アヴィニョン
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アヴィニョン | |
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国 | フランス |
地域圏 (Région) | プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 |
県 (département) | ヴォクリューズ県 (県庁所在地) |
郡 (arrondissement) | アヴィニョン郡 (郡庁所在地) |
小郡 (canton) | 4小郡庁所在地 |
INSEEコード | 84007 |
郵便番号 | 84000 |
市長 任期 |
マリー=ジョゼ・ロワグ 2001年-2008年 |
面積 | 64,78 km² |
人口 | 89 300 人 (2005年) |
人口密度 | 1 326,6 人/km² |
アヴィニョン(Avignon)は、フランスの南東部に位置する都市で、ヴォクリューズ県の県庁所在地である。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] ローマ帝国時代から伯公時代まで
ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス属領の主要都市の一つ。5世紀に蛮族の侵入によって荒廃した後、737年にカール・マルテル率いるフランク人によって滅ぼされた。カール・マルテルが戦っていたアラブ人の側についたことによるもの。後、ブルグント王国、ついでアラス王国領となる。中世末のカタリ派運動のなかではカタリ派を支持。12世紀末、都市は独立を宣言し共和制をとる都市国家となるが、長くは続かず、1226年ルイ8世によって占領され、武装解除された。カタリ派を支持した街への処罰として、市の城壁は破壊された。アヴィニョンはプロヴァンス公領、次いでトゥールーズ伯領となった。
キリスト教が入ったのは早く、70年に司教座が置かれた。1309年にクレメンス5世がアヴィニョンを居城に定め、1377年までローマ教皇庁所在地とした。1426年に大司教座がおかれた。1303年にアヴィニョン大学が開かれ、フランス革命まで続き、法学で知られた。
アヴィニョン捕囚時代の半ば、1348年に領主プロヴァンス女公ジョアンナから教皇クレメンス6世に市が売却された。以後、フランス革命で没収されるまで、教皇領となった。何人かの対立教皇はアヴィニョンに教皇座をおいている。
[編集] アヴィニョン捕囚時代
1305年、教皇に選出されたボルドー大司教がクレメンス5世としてリヨンで即位した。フランス人教皇誕生の背後にはフランス王フィリップ4世の強い影響力があった。アナーニ事件などで教皇を威嚇していたフランス王フィリップ4世の意志を受けたクレメンス5世はローマに戻らず、枢機卿団と共にアヴィニョンに滞在し、ここに教皇庁の移転を宣言した。これがいわゆる「アヴィニョン捕囚」(教皇の「バビロン捕囚」)である。
こうして1309年にクレメンス5世がアヴィニョンに居を定めて以来、1377年にグレゴリウス11世がローマに戻るまで、7代69年間に渡ってこの「捕囚」が続いた。この間、事実上の「キリスト教界の首都」となったアヴィニョンには、教皇庁宮殿、現在はフラ・アンジェリコやボッティチェリの「聖母子」を収蔵するプティ・パレ美術館として利用されている大司教館など当時の建築が数多く残り、その辺りの地区はアヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録された。
[編集] アヴィニョンの橋
また、童謡『アヴィニョンの橋の上で』で知られるサン・ベネゼ橋(Pont St. Bénézet)も有名。橋の上で輪になって踊ろうと歌われているが、実際は、踊れるほど安全な橋ではない。渡ることさえ危険なときもあり、橋から転落し命を落とした者さえいる。ローヌ川の度重なる氾濫により何度も橋が崩壊、その度に修復を強いられ財政を圧迫した。17世紀には遂に修復を断念、22あった橋脚のうち、現在は4つのみが残っている。
[編集] 文化
1947年にジャン・ヴィラールJean Vilarによって始められたアヴィニョン演劇祭は、毎年夏、世界各地から集まった団体が、約1か月間にわたり街のいたるところで演劇、舞踏、音楽、映画などを発表する。2002年には580、2004年には667の団体が参加した。2003年はストライキのため公式には中止されたが非公式に多くの催しが開かれた。
[編集] 観光
アヴィニョン市内
- アヴィニョン歴史地区
- 時計台広場
近郊
- ポン・デュ・ガール(世界遺産に登録されているローマ水道橋)
[編集] 姉妹都市
[編集] 出身有名人
- ジャン・アレジ:F1ドライバー
- ピエール・ブール:小説家
- ミレイユ・マチュ:歌手
- オリヴィエ・メシアン:作曲家
- クロード=ジョゼフ・ ヴェルネ:画家
[編集] 関連項目
- アヴィニョン (小惑星)(アヴィニョンに因んで命名された)