桜沢如一
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桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、1893年10月13日 - 1966年4月23日)は、思想家・食文化研究家。
マクロビオティックの提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Ohsawa)の名で知られている。
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[編集] 経歴
京都府の貧しい武士の家庭に生まれる。貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、石塚左玄の「食養生」に触れ健康を回復する。その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。1924年には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウム・カリウムのバランス論」を易経の陰陽に当てはめた無双原理を提唱。1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリのVrin社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。1937年に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。 1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている。
後進の育成にも努め、無双原理講究所の後身である真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、奥山治、久司道夫、大森英桜、岡田周三、菊池富美雄らが育った。