ウィリアム・ウェブ
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ウィリアム・ウェブ(Hon. Sir William Flood Webb KBE、1887年1月21日 - 1972年8月11日)は、オーストラリアの裁判官、オーストラリア最高裁判所判事。極東国際軍事裁判裁判長。ブリスベン生まれ。
[編集] 略歴
- 「セント・メリーズ校」(St Mary's School, ウォリック)、クイーンズランド大学(法学)で学ぶ。
- 1913年6月13日 クイーンズランド法廷 (Bar) に着任する。
- 1915年 クイーンズランド州公選弁護人に就任。
- 1917年3月17日 サンドゲイトの聖心教会で、ビアトリス・アニューと結婚。
- 1922−1925年 クイーンズランド州法務次官(法務長官の次官)を務める。
- 1922−1927年 コモンウェルス調停仲裁法廷(Commonwealth Court of Conciliation and Arbitration)裁判官に就任。
- 1925−1945年 クイーンズランド調停裁判所の会長を務める。
- 1925年 クイーンズランド最高裁判所裁判官に就任。
- 1940年−1946年5月16日 クイーンズランド州最高裁判所長官(首席裁判官)を務める。
- 1943年 オーストラリア政府により、第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の調査担当に任命される。
- 1944年 ロンドンで国際連合戦争犯罪委員会にレポートの報告。
- 1946年5月16日-1958年5月16日 オーストラリア最高裁判所裁判官に12年間在任。
- 1948年11月12日 極東国際軍事裁判 (IMTFE)開始から2年以上を経て、全員に有罪判決が下る。なお、この裁判でウェブが裁判長を務めたことに対し、前記オーストラリア政府から日本の戦争犯罪の調査担当に任命されたことを理由として弁護団より裁判官忌避の申し立てがなされている。
- 1954年 大英帝国ナイトの称号を授勲。
- クイーンズランド大学より、名誉法学博士号を授与される。
- 1972年 ブリスベンで死去。85歳。
キャンベラのベルコネン地区にある「ウィリアム・ウェブ通り」(William Webb Drive)は、彼の名にちなんでつけられた。
[編集] 反日家
ウェブは反日家として知られ、終戦後の1945年9月に、オーストラリア政府の依頼を受け、1942年に日本軍がニューブリテン島ラバウルへの攻撃に際して、150名以上のオーストラリア人及び原住民を殺害したとされる報告書を、現地調査を行ったうえで発表した。天皇の訴追を主張していたオーストラリア政府は、彼を代表判事に選ぶことにより、天皇を法廷で裁くという意思を表示したものと考えられる(法律上の観点から見ると、本来事件の告発に関与した者は、その事件の裁判官になることはできないのだが)。
そのような彼の意向は法廷における訴訟指揮においても現れた。裁判の開会の辞においては「被告達は嘗て、如何に重要な地位にあったにしても、それが為に受ける待遇は、最も貧しい日本兵、或いは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由は見当たらない」と、日本の戦争指導者に対する敵意を露にした。裁判も、検察側に有利になるように進められるケースが多々あり、検察側に不利な発言や意見が弁護側から出されると、裁判長の訴訟指揮権を行使して、遮ったり却下するといった場面がしばしば見られた。最も有名なのが、アメリカ人弁護人のブレイクニー及びファーネスの「事後法で人を処罰することは出来ない」といった旨の弁論に対しても、「全ての動議を却下する。その理由は将来闡明にする」として裁判を続行させたケースである。法の不遡及は法の一般原則とされており、(成立過程が独特な国際法上においても、必ず要請されるべきか否かは議論のあるところだが)これを検討することなく却下したことは訴訟指揮上大きな問題とされる。ただ、これは先に開始したニュルンベルク裁判の訴訟経緯を踏まえた決断とも考えられる。
また、前述の通り、天皇を法廷に立たせるべきとの見解を持っていたことから、天皇を戦犯にせず、占領政策に利用する意向を決定していたマッカーサーの命令を受け、裁判を天皇に責任が無いという展開に進めることを意図していたキーナン首席検事とは、激しく対立していた(天皇の件以外でも、1946年9月5日の、満州・華北における日本のアヘン政策の検事側証人として出廷した森岡皐陸軍中将を巡る件でも、火花を散らす場面があった)。
オランダのベルト・レーリンク判事の証言によると、ウェブは酒気を帯びた状態で法廷に来ていた事もあったという。
[編集] 参照
- "Fact Sheet 61 - World War II war crimes" National Archives of Australia. 2005年1 December閲覧.
- "John Latham in Owen Dixon's Eyes" The Samuel Griffith Society. 2005年1 December閲覧.
- "Guide to the papers of Sir William Webb" Australian War Memorial. 2005年1 December閲覧.