アレクシス・カレル
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アレクシス・カレル(Alexis Carrel、1873年6月28日-1944年11月5日)はフランスの外科医、生物学者。1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
フランスのリヨンで生まれ育ち、フランス及びアメリカ合衆国(シカゴ大学及びロックフェラー研究所)で学んだ。彼は、血管縫合の新しい技術を開発し、移植及び胸部外科のパイオニアとなった。彼はアメリカ合衆国、スペイン、ロシア、スウェーデン、オランダ、ベルギー、フランス、バチカン、ドイツ、イタリア、ギリシャの学会の会員であり、また、ベルファスト大学、プリンストン大学、カリフォルニア大学、ニューヨーク大学、ブラウン大学、コロンビア大学から名誉博士号を受け取った。
彼は、チャールズ・リンドバーグと「The Culture of Organs」という本を共同執筆した。
1912年1月17日、彼はニワトリの胚の心臓の一部を、彼が設計した栓がされたガラスのフラスコの中の新鮮な栄養培地の上に置いた。48時間ごとに組織は二倍の大きさになり新しいフラスコに移された。組織は二十年後にも成長していた。これは鶏の寿命よりも長い。第一次世界大戦中、彼とイギリスの化学者ヘンリー・D・デーキンは、カレル-デーキン法という消毒法を開発した。これは、抗生物質の開発に先立ち、多くの生命を救った。これに伴い、彼はレジオンドヌール勲章を授与された。
晩年、カレルは「人間 この未知なるもの」というベストセラーを書く。これは、選りすぐりの指導階層の形成を確保することで、そして優生学の分野で当時流行した、選択的優秀者教育を行うことで、弱者を含む社会全体をより良くするという趣旨のものであった。彼は社会的弱者の過保護を容認せず、精神薄弱者・犯罪者を生み出す元凶として社会組織の巨大化と画一化を挙げ、徒な大衆化は却って指導者たるべき人物の発達を阻害すると主張した。第二次大戦後、祖国へ貢献する為に66歳の高齢をおしてフランスへ帰国し、最初子供に及ぼす栄養不良の影響の研究機関を設立しようとしていたが、財政援助が得られず挫折した。
フランスがヒトラーに降伏し、ヴィシー政権が樹立するや、彼は首相・ペタン元帥の許可を得て、ナチス占領下のパリに、フランス人間問題研究財団を設立した。ここでは彼の指揮の下で、全ての人間に関する問題の総合研究を志した。しかし占領下の条件の悪さの為と、周囲の同じ祖国の人からナチス崇拝者の噂も立ったためか3年しか持たず、彼は財団の運命に伴うように亡くなった。享年71.
[編集] 著書
- 『人間-この未知なるもの』 桜沢如一訳、岩波書店、1938年8月。原著 Man,the unknown, 1935
- 『人間-この未知なるもの』 桜沢如一訳、角川書店、1952年9月。
- 『人間 この未知なるもの』 渡部昇一訳、三笠書房《知的生きかた文庫》1992年5月。ISBN 978-4837905110。
- 『熱き想いの日々-遺された天才の断章』 中条忍訳、春秋社、1984年10月。
- 『人生の考察』 渡部昇一訳、三笠書房 、1981年11月。原著 Reflections on life, 1952
- 『生命の知恵』 杉靖三郎、大竹健介訳、日本教文社。1957年。
- 『ルルドへの旅』 稲垣良典訳、エンデルレ書店。1958年。
- 『ルルドへの旅・祈り』 中村弓子訳、春秋社。
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