アレクサンドル・コルチャーク
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アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・コルチャーク(ロシア語:Александр Васильевич Колчакアリクサーンドル・ヴァスィーリイェヴィチュ・カルチャーク、1873年11月4日(グレゴリオ暦11月16日) - 1920年2月7日)は、ロシア帝国の軍人・政治家、白軍(白衛軍)の総司令官である。
[編集] 概要
サンクトペテルブルクの海軍軍人の家に生まれた。海軍幼年学校を二番の成績で卒業した。1894年、海軍尉官補となり、一等装甲巡洋艦「リューリク」に配属された。1896年末には、二等巡洋艦「クレーイセル」の当直士官に任命された。1900年には、エドゥアールト・トーリの北極海探索に参加し、調査船「ザリャー」の指揮を取った。
日露戦争開戦時には病気を煩っていたが、前線勤務を志願した。当初、艦隊装甲艦「ペトロパヴロフスク」の指揮を任命されたが断り、優速の一等防護巡洋艦「アスコーリト」への任官を志願した。その数日後、「ペトロパヴロフスク」は日本海軍の敷設した機雷に触れて沈没、コルチャークは九死に一生を得た。こののち、コルチャークは水雷艇「セルジートィイ」の艦長として旅順防衛に参加した。セルジートィイにて敷設した機雷で日本海軍の防護巡洋艦「高砂」を撃沈、聖アンナ勲章を受けた。旅順開城後捕虜となり、長崎の捕虜収容所に収容されるが、病気のためカナダ経由で本国へ送還された。
1906年、海軍参謀本部に入り、戦後壊滅した海軍の再建に尽力した。統計班長として、バルト海での作戦計画の立案を指揮した。第一次世界大戦勃発時には、艦隊水雷艇「ポグラニーチュニク」の指揮を取っていた。1915年2月にはフィンランド湾の機雷作戦を指揮して成功を収め名声を得た。1914年から1915年の間に、コルチャークの指揮した機雷戦にてロシアは4 隻のドイツ帝国の巡洋艦(但し、このうち2 隻は潜水艦「E-9」による撃沈とも言われる)と8 隻の駆逐艦、11 隻の輸送艦を沈めた。1916年海軍中将、黒海艦隊司令長官に任命された。二月革命後、帝政派から臨時政府派に乗り換え、訪露中のアメリカ海軍少将、グレーンに取り入り渡米。その帰国途中日本の横浜港に着いた時十月革命の勃発を知り、2ケ月半日本に滞在した。この間日本軍部、イギリス政府と接触している。
その後イギリスの後援でオムスクに樹立された反ボルシェヴィキ政府の陸海軍大臣となった。しかし、直後にクーデターを起こして政権を奪い、ウラル以東のほぼ全域に軍事独裁体制を敷いた。ロシア内戦中にはアントーン・デニーキンと同様に白軍として連合国からの援助を受けたが、赤軍に敗れ急速に力を失い、1919年末までにオムスク政権は事実上崩壊した。コルチャークはシベリアへ逃亡を図るが追いつかれ、味方であるチェコ軍団に裏切られて赤軍へ引き渡された。イルクーツクの軍事革命委員会により、1920年2月7日、アンガラ川のほとりで銃殺された。