダにおいて、テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族(Grandes de España)ドン・シプリアーノ・デ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ(1785年 - 1839年)と、スコットランド人の父とスペイン人の母の血を引くマリア・マヌエラ・キルクパトリックの間に生まれた。ドン・シプリアーノはボナパルト主義者であった。マヌエラの父、クローゼンバーンのウィリアム・カークパトリックは在マラガのアメリカ合衆国領事で、後に大手のワイン販売業者となった。ウジェニーの1つ上の姉マリア・フランシスカ・デ・セラスもまた「パカ」の愛称で知られる。2人は1834年から1838年までパリのサンジェルマン地区ヴァレンヌ街にあるサクレクール寺院女子修道院で教育を受けていた。そこでは彼女は、揺るぎないカトリックとしての教えを受ける。ここは厳格なカトリック教育をすることで知られており、ここでの日々ウジェニーの信仰に大きな影響をもたらした。エウヘニア・デ・モンティホの名はここで学んでいる頃からフランス国内で知れ渡ることになる。
ウジェニー姉妹は家族内ではフランス語を日常語として使い、スペイン語を正式に読み始めたのは12歳のときからである。幼い頃から父に連れられ乗馬をし、時には焚き火をし野営もするような遠乗りに出かけている。水泳も幼い頃から好んだスポーツである。11歳の頃にブリストルにあるイギリス系の学校に姉妹は入れられたが、家庭教師と共に姉妹は脱走してしまう。この頃、メリメの紹介で小説家のスタンダールと知り合っている。母のサロンに2人が現れるとウジェニーたちは彼らの話に夢中になった。メリメはウジェニーの生涯の友となっている。ウジェニーが13歳の時、最愛の父ドン・シカプリアーノは亡くなった。父が亡くなると母マリアとの仲はあまりうまくいかなくなっている。
姉のパカは家族の栄典のほとんどを存続し、1849年に幼馴染の第15代アルバ公ヤコポ・フィッツ=ジェイムズ・ステュアートと結婚した。実はウジェニーはアルバ公に恋をしていた。いつかはアルバ公に嫁ぎたいと願っていたが、母は静かな性格のマリアをアルバ公に嫁がせたのだ。失恋の痛手から男装しマドリッドの町を煙草を吸いながら闊歩したり、裸馬で町を疾走したり、闘牛場に男装して現れるなどの奇行が5年ほど続いた。しかし愛してやまない姉夫妻を友人として認めることにし、生涯の友人となった。カトリックの教えが一時は自殺も考えたウジェニーを救ったのである。
[編集] 美しきテバ女伯
ウジェニーは21歳の時に亡き父の持っていた多数の称号を受け継いだ。1853年に結婚するまでは「テバ女伯」あるいは「モンティホ女伯」などの称号を色々使用していた。しかし、家族の称号の中には法的に姉が相続し、アルバ家に渡ったものもある。父の死後、ウジェニーは第9代テバ女伯になり、『ゴータ年鑑』(Almanach de Gotha)にその名が載った。ウジェニーの死後、モンティホ家の称号の全てが、フィッツ=ジェイムズ家(アルバ公およびベルウィック公)の下に渡った。
この頃、ウジェニーはフランスの社会主義理論家のシャルル・フーリェが提唱する独自の社会主義思想に傾倒してゆく。元々フランスで学んでいた頃から社会主義思想に興味を持っていたウジェニーだが、25歳になる頃にはこの考えにはついて行けなくなっていた。
父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになる。
1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Président)主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。
1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。それまでの短い間に、ナポレオン3世はカロラ・フォン・ヴァーサ(スウェーデンの廃王グスタフ4世アドルフの元王太子ヴァーサ公の娘、後にザクセン王アルベルトの妃となる)、さらにヴィクトリア女王の異父姉フェオドラの10代の娘アーデルハイトとの縁談を断わっていた。
[編集] 論争を呼んだ結婚
1月22日の玉座からの演説において、ナポレオン3世は公式に彼自身の婚姻を発表した。いわく「朕は朕のことを知らない女性よりも、朕が愛し、尊敬できる女性を望んできた。彼女によって同盟はいくらの犠牲を混ぜつつ優位を有し続けることになるであろう」
1月29日にテュイルリー宮殿で2人は公使らに見守られ結婚式が行われた。翌日にはノートルダム寺院でパリ大司教の元に結婚式がもう一度行われた。フランスにとって外国から妃を迎えるのはルイ16世以来のことであった。
いわゆる、「愛の駆け引き」はイギリスのいくつかの風刺的なコメントによって見上げられた。『タイムズ』誌は以下のような事を書いた。「わたしたちは、フランス帝国の年代記におけるこのロマンティックな出来事が以後最も強い反対と呼ばれてきたことを学び、極度の苛立ちを刺激した」と。ヴィクトリア女王も「下品で気がきかない縁組」と公式にコメントしている。
皇帝一族、内閣、そして宮中の下層グループやその隣人たちでさえ、誰もがこぞってこの結婚を驚きべき恥辱と認識するふりをした。多くの称号と伝統ある血統を受け継ぐ26歳のスペインの伯爵令嬢だが、彼女はボナパルト家に十分にふさわしいとは思われなかった(ボナパルト家も2代前まではコルシカの小貴族にすぎなかったのであるが)。
1855年、イギリス王室からの招待で、皇帝と共にイギリスを公式訪問した。結婚を反対されたヴィクトリア女王らと会うのが非常に気がかりであったウジェニーであるが、この公式訪問は大成功に終わった。クリミヤ戦争における同盟関係を結び、ウジェニーはヴィクトリア女王から非常に気に入られ、2人は生涯の友人となった。ウジェニーは公式訪問の際にヴィッキー王女(女王の長女ヴィクトリア、のちのドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着させるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮している。ヴィクトリア女王からは画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、多くの肖像画を残している。翌年のパリ万国博覧会にはイギリス訪問のお礼に、イギリス王室の人々をフランスに招待した。1856年3月16日、ウジェニーは皇子を生んだ。ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン4世)である。
ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献した。彼女は、パウリーネ・メッテルニヒと大変親密な友人関係を持っていた。パウリーネは在フランス・オーストリア大使の妻であった。フランス宮廷での彼女は社会的、文化的生活に重要な役割を演じる。
ウジェニーが1855年に着けた新しい骨組みのクリノリンは、ヨーロッパの宮廷ファッションに流行を巻き起こした。そして彼女が、1860年代の終わりに大きなスカートを捨てると、彼女の伝説めいた宮廷人シャルル・ワースの奨励によって、ウジェニーのファッションは再び流行となった。
ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さおよび伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家フランツ・ヴィンターハルターによって記録されている。ウジェニーのマリー・アントワネットの生涯への興味は、ルイ16世の頃に人気があった新古典様式の家具とインテリアデザインが宮廷の装飾に多用された。 「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后を心配する人々もいた。
煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響があった。1866年には女性を初めて電報局で雇用している。
ウジェニーはフランスで教育を受け、大変知性があったので、ナポレオン3世ははよく重要な問題を彼女に相談していた。そして1859年、1865年および1870年の皇帝の留守の間、彼女は摂政として行動した。カトリックで保守的なウジェニーの影響力は、帝政のあらゆるリベラル勢力と対立した。彼女は、イタリアでの教皇の世俗権力の忠実な守護者であり、ウルトラモンタニストであった。このためウジェニーは憎まれ、しばしばフランスの反教権主義者によって中傷された。
[編集] 普仏戦争以後
普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(Chislehurst)に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンボロー(Farnborough)にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語でコルシカを意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。
ウジェニーは1920年7月に死んだ。94歳であった。アルバ公を訪ねてスペインのマドリードに滞在していた際の死であった。彼女はファーンボローの聖マイケル修道院 (St Michael's Abbey) に、夫と、1879年にアフリカのズールー戦争で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌともに埋葬された。
ウジェーヌは様々な親戚に財産を遺した。彼女の不動産はアルバ家に嫁いだ姉の孫が相続した。ファーンボローの別荘は全てのコレクションともに、夫の従弟ナポレオン公の息子、「ナポレオン5世」ことナポレオン・ヴィクトル・ボナパルトが相続し、Cyrnos荘はさらにその妹レティティアに渡った。動産はランスの大聖堂再建委員会に譲渡された10万フランを除いて、近親者に与えられた。
ウジェニーの没落した家族の友好協会は、1887年にイギリスで、彼女がヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ(後にスペイン王アルフォンソ13世の妃になる)の代母になった時に結成された。バルモラル城で生まれたヴィクトリア・ユージェニーは、スコットランドの長老派教会の洗礼を受けていて、この洗礼は初期のエキュメニズムの例だった。1世紀後、1990年に生まれたヨーク公アンドルーの次女はユージェニーと命名された。
皇后は宇宙にも記念されている。小惑星ウジェニアは彼女にちなんで命名され、その衛星プチ=プランスは彼女の息子にちなんで命名された。
[編集] 称号
- Doña Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick (誕生時から、父の死まで)
- Her Excellency Doña Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick, 9th Countess de Teba (父の死亡時から、彼女の結婚まで)
- Her Imperial Majesty The Empress of the French (1853年-1871年) as well as Her Imperial Majesty The Empress-Regent during several periods (including Italian, Crimean and Franco-Prussian wars)
- Her Imperial Majesty Empress Eugénie of the French (1871年-1920年)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
翻訳の際、参考にしたもの。
- 窪田般彌著『皇妃ウージェニー ― 第ニ帝政の栄光と没落』(白水社Uブック、白水社、2005年 ISBN 4-560-72081-9 c0222、単行本は1991年刊行)
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